4.1.1.乱れる世界
アラ「なにかおかしい」
西へと歩みを進めつつ、彼は違和感を覚え始めた。
神界の空気は清らかであった。それでもそれは現世と比べてであって、女神の世界に相応しい絶対的な浄寂とは言えなかった。穢れた塵埃など大気に混じっているはずがない。それでもどこか、心を圧迫するような、空気は重く感じられた。
日差しは朗らかに注がれていた。それでも何故か薄暗い闇がちらついて、眩暈を起こすか、既に起こしているかのようだった。
空は晴れ渡っているように見えても西の地平線には雲が残り、日輪が上天に昇っているのにも関わらず、そこには未だ夜が留まっているようだった。
鼻先をくすぐる薫風も、香りは失せてむしろ枯れたような匂いがしていた。腰を落として草を触ると、輝かんばかりの瑞々しさは衰えて、萎えているようにすら感じられた。
アラ「思えば」
いつも天上から降り注いでくる神鳥の啼き声も今では聞こえない。
本当にここが神界なのだろうか。景色としては綺麗ではある。しかし何となく気分が落ち込む。そんな空気が漂っていた。
妙な雰囲気に落ち着かず、西へと急いだ。
西の雲が膨らんだかに見えた。それが広がって行くように見えた。雲の端が千切れ、無数の粒となって散った。
無数の粒は幾つかの塊となって空を流れた。彼の頭上も通り過ぎた。
また別の塊が低空を飛んだ。アライソはそれが何であるかをじっと見た。鳥の群だった。鳥の群が西の雲を起点にして、放射状に飛び渡っていた。鳥の群は複数の灰色の塊となり、甲高い声を上げながら空を横切って行った。
一つの群が真正面から向かって来、アライソにぶつかりそうになった。彼は咄嗟に身を屈めて頭を腕で庇ったが、それは辛うじて脇へと逸れた。
横切る瞬間、彼は身を守りながらも観察し、その鳥が何であるかを見極めた。
アラ「ホトトギス」
嘴を千切れるほどに広げ、真赤な口を見せていた。それはあたかも彼に、世界に、自分の口腔を見せ付けて、貪欲に吞み込もうとしているかのようだった。
アライソは立ち上がり、上空を流れる幾つもの鳥の群に逆らって西へと向かった。
トトッコッ。トトッコッ。
アラ「ホトトギスの声は鳴り止まず」
空から落ちる鳴き声は延々と響いて耳に残り、気がおかしくなりそうだった。
それでも彼はじっと堪えて西へと向かった。
次々と群の湧き出る雲の下に、一つの点が現れた。それは少しずつ少しずつこちらに向かって来るようだった。
ふらふらと揺らぎながらも確かにそれはこちらへと歩いて来た。
アライソはそれが神人だったと漸く分かった。覚束ない足取りで、時折髪を打ち振りながら、こちらへ歩み寄って来た。
不吉な鳥の飛び狂う空の下でふらつく様子にアライソは神人の元へ駈けて行った。
その神人は紬を着た女だった。頭を揺らし、腕をぶらつかせ、足を絡ませるようにして歩いていた。着物は襟元が弛んで鎖骨の下まではだけていた。帯は巻かれているものの締まってはおらず、裾も地に引き摺っていた。
不意に彼女は顔を仰向け、空の鳥に何かを叫んだ。おそらくは「うるさい」と怒鳴ったのだろう。
アライソは彼女の元に辿り着くと思わず肩を掴んで揺すった。
アラ「大丈夫ですか!」
彼女は首を傾けて、ゆっくりと彼へ目を向けた。その目は焦点が合っておらず、どこか靄が掛かっていた。
神女「大丈夫か? 大丈夫かだと? 貴様の方こそ大丈夫なのか?」
声だけははっきりしていた。
神女「貴様は汚い変な格好をしている。正気とは思えん」
乱れた姿の彼女が言った。
神女「それから醜いし、臭い! さては貴様は向こうの世界から来た奴だな」
アライソは肩から手を放して俯いて、
アラ「ええ……。私は娑婆世界から来た者です」
神女「おお! そうであったか! いや失敬!」
そうして、けたたましい笑い声を上げたかと思えばすっと治まり、眼光を鋭くし、
神女「で、その何とかいう世界から来た貴様がどこへ行く」
アラ「私は西の果てへと向かっているところです。そこで鎮西軍へ伝言が」
神女「なるほどな。我に会いに来たのか。よし、聞いてやる!」
アラ「いえ、違います。私は西方守護の神軍に。貴女ではありません」
神女「いいや! 我だ! 鎮西軍へ行くのだろう!」
アラ「はい、そうです、ですから」
神女「だから我だ! 見て分からぬか? これだから分別のない者は困る。この我こそが、西方守護大将、鎮西将軍、鹿原であるぞ!」
具足を身に付けていないどころか着物を引き摺り、体の軸も安定していない、顔付も呆けた女がそう言った。