3.3.6.比翼塚
アライソはまじまじとミルメの岩を眺めた。その岩は悲しさと諦めを滲ませた瞳を海の向こうへと真っ直ぐに向けて、それでも優しい口元に淡い希望を浮かべていた。生きていた頃と寸分変わらない。可憐な少女のままだった。初めて会った時の魅力はこの姿になっても留めていた。
それでも彼女は永遠の岩となった。二度とは戻らない。
アラ「それで、貴方々は」と、ぽつりと。話を逸らしたいかのように。「何をなさっているのですか」
船1「私達はせめてミルメさんを慰めようと祀っていたのです」
船2「足元に小さな杭を打ち、そこに五色の紐を通して巡らせ」
石像の足元には船人が言ったように、小さな杭が周りを囲んで四本打ち込まれ、杭の頭には小さな環が付けられて、そこに青、赤、白、黒、黄色の五本の飾り紐が通されて四方形を描いていた。
アラ「ミルメさんは、永遠に、この姿のままなのですね」
船1「ええ、この世界の終りまで。たとえどんなに悪いものでも、こうして祀られているからには手出しはしないでしょう。……そうであって欲しい」
船2「それでも神界をも侵したほどの者ですから。……」
ささやかであっても綺麗な紐で飾られた彼女の像は、白い衣を靡かせながら、神々しくすら見えた。その像にはアライソであっても、尊いものと知りながら何度もこの世界を傷付け盗みを働いていた彼であっても、触れられないものに感じられた。
オモ「彼女は海を見守って、永遠に神軍の無事を、この世界の平和を祈ってくれる」
恋人だった男が口を開いた。その目は切実だった。
オモ「世界のための、気高く篤い志。尊い勤めだ。崇高な、尊敬すべき女性だった」
彼はよろよろと、一歩、歩み寄った。
オモ「知っていた。ミルメが、君が、素晴らしい女性だったのは、よく知っていた」
二歩、三歩と更に歩み寄った。
オモ「しかし、ああ、それでも、私が軍へと志願したのは、ミルメ、君の生きる世界を守りたかったからなのだ。君が楽しく朗らかに喜んでいられる世界を、世界が君にとって幸せなものであるようにしたかったからだ」
正面に立ち、顔と顔とを突き合わせた。オモトは一心に見詰めているが、彼女の瞳には、もう彼は映らない。
オモ「龍は去った。ミルメ、君の望んだ平和は戻ったぞ。それでも君は戻らないのか」
木石に声は届かない。
オモ「ミルメ、どうして君は岩になってしまったのだ。いつ元に戻るのだ。私はただ、もう一度、君と話がしたい。私を見てくれ。声を聞かせてくれ。いつものように笑ってくれ」
記憶の中の彼女ではなく、
オモ「今ここで生きている彼女に会いたい。一目見たい。ただもう一度でいい」
彼はもはや周囲を意識していなかった。船人もアライソもまた彼に話し掛けることはなかった。
オモ「こんなことなら街に戻って来た時に、そのままずっと残れば良かった。退役の届を出して、君とここで暮らせば良かった。
間もなく龍は来ただろう。軍は壊滅しただろう。私一人の働きが足りなかったがために龍は去らずにこの街にまで来たかも知れない。それでも世界の終わるその時まで、君に寄り添っていれば良かった。
もしも龍が襲って来たのなら、私一人ではこの街は決して守れまい。それでも私は君と一緒に死ねば良かった。
遠く離れて守る力よりも、近くで滅びる愛を求めるべきだった。
私は不肖ながらも仲間内では群を抜いた力を持っていた。だがそれが何だったのだろう。君と離れて、君は岩になってしまった。
どうして私は軍に戻ってしまったのだろう。君のためなら、どんなことでも出来たはずなのに」
彼は手を伸ばし、頬に触れた。
オモ「ミルメ。私も君と一緒になろう。今度は、二度と離れないように。永遠に一緒にいられるように」
長い長い息を吐いた。身体の内にあるものを全て吐き出すような長い長い息だった。それが終わると彼は振り向いて、
オモ「アライソ殿。どうか頼みを聞いて欲しい。私に托されていた使命、鎮西軍への伝達を貴公が引き継いでくれないだろうか。貴公であれば信じられる。私の使命を托すに足る人物であると信じている。西へ。西軍へ。どうか」
アラ「西へ行くのは構いませんが、貴方は?」
オモ「私はここに残ります。貴公が西へ行って下さるならば、私の任務は終わりです。貴公が引き受けて下さるならば、任務は遂げられたのと同じことです。私の使命は果たされます。
私の兵士としての役目はこれで成し遂げられました。軍を退役しましょう。そしてここに残ります。ミルメと共に。ですからどうか、お願いいたします」
アラ「貴方は、ここに残る」
オモ「ええ。もう二度と彼女と片時たりとも離れません」
アラ「そういうことでしたら。分かりました。引き受けます。鎮西軍への伝使の役を引き受けます」
オモ「ありがとうございます」
そう言って彼はミルメの岩を囲む飾り紐の内に踏み入って、彼女の頬に両手で触れ、じっと見詰めた。それから横に並んで立ち、岩の肩に片腕を回して抱き寄せるようにした。彼もまたミルメと同じように海の向こうへ、遠く水平線のその先へ視線を送り、果てのない時間の彼方を眺めた。
一言何かを呟くと、オモトの姿は見る見る内に岩へと化して、一つの呼吸もしない内に、不動の岩へと成り変わった。
ミルメとオモトの岩像は共に寄り添い一つとなって、鑿でも楔でも断ち切れない、二人で一つの巌となった。
硬く結ばれたその一つの岩は、同じ場所に留まって、同じ方向を向いていた。彼らは、この岩は、自らが望んだように、世界の終わるその時まで、永遠にこの岬に残るのだろう。