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3.2.12.女の肉体

 瀬羅のマンションでウィスキーを傾けていた。何年物とかいう銘のあるものだった。味の違いなど美味い不味いしか分からないが、それでもこれは美味いと思った。そして香りが良かった。トゥワイスアップにしたそれで唇を濡らしていた。


 リビングの片隅にはガラス棚があり、瀬羅の集めた小物が飾られていた。それらの中央では一体のビスクドールが存在感を放っていた。


 いつか彼女は人形が好きだと言っていた。人形は物を言わない、そこが人形の美点だと。自分からは何も発さない。人形というのは鏡のようなものだ。人形に何らかの印象を受けるとしたら、それは自分の内面が反射されてのことだ、と。


 それが良く見える時というのは自分が良い状態にある時。悪く見える時というのは自分が悪い状態にある時。人形は自分の内心の分身だ。外見ではなく内心を映し出す鏡だ。


 物を言わない人形が瀬羅は好きだった。愛らしく綺麗なものに見えるからだ。


 荒磯はその人形がどのように見えているか鑑みようとした。だが意識してそうしようとすると、どう見えているかも分からなかった。何も語り掛けては来なかった。


 バスルームの方向から、ガウンを羽織った瀬羅が来た。隣に座ると荒磯の手からグラスを優しく取り上げて、自分の口元に運んだ。


 喉が大きく動き、それから熱い息を吐いた。肩からは湯気といい匂いが立ち昇っていた。


 荒磯は相手を抱き寄せて、ガウンを脱がせた。いつしか彼は女を裸にするのに慣れていた。柔らかく押し倒すと彼女は彼の首に腕を回した。じっと見詰めて来る彼女は嘘のない眼をしていた。彼女は誠実な人だと荒磯は思った。


 その瞳に意識を吸い込まれそうになりながらも、荒磯は女神に問われた決断の答えを出そうとしていた。自分はあちらの世界で生きる人間だと思っていた。しかし瀬羅の存在は彼をこちらの世界に繋ぎ止めようとしていた。彼女はあくまで彼に対して真摯だった。


 彼女が自分を以前から悪くは思っていなかったとは聞いていた。だが、自分は一体何故、彼女と一緒にいるようになったのか。以前には憎み切っていたのにも関わらず。


 それは思えば直前に神界で出会ったミルメの影響だった。一種の失恋のようなもので傷付いた心に、彼女がすっと入って来た。


 ミルメと自分とでは住む世界が、文字通り、違った。「住む世界が違うというのは悲しいことですね」「ええ。本当に」彼女とは手を繋ぐことも出来ないのだ。どれほど恋焦がれようとも、たとえミルメにオモトがいなかったとしても、自分は彼女と一緒にはなれなかった。異なる世界の住人だからだ。


 しかし瀬羅は。この瀬羅は自分と同じ世界の女だった。自分と同じく肉体を持っていた。同じ世界に生きる同じ世界の住人だった。同胞だった。


 それならば、やはり自分はこちらの世界で生きるべきなのだろうか。悲しい現実だ。瀬羅には悪い言い草だが、自分もまたこちらで生きるしかない人間なのか。神界では暮らせない、現実で生きる人間でしかないのか。


 どれほど女神に願っても、彼女は彼を神人と同じ存在にはしてくれなかった。それは彼が人間だからだ。神人ではないからだ。こちらの世界で暮らさなければならないからだ。ならば女神にも、こちらの世界で生きる、と答えなければならないのだろうか。


 瀬羅の肉体を抱いていた。彼女の体は熱かった。荒磯は瀬羅によって人間の肌というものを教えられた。生きる人間の肌というものを、血の流れる肉体というものを、彼女によって教えられた。以前に神界で、彼の体に触れた神人が熱傷を負ったのも尤もだと思った。これだけ熱いものなのだから。


 人間と神人とでは手も握れない程に全く異なる存在なのだと、自分の身体をもって改めて実感した。


 瀬羅は自分と同じ存在だった。彼女は肉体の世界に生きていた。そして自分も肉体を持つ人間だった。


 諦めのような感情が走り、虚しさを覚えた。


 心身の疲れに反してよく眠れなかった彼は、翌朝早くに目覚めた。そこで荒磯は瀬羅の寝顔を初めて見た。いつもは彼女の方が早く起きていたからだ。その表情は弛み切っていてだらしがなかった。肌は荒れて、カーテンから漏れる光を反射せずに飲み込み、光を発することなく暗かった。見ているだけでも肉の臭いが鼻に突きそうだった。


 初めて彼女と寝た時のように、彼は現実に怖れを感じて、彼女が目覚めるのも待たずに、逃げるようにして帰った。



◆◆◆◆◆◆◆◆



 それでもこちらの世界を選ぶ、こちらの世界を選ぶべきなのか。この肉の世界を。


 いや、自分の憧れはあくまでも神界だ。自分はあちらの世界で生きたい人間なのだ。たとえこちらに居場所があったとしても、向こうの世界で生きていたい。あの美しい世界で生きていたい。そんなことを考えていた。


 帰宅途上、ずっとそれに意識を奪われていた。道行く人々、スーツやビジネスカジュアルのサラリーマン達と擦れ違い、歩道橋を登った。そこまでは何事もなかった。


 だが、歩道橋から降りた後、そんなことを考えて気が散っていたからだろう、彼は通行人と肩がぶつかった。相手は若者の集団の一人で、派手な色に染めた髪を後ろに撫で付け、片腕には刺青を肩から手首までびっしりと入れた、いかにも(がら)の悪そうな男だった。


 以前にはこの手の若者に絡まれて理由もなく蹴られたこともあった。荒磯は面倒臭いことになると思い、うんざりした。


 だがその若者はぶつかったことを謝った。その反応に面食らった荒磯が気にしていないと言うように手を振ると、軽く会釈をしてから仲間達との会話に戻り、立ち去った。


 何事もなかった。荒磯が周りを見回すと、周囲の人々は誰も彼を気にしていなかった。しかしそれは無視をしているのではなく、あるべきものがそこにあるという、彼がそこにいることを当り前のこととして認識しているからだった。


 小さな女の子が彼を見て手を振った。その母親は少し困った顔をして彼に愛想笑いをした。荒磯が手を振り返すと子供は喜び、母親は、御迷惑を、と小さくお辞儀をし、その子の手を引いて行った。


 人々は彼を異物として見ていなかった。社会の一部として、自分達と同じ存在と見做していた。社会は彼を自分達の一員として認めていた。


 ショックだった。彼は受け入れられていた。自分が切り捨てていた世界、自分も、向こうも、互いに関わりを持たないようにしていた世界、自分が切り捨てていたのと同じように自分を切り捨てていた世界。その世界に受け入れられていた。彼らが自分を仲間と見做していると知ってしまった。


 この、自分を受け入れたこの世界を、神界を選ぶことによって、あえて捨てるのか。それを自分の意志によって選ぶのか。


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