2.1.3.本能
林立する火柱の影から断末魔が響いて来た。有り得べからざる光景を前にしてアライソは放心し、燃え盛る村へと踏み入った。
街路には神人の死体が点々と転がっていた。未だ炎に焼かれて赤くなっているものもあり、焼け焦げて黒くなっているものもあり、これから焼かれる白い肌を見せているものもあり。焼死したものもあり、刺殺されたものもあり。しかしどれもが身軽な薄衣を着た無垢な村人だった。
塵一つなかったはずの道は灰に覆われて、その先で喚声が上がった。腹の底を押し潰すような重々しい鯨波の声だった。
ようやく意識が動き出すと、村人を助けなければいけない、そうした想いに駆り立てられて駈け出した。駈け出していた。尊ぶべき愛すべき神人達を助けなければならない。
人間とはおかしな生き物で、悲惨な状況を見るとそれが自分と無関係であったとしても、何かをしなければならないという激情に駆られる。誰でもそうだ。被災地に足を踏み入れればどんな凡庸な者であっても被災者を救けなければいけないという衝動に突き動かされる。
アライソもまたそうした平凡な人間の一人だった。ましてやここは彼が生きる意味ともしている美しい場所だ。人間の他者を救援したいという本能に、自らの生存意義を守る情動が注がれた。
彼の脚は意思も混じらず動き続けた。村を襲撃した武者達がその先にいるのは分かっている。だから走った。身の危険を考えるだけの冷静さは頭に残っていなかった。ただ急いていた。
向かったところで自分に何が出来るとも考えてはいなかった。喧嘩もろくにしたことのない自分が武装した兵士と相対してどうしようとも考えてはいなかった。何も考えていなかった。藁のように斬り殺されるだけではないか。無意味に屍を晒すだけではないか。そんなことは脳裏を過ぎりもしなかった。
そもそも何故この村は燃やされているのか、無辜の神人がどうして襲われ殺されているのか。そんな思考は回りもなかった。
ただ体が、思考の混ざらない純粋な意志のみが彼を動かしていた。神人達を助けなければならない。
家屋の角から一人の神人が飛び出して彼にぶつかった。よろけ、転んだ神人は彼を見上げた。眉目の優れた女だった。彼女は雨に降られた白蓮のように麗しく、握れば潰せてしまいそうだった。その瞳は恐怖に潤んでいた。
神人から見れば人間であるアライソの姿は炎を背にした醜い魔物だった。
彼女は恐怖し、わなわなと震えてもはや立ち上がることも出来なかった。決して死は受け入れていない、それでも身体は動かず、戦慄が心を縛めていた。
神女の姿に思わず見惚れていたアライソの視界の端にきらりと光が差し入った。振り向くと、家屋の角から煌びやかな甲冑の兵士が駆け寄っていた。光は甲冑の反射だった。そしてその手元からは一筋の曙光のような槍が伸び、穂先が転んだ神人に向かっていた。
アライソは咄嗟に旅袋で彼女を庇った。槍は袋をかすめた。袋は斬り裂かれて中身が飛び散った。現実世界の食料が宙を舞った。辺りには神界には存在しない臭気が充満した。兵士はうっと顔を顰めた。
その隙。アライソは彼に躍り掛かって押し倒し、馬乗りになった。兵士は正気を取り戻したが、既に遅くアライソの凶相をただ見上げるばかりだった。
兵士の兜を無理に剥ぎ取り、顔面に拳を叩き下ろした。骨の割れる感触が拳骨に伝わった。兵士の顔は血も流さずに凹んでいた。アライソはもう一方の拳で再び殴り付けた。その手を引くと更にもう一撃。無我夢中で殴り続けた。
肩で息をし、興奮の冷めやらぬまま彼は後ろを振り返った。そこに神女はいなかった。彼が兵士を殴っている間に逃げ出したのだろう。心の底から安堵した。しかしそこには一抹の寂しさも混じっていた。それから、
アラ「足下の兵士に向き直り」
首から上が潰されて、頭の形をなしていないものを見た。血は一滴も流れていなかった。兵士もまた神人だった。神人には肉体がないために血も流れなかったのだろう。
アラ「知る切っ掛けもなかった。知る必要もないことだった」
本来であればこの世界の住人は擦傷一つ付くことがないからだ。先程の彼女のように泣くこともない、怯えることもない。柔らかな喜びだけを感じて生きていた。
彼は唇を噛み締めた。
周囲では轟々と炎がうねりを上げていた。音と熱とが彼を責め立てた。感傷に浸っている暇もなく、立ち上がった。
辺りを見回して誰もいないのを確認すると、アライソは兵士の持っていた槍を拾い上げ、また街路を駈け出した。