3.1.8.帰去
勝負を終えた二人は主殿の手前まで来、将軍らに向かって片膝を突いた。
シド「よい試合であった。両人の健闘を称えよう」
二人は礼を述べた。
シド「しかし、アライソ殿、貴公の戦いぶりには不可解なところがあった。最後のものは兎も角として、懐に入り下方からの突きを放った時、あれはわざと外したように見えた。牽制であったとも思われぬ。何故外した」
アラ「はい。私の目的は彼をあの方の元へ連れて行くこと。無事な姿で届けること。そのためには僅かな傷さえ付けられなかったのです。だから外しました。……ですが、決して彼を侮ったのではありません。それでも勝てると侮ったのではなく、そうしなければならなかったのです」
オモ「なるほど」
アラ「オモトさん、どうかご気分を悪くされないで下さい。あの試合では、それが絶対だったのです」
オモ「いえ、気分を悪くするなど。それどころか、勝負事になればついつい人は熱くなって自分の目的すらも忘れてしまうことも多々ありますから、戦いの最中にあっても冷静に、なすべきことを見失わなかったその平常心、意志の強さに感服します。技量は元より、その心持、お見事です」
シド「その通りだ。さて、オモトよ。お前は試合に敗れてしまったが、帰る気にはなったか」
オモ「は。その約束でありましたから。言葉は違えません」
シド「うむ。そろそろ船人らも出立しなければいけない頃合だろう。急ぎ準備をせい」
オモ「は」
シド「向こうへ帰ったら伴侶とは懇ろにするのだぞ」
そう言って呵々と笑った。オモトは顔を赤くして、対戦の最中にも決して見せなかった動揺をした。頬を染めながら慌てる彼の口元が僅かに緩んでいたのをアライソは見た。
それから彼は頭を下げて立ち上がり、アライソに向かって会釈をして足早に立ち去った。その後姿を微笑まし気に見送ってから向き直り、
シド「船が出るのだ、アライソ殿も帰り支度を整えるが良かろう」
アラ「いえ、私は」
ミルメの面影が脳裏を過ぎり、眉が曇った。彼女には会いたくなかった。いや、より正確に言えば、内心惹かれていた彼女が恋人と再会しているところを見たくなかった。あの眩い少女が、それに相応しい青年と睦まじくしているところを目にしたくなかった。
嫉妬心すら起こらなかった。彼らは麗しい神人同士のお似合いの番だった。そうであるべき尊い間柄だった。他の組み合わせなど有り得ない、必然的な関係だった。その強い関係が、尊さが、彼女らの通じ合う想いが、彼の心を傷付けていた。
アラ「私は、もう少しここに残らせて頂きたく存じます。お許し頂けますでしょうか」
シド「それは構わぬが。まだ何かあるのか」
アラ「……実は、お手元に届いたという鎮東軍からの書状に記されていたかは分かりませんが、私は、シノノメ元将軍から武芸の腕を頂いたのです。私はあの方の武術の技を継ぎ承っております」
シド「なんと! 真か。それは知らなかった。宝器の太刀のみではなく、シノノメ殿の腕までも、か。ううむ、道理で。ならばオモトが手も足も出なかったのも致し方があるまい」
アラ「これを授かったのは飽くまで神界守護のため。ですから、鎮南軍の皆様と鍛錬を共にさせて頂ければ、と」
シド「それは有り難い。シノノメ殿ご直伝の技となれば、こちらから膝を折って頼みたいところだ。どうか御指導下され」
アラ「感謝致します」
シド「しかしシノノメ殿がな。貴公は実に信を置かれていたのだな」
そうして話をしていると、庭の端から軽装になり小さな布袋を肩に掛けたオモトが戻って来た。
オモ「将よ、それでは行って参ります。アライソ殿、貴公は戻られないのですか?」
アラ「ええ、私は今暫くここに残ります」
オモ「そうですか。では直ぐに帰って来ます故」
シド「よい、よい。直ぐでなくとも。そうだな、三ヶ月ほど羽を伸ばして来るが良かろう」
オモ「そんなに」
シド「衾褥は引き剥がすに忍びないからの」
オモ「や、お止めください!」
シドは再び大笑し、またしても赤面する彼を送り出した。
オモトが船人らと共に中庭から出て行くと、それと同時に観衆達は解散させられた。そして城の日常へと戻って行った。
翌日からアライソは兵士達の指導に当たった。シノノメの技を、錬度は兎も角として、知識としては全てを伝えるつもりだった。
昼には鍛錬場で実演して見せ、足の先から頭頂まで、手指の先まで動きを細やかに観察させた。初めは素早く、次にゆっくりと動いて見せて、動作を理解させると今度は中間の速さで動いて見せた。それを何度も繰り返し、動作を細部に至るまで覚えさせようとした。それから兵士達にもやらせてみせて、体の捌き、肢体の角度、重心の置き方、動かし方、細々とした部分まで修正した。
指南役と打ち合って見せ、実戦においてはその技がどのように働くか、従ってどのような時に打つべきかを語って聞かせ、幾つかの技を教えた後には、こうした場合にはどの技を放つべきかを判断させた。
夜には座学。身体の構造とそれに伴う動作の効率を図解を交えて教えて聞かせ、難解な質問を受けても相手が納得するまで説明した。兵士達は皆、使命に篤く、真剣な面持で教導を受けた。
アライソは彼らにも増して熱心だった。使命感からであったのは間違いない。しかし雑念を振り払うために敢えて自分をそうした心境に持って行った面も否めなかった。講義は夜遅くまで続き、朝は早くから鍛錬が始まった。休む間もなく、諸用の僅かな時間を除いて、彼は延々と兵士達の教育に当たった。
そうして数日が過ぎ去った。気が付けば現実世界から持って来た食糧も尽きていた。帰らなければいけない期限になっていた。