3.2.9.報せ ①
荒磯は一人で街を歩いていた。腰痛の治療のためだった。通院の効果か彼の腰が痛むことはなくなっていた。腱鞘炎の手術も受け、身体から持病はなくなった。神界で女神の妙薬を飲んでいる時のように彼の身体は健やかになっていた。現世においても苦痛のない肉体というものを手に入れた。
医術とは心身の痛痒、人間の苦悩を取り除くものであり、まさに仁慈の術だと実感した。病は気からとは言うが逆もまた然りで、病の痛みや苦しみの内には心も曇る。しかし今の彼は医術の慈雨によって身体は清らかに洗い流されて、曇っていた心も晴れやかになった。気分は良く、運ぶ足も軽かった。現世における救済を受けられていた。
アパートに帰って郵便箱を開けると、中には派手派手しいチラシに交じって二枚の葉書と一通の封筒が入っていた。
封筒は請求書でもなく役所からの知らせでもなかった。宛名は手書きだった。裏返して送り主を確認した。
そこに記されていた名前は、疎遠になっている妹のものだった。もう何年も連絡を取っていない。随分と前に両親の葬儀で顔を合わせたのが最後だった。仲が悪かったわけではない、むしろ妹は彼を慕っていた。だが荒磯の性分が災いして自然と関係が切れていた。住所は地元のままだった。
葉書はと見ると、一枚は結婚報告だった。妹が華麗な花嫁衣裳を着てはにかんでいた。新郎は知らない男だった。だが、どこかで見覚えのある顔をしていた。もう一枚は結婚式の招待状だった。
荒磯は封筒を開け、中身を読んだ。遥か昔に見た妹の文字で記されていた。内容は時候の挨拶から始まり彼を労わる言葉に続き、そして近況報告に入った。
妹は結婚することが決まった。幸せな結婚だった。相手は優しく思い遣りに溢れた素晴らしい人とのことだった。交際の切っ掛けも偶然知り合い、話をするようになった彼女がほとんど天涯孤独の境遇にあるのに心を痛めて交流を続けている内にとのことだった。
静かで穏やかな、慎み深い交際が始まった。付き合っていくと、彼がとても家族想いであることが分かって行った。家族の絆を何よりも大切にし、妹も付き合い始めて間もない頃に両親に紹介された。
両親もまた親切な人達だった。彼女を丁寧にもてなし、初めて会った時から親しみ、実の娘のように大切に扱ってくれた。何もない内から彼女のことを信用してくれた。それは彼らが善良であるという理由のみではない、息子が選んだ女だからだ。彼らは自分達の息子に全幅の信頼を置いていた。それと同じだけの信頼を妹にも置いた。
他の親族にも会うようになった。彼らもまたいい人達で、すぐに彼女を家族の一員として認めてくれた。
妹はこのような人達に囲まれて不安になった。今の状況が恵まれすぎていること、自分が彼らに相応しいかどうかということ。そんな時には新郎となる男は彼女の肩を抱き、真心の籠った言葉で安心させた。
それでも彼に引け目を感じて別れを申し出たことがあった。しかし彼は熱意をもって引き留めた。
もしも妹が彼に失望をしたり魅力を感じなくなったりして別れるというのならば仕方がないが、しかしそうではなく、釣り合わないなどと思っているならそれは間違いだ、自分の方こそ素晴らしい貴女に見合っているかを常に自身に問い質している、貴女の横に立つ資格のある男であれるよう努めている、貴女が自分にはもったいないくらいなのだ、そして何よりも、愛している、決して離れて欲しくない。
経済状況などの違いで悩んでいるのなら、仕事を辞めることは出来ないが、貴女の望む生活をしよう、気を使わなくて済むような。確かに自分達の生活には隔たりがあった。嫌な言い方をすれば住む世界が違っていた。それでも自分達の関係は、そんなものを乗り越えたものだと思っている。愛は世界を超越する。そんな差異など私達の前には壁にもならない。
その後、波瀾のない交際の末に彼は言った。パートナーでいて欲しい、生活の、全ての、人生の。パートナーとなって欲しい。妻たる人となって欲しい、私の愛するただ一人の女性になって欲しい。
妹は受け入れた。本人達は幸せの頂点にいた。この婚約を聞いた親族も全員が賛成した。妹を可愛がっていた彼の両親は元よりのこと、県議をしている叔父も喜び、税理士法人を運営している従兄も祝った。都内に幾つかのセレクトショップを出店している彼の妹は早速彼女をお姉さんと呼んだ。
妹は彼の一族に歓迎された。
そこまで読んで荒磯は新郎の苗字を思い出した。結婚報告の写真を見直した。新郎は荒磯の出身地において最も有力な一族の、宗家の跡取りだった。地元紙にも何度か顔が載ったことがある。経済や経営に関するインタビューや、慈善団体への寄付などで。
維新の前から網元をやっていた歴史ある家系で、産業革命時には土地の一部に工場を作り富を得た。交通の便が悪い土地柄のせいで工業が発展することはなかったが、その後も様々な事業に繰り出して成功を収めた。
そして彼らはただ金儲けをするだけでなく、地元に還元することを是とした。雇用を作り、技術を伝え、水路を整え、寄付をし、多額の税を納めていた。漁業も工業も、まともな産業のないあの土地にインフラが整備出来たのは、この一族のお陰と言って良い。
彼らは地元民から尊敬されていた。故郷に悪い思い出しかない荒磯でさえもこの一族を嫌ってはいなかった。
新郎は一族のグループの中核企業で若くして常務取締役に任じられていた。大学卒業後にエレベーター式にその役職に就いたのではなかった。無関係な企業に就職して一般的な労働者として働いた後にその会社に来、それからも数年間は現場に従事した。現場に対する理解と経営に関する知識との厳しい審査を親族から受け、その上で役員に迎えられた。
妹と出会ったのは経営者としても優秀であると、彼らの一族、その歴史の中に置いても優駿であると認められた頃だった。地元の祭りに主賓として招かれた時に、偶然妹と知り合うこととなった。
荒磯は手紙の続きを読んだ。妹が手紙を送って来たのは近況報告をするためだけではなかった。むしろ続きが本題だった。