3.2.11.順風
全てが順調だった。余りにも順調だった。仕事は好調で収入は多く金は余りほどに有り、身体は健康そのもので、隣には誠実な恋人がいた。肉親は幸せな結婚をし、望めば自らも尊敬を集める地位を得られた。
一時は心魂を悩ませた神界の騒乱も結局のところは何も続かず、穏やかで満ち足りた平和を取り戻していた。女神は慈愛に溢れた眼差しで彼を送り出し、真善美の実現された完全な世界で静かな幸せを感じては、富の源泉を持ち帰った。
そしてまた俗世での成功者としての充実した暮らしに戻る。何の不満もあるはずがない。何も足りないものなどない。全てが満ち足りた日々を送っていた。
それにも関わらず荒磯はふっと虚しくなった。愛もあり富もあり人生の幸福を手に入れていた。それなのに彼の心の内に隙間風が吹き通り、現状に対して冷ややかになった。
こんなものを持っていたとして一体何だと言うのだろう。現実世界でのこの生活に何の意味があるのだろう。所詮は死ねば無くなるものだった。いや、たとえ最期まで行かなくとも、こんなものは人生の装飾に過ぎなかった。
鮮やかな彩りは華やかで好いものだ。だがそれは外面を纏う布切れでしかなかった。綺羅であろうと布地という意味では襤褸と変わらない。中身を覆う包装紙でしかなく、それは彼の本質ではなかった。
いつかの夜に彼の恋人は立派な服を剥いで脱がせた。綺麗な衣装も結局は剥ぎ取られるものでしかなかった。それは生身の身体ではない。自分の体と関わりのあるものではない。彼はしばしばその時のような剥ぎ取られた裸体の気分を感じていた。なまじ服を着ていた分だけ、裸の心地は寒々しかった。
しかしこの世で成功しているのは事実だ。自分は幸せだ、そう口に出して言った。それは現状認識ではなく、自身に言い聞かせているようだった。
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一種の蟠りを抱きながら山に登った。女神に会った。
いつものように送ってもらおうとしたが、その時の女神は珍しく彼に話を振った。
女神「商売は繁盛しているようね」
彼女が既に自分の罪を知っており、その上で尚あの世界へ送り出している、太々しく言えば黙認している、とは分かっていたが、それでもはっきりとその事を口にされると動揺した。
口籠りながら肯いた。
女神「それは良かったわ。貴方は今、いい人生を送っている。人の身の栄達を歩んでいる」
荒磯「はい。ありがとうございます」
女神「現世での福徳を手にしている」
荒磯「幸運なことに。ありがたい限りで御座います」
女神「それは良い。当の本人である貴方が幸せならばそれで良い。が、現世の慶喜を得た今、それで貴方は幸せなのかしら」
吐胸を突かれたようだった。
女神「現実世界で幸せな人生を送る。それも人間の望む生き方」
荒磯「……」
女神「そうした生を送りたいのならば送れば良い」
荒磯「……はい。ありがとうございます」
女神「だけど、今、一つ、聞く。貴方はこちらの世界とあちらの世界、一体どちらに生きる者なの」
荒磯「それは、常々申し上げております通り、神界でございます。御寮の世界の住人になる、それだけが私の、唯一の望みです」
女神「しかし現世での人生は満帆である。それにも関わらず?」
荒磯「然様で御座います」
女神「神界に生きるというのなら、現世の喜びなど何物でもないはず。そんなものには執着せずに捨てられるはず。別の世界のものなのだから」
荒磯「え。ええ、仰る通りです」
女神「貴方は今、人間ならば誰でも望む人生にある。貴方自身も望む人生を。強く望んでいた人生のそれ以上を」
荒磯「その通りで、御座います」
女神「神界に生きると言う貴方は、そんな現実を捨てることが出来るの?」
多少の蟠りがあったとしても、現実での生活に幸せがあるのも事実だった。薄寒く感じるところはあっても捨てて何とも思わないものではなかった。
荒磯「……捨てなければ、ならないのでしょうか」
女神「いいえ、そんなことはない。ただ聞いている」
荒磯「……。それは、出来ます」
女神「今の生活を捨てるのは惜しいでしょう」
荒磯「それは、否定は致しません。今の生活は、満ち足りております」
女神「ええ、そうでしょう。万事円満な状態にある。その上で今一度聞く。貴方はこちらとあちら、どちらの世界に生きる者なの。
現実に生きる者ならば、今の生活を捨てずに幸福に浸っていれば良い。だが、神界に生きると言うのなら、それを手放しても良いはず」
荒磯「……」
女神「神界か現実か、一体どちらを選ぶのかしら」
荒磯「……」
女神「貴方が生きるのはどちらの世界?」
彼はようやく口を開いた。
荒磯「……それは、今、答えなければならないのでしょうか」
女神「いいえ、今でなくとも良い。決めかねるのならば死ぬまで保留をしても良い。一生の間を現実で暮らし、死ぬ間際になって神界を選ぼうとも構わない。だけど貴方は一体どちらで生きる者なの」
荒磯「今の生活を捨てる……。満ち足りた、初めて味わう人の身の幸せを、あえて手放す」
女神「ええ」
荒磯「少し、ほんの少しだけ考えさせてください……」
女神「少しと言わなくとも良い。時間は幾らでもある。貴方が死ぬまで。死ぬ間際まで決めなくとも良い」
荒磯「……答えは出します。すぐに答えを出します。ですから、どうか、少しだけ時間をください。この答えを出すための……」
女神「待ちはしない。決めた時に言えば良い」
それだけ言って女神は彼を神界へと送った。
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彼の行き着いた神界とは、喩え得るべくもない理想世界そのものだった。彼の願い、彼の望みそのものだった。