3.2.14.彼女への答え ②
瀬羅はマンションにいた。インターホンを押し、オートロックが外され、エレベーターに乗って部屋の前まで行った。扉を開けた瀬羅は驚いたような顔をした。
──今日は仕事じゃなかったの?
──うん、まあ、ちょっとあって、今回はやめた
彼を迎え入れてソファに座らせた。自分はキッチンへと行き、何を飲むかを聞いて来た。
彼女に告げる言葉を考えれば辛かった。アルコールの勢いも借りたい。だが、酔っているとは思われたくなかった。水を頼んだ。
瀬羅はよく磨かれたグラスを二つとミネラルウォーターのペットボトルを持って来た。
隣に座り、水を注ぐと自分のものに口を付けた。唇は湿り気を帯び、飲み込む音と共に喉が大きく動いた。息を吐いて、荒磯が自分をじっと見詰めているのに気が付くと笑い、どうしたの、と聞いて来た。
──いや、何でもない。
荒磯はグラスを傾けた。喉が潤った。それで初めて自分は喉が渇いていたと知った。グラスを置くと、コトリと音がした。そして何でもないように、ふっと思い出しかのように、さり気なさを装いながら聞いた。
──そう言えば、貴女はどうしてまた、私なんかを好きになったんですか。
瀬羅は吹き出した。
──なんか前にも同じことを聞いたよね。なに、不安なの?
と、彼の目を覗き込んだ。荒磯はその視線から逃げまいとした。同時に感情が表に出ないよう、必死に堪えた。
──でも大丈夫だよ、私は貴方のことが好き。理由なんてものは、前にも言った通り、そんなものはない。
彼の思いも知らぬままに、彼女は続けた。
──だってそうでしょう? 例えば貴方の顔が好きだったとする。それじゃあ貴方が事故に遭ったりなんかして顔が変わったら嫌いになるの? そんなことはない。例えば貴方の性格が好きだったとする。それじゃあ貴方の機嫌が悪くていつもと態度が違ったら嫌いになるの? そんなことはない。例えば貴方と一緒にいて楽しいから好きだったとする。それじゃあ貴方と喧嘩をしてしまったら嫌いになるの? そんなことは有り得ない。
瀬羅の目には誠実な愛情が湛えられていた。
──だから、ね、好きという感情に理由なんてないんだよ。好いた惚れたに理屈なんてない。むしろ逆に、理由があるならその人は相手のことを好きじゃないの。理由がなくなったら好きじゃなくなるんだからね。そうでしょう? だけど、そうだね、敢えて言うなら、私はそうした人間だったんだよ。貴方という存在そのものが好きになった。貴方に惹かれた。一緒に笑いたいと思った。どうしてなんて聞かないで。理由だなんて、そんなものはないんだから。
荒磯は彼女の言葉を頭の中で何度も繰り返した。自分に言い聞かせるようにして。彼女の言葉は正しい、と自分の中で納得した。
そして、ここに来るまでの間に、自分が彼女をどう思っているかを顧みて出した結論を思い返した。
──今なら、何となく、それが分かる気がします。
──ふふ。良かった。
この時の、その安心した声音が、共にした数々の食事を思い返させた。彼女はとても嬉しそうに、笑いながら、話ながら、たくさんの料理を食べ、酒を飲んだ。余り食べる方ではない自分も、彼女といる時にはよく食べるようになっていた。瀬羅との食事は楽しかった。
ふっと過ぎった記憶を拭い去り、それから荒磯は意を決して瀬羅に言った。
──私は、貴女の顔が好きです。貴女の性格が好きです。一緒にいて楽しいから好きです。他も含めて貴女のあらゆる全てが好きです。
彼女は眉を寄せた。その下の目が不安そうに泳いでいた。
──どういうこと。
──私は貴方のことを、とても優しくて、素晴らしくて、素敵な人だと思います。女性としても人間としても。貴女を好きになる理由は幾らでもあります、貴女を構成するもの総て、行動の総て、些細な仕草やちょっとした癖の一つ一つまで。貴女の総てが、私は好きです。
息を呑み、続けた。
──だけど、結局、私は貴女に惚れることはありませんでした。
一呼吸を置き、
──貴女を好きになれたのならばどんなに素晴らしかったことか。だけど、結局は、貴女の言った存在そのもの、それに惹かれることはなかったんです。
