3.1.9.酒宴
アライソは現実世界に帰らなければいけない期日になったことをシドに告げた。
シド「事情があれば仕方がない。ずっと居てもらうわけにもいかないしの。兵らの鍛錬、誠に感謝する。
私心を言えばまた来て欲しいところだが、貴公には神界を見回る役目がある。この地については安心なされい。我ら鎮南軍が守護しておる。貴公の御指導のお陰で更に強くもなったこともあるしの。
それであるから貴公には、諸方を巡り、他の場所で異常がないかを見てきて欲しい。北軍、西軍、そして東軍の残留部隊とは我々も密に連絡を取っている。四方においては我々を頼られるが良い」
アラ「はい」
シド「して、帰ると言っても船は来ないが、どうやって帰るのだ。いや、世界を跨ぐのに船が役に立つとも思われないが」
アラ「それにつきましては、女神の写し身である満月に祈ればどこであっても直ぐに帰ることが出来るのです」
シド「なるほど。御霊様の通力であるか」
アラ「ええ。ですから今夜にでも帰る所存です」
シド「分かった。それでは短い時間しかないが、送別の宴を設けよう」と、側近に向かい、「おおい、早速用意をせい」
アラ「いえ! それには及びません!」
シド「ご遠慮なさるな。兵力強化のせめてもの礼だ」
アラ「遠慮というわけではないのですが……」
焦っていた。彼は試合の翌日からは指導に夢中になっており、神界に来る目的である盗みを行っていなかった。旅袋には試合の直前に踏み折った熊手の頭こそ入っているが、あれでは大した額にはならないだろう。何か金になりそうなものを。
盗みをしなければ生活費を得られない。盗みをしなければ生活が出来ない。現実世界で生きていけない。どうにか断らなければならなかった。
が、そうしている内に宴会の用意が整ったとの知らせが早くも届いてしまった。
彼は断る口実も見付けられずに流されるがままに参加をした。
食膳には海の幸をふんだんに使った馳走が並べられて目を楽しませ、喩えようもない良い匂いが漂っていた。注がれた酒は澄み通り大気と変わらず、水面の揺らぎがなければ空とも見えた。
乾杯の合図をして暫くすると兵士達の何人かが前に出て踊りを舞った。麗しい彼らの舞は、いつか覗き見た神人達の舞と同じように典雅で優美だった。見ているだけで心が弾み、嬉しくなった。
神界の酒肴は喩えようもなく美味く、彼らは朗らかで楽しかった。
が、しかしそれはそれとして、離席をする言い訳をしようと必死で思考を巡らせた。
アラ「申し訳ありません、一時、その、肉体の生理で……、席を外させて頂きます……」
シド「おう、人間の排泄とか言うものな。よし、我も人間や肉体に興味がある、せっかくだから見せてもらおう」
アラ「や、止めてください!」
シド「いや、先ずない機会だ、どうせなら兵らにも見せよう。ここでなされい」
アラ「勘弁してください……」
シド「皆も見たいであろう! なあ!」
兵達「おお!」
シド「皆々こう申しておる!」
アラ「酔っていらっしゃる……」
シド「ああ、いい気分だ。そこへ更に興を乗せようぞ」
アラ「面白いものではありません……」
シド「いや、楽しい! さ、存分になされい!」
アラ「……」
シド「どうした」
アラ「いえ、引っ込みました……。どうやら出ないようです……」
シド「そうか、それは残念だ」
それから暫くして、
アラ「私も少し、酔いが回って来たようです。少し外の風に吹かれて来ます。……誰かといると血の巡りが良くなりますので、ご同行は無用!」
それでも引き留められるのをどうにか抜け出し、屋外へと出た。既に日も沈み、夜も深くなりつつあった。月明かりと城から漏れる灯こそあれ、夜闇は深く、偸盗を働くにはいい頃合だった。
アラ「盗みをするなら夜がいい。優しい闇が我らの罪を隠してくれる」
これだけ暗ければこっそりと何かをしていても遠目では分からないだろう。周囲を見渡し、物色を始めた。足元の白い玉砂利、これがいいだろうか、それとも門の瓦も良さそうだ。あれこれと迷っていると、
兵士「先生」
と背後から声を掛けられた。驚いて振り返ると、そこにいたのはオモトよりも尚若く、彼の教育を特に真剣に受けていた兵士だった。
兵士「同行は無用とのお言葉は聞きましたがそれを破ってしまったことを謝罪します。しかしながら私は先生のご出立のことを聞き、居ても立ってもいられませんでした」
両手を突き、
兵士「宴の最中に不興と思し召すのも承知の上、ですがどうか私に今暫しの御教示を!」
そう言われれば、見付かってしまったのもあって断れず、徒手でのあれこれを見せてやらせて教えることとなり、そうこうしている内に、
奉行「おお、こんなところに」
と、他の兵士にも見付かって、
奉行「夜風に吹かれるとおっしゃいましたが、それでも遅いのではないかと心配しまして探しましたが、いや、こうした次第になっているとは。これ、アライソ殿に迷惑を掛けるとは何事か。だが、武芸に対するその熱心、大いに褒めて遣わす」
兵士「申し訳ございません」
奉行「アライソ殿、どうかご容赦を」
アラ「いえ、とんでもありません」
宴会場へ連れ帰されてしまった。
その後もあれこれと一人になれる言い訳を探したが、言い包められたり付き添われたりで上手くはいかず、悶々とした夜は更けて行き、それでも酒宴は尚も終わらず、遂には日の出が迫って来た。
シド「アライソ殿、帰られるには満月に祈るとおっしゃいましたな。名残惜しいがそろそろ時刻、我々も見送り致しましょう」
アラ「……ええ。ありがとうございます」
宴会をしていた広間を出て、廊下を歩き、門を出で、鍛錬場までやって来た。その間に抜け出せる機会はないかと窺っていたが、やはり駄目だった。将軍を始めあらゆる兵が彼を取り囲み、常に親しい言葉を投げ掛けていた。
西の空には仄々とした満月が掛かっていた。さて月はある、この現世の人間は果たしてどうやって帰るのか、神人達は興味深そうに彼を見ていた。
アライソの心中は複雑だった。神人達には敬意と親愛を抱いている、そんな彼らに持て囃されるのはとても嬉しい。しかしこれでは盗みは出来ず、生活の糧は得られなかった。明日からどうやって食べていけばいいのだろうか。
兵士達は彼に向かって別れの挨拶を口々に述べた。アライソは上の空になりながら、それぞれに返答をした。
まさかこのようなことになろうとは……。
これなら初めから余所余所しく立ち去った方が良かっただろうか。いや、神人と交流出来たのは、万に一つもないはずだった素晴らしい経験だ。生活費は心許ないが、それでもこれで良かったのだ。
しかし神人がこれほど人懐っこいとは……。こちらの仕事のために、少しは一人にさせて貰いたかった……。
神人と親しめた感動と充足感と明日への不安、そして仕事がこなせなかった自分への失望、あらゆる感情が一つの心の内で攪拌されて、喉の奥がきゅっと締まった。
知らず零れる溜息と共に、月に向かって口を開いた。
アラ「……女神よ、女神よ、どうかお願いです、私を現実世界へ戻して下さい」