荒磯が彼女を恋人にした切っ掛けを尋ねれば、それは畢竟ミルメへの失恋の穴埋めでしかなかった。心奥を顧みるに、自分は結局、彼女に惚れていたのではなかった。一緒にいて楽しかったのは確かだ。一時は抱いていた憎しみが消え去ったのも確かだ。しかしそれは愛情を抱いたからではなかった。
慣れ、付き合い、寂しさの穴埋め。そんなものでしかなかった。一緒にいてくれるから一緒にいた。一緒にいて楽しかったから、好意を向けられて嬉しかったから一緒にいた。そんなものでしかなかった。
自分から求めていたのではなかった。時間を共に過ごしても、結局それは変わらなかった。情は湧いても、それが愛になることはなかった。
誰かを好きになりたいという気持は強かった。それでも、それが叶うことはなかった。
彼女に別れを告げるのを惜しんだのも、手に入れたものを手放す寂しさ、未練でしかなかった。
──貴女は素敵な女性です。それでも、私は惚れ込むことが出来なかった。すみません。私は結局、そういう人間だったんです。
そしてそれはこの世界に対しても同じだった。優しくしてくれたから嬉しがる、そんなものでしかなかった。この世界に対する自発的な好意は、なかった。
──人を好きになることが出来ない。周りに誰もいないのが当り前で、それを望んでいる人間だったんです。
瀬羅はゆっくりと口を開いた。
──だけど、それは寂しいよ。
──ですが、私はそうなんです。それが性分なんです。私自身は寂しくないんです。その状態が好きなんです。私の感性を、すみません、否定しないで下さい。そういう人間もいると、私がそうだと、分かって欲しいんです。
自分は、結局のところ、この世界に愛着を持てる人間ではなかった。この世界を喜び、この世界で幸せを感じられる人間ではなかった。
──だから、ごめんなさい。これまで貴女と交流を持てた。貴女はとても親しい交流をしてくれた。貴女はとても優しかった。それはとても楽しかった。でも、それは貴女が優しかったから楽しかっただけで。
理由があったから好きになった。その理由がなくなってしまっていたら。そうなればこの世界にどのような良い印象も持つことはなかった。つまりは、この世界そのものには、惹かれていなかった。
その一方で神界に対しては心の底から惹かれていた。あの美しい世界にアプリオリに惹かれていた。
──だから、自分の心に正直になれば。貴女は正直で、純粋で、自分の気持に素直な人でした。それで私は。だから私は、貴女はとは。だから、貴女との付き合いは。もう。これでお終いにしたいんです。これが結論です。これが。貴女と付き合うことが出来ないんです。貴女が悪いんじゃないんです、ただ偏に私が、私がそういう人間なんです。
瀬羅は荒磯をじっと見詰めていた。
──貴女はいつか、私に、自分のことが嫌いか、どう思っているかを訊ねました。その答えを言います。今は嫌いではありません。しかし、好きでもありません。……。
──何で、そんなことを言うの。
──まだ、貴女に、その時の答えを言っていませんでしたから……。ずっと曖昧にして、誤魔化して、何も答えていませんでした……。いずれは結論を出さなければいけませんでしたから……。
──そんなもの、たとえ私のことが好きじゃなかったとしても、少なくとも楽しかったなら、そのまま曖昧に付き合っておけば良かったのに。ほんと不器用なんだから。相変わらずだね。貴方のそういうところも、……。
一言言い掛けて飲み込んだ。軽く首を振り、
──うん。だけどまあ、分かった。
──すみません。
──いいの、いいの。謝ることじゃない。
瀬羅は決して声を荒げなかった。
──だけど帰って。
それでも彼女の言葉には否応を言わせぬ力があった。
──今、すぐに。早く。
荒磯を部屋の外まで送り出し、それ以上は何も言えない彼の顔をはっきりと記憶に留めようとするかのように、じっと見詰めた。潤んだ瞳はとても綺麗で、揺らぎそうになるのを堪えているようだった。
それから俯いて、ゆっくりと扉を閉めた。
──今から泣くから。
微かに聞こえた声の後に、鍵を閉める音が重く響いた。