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2.1.1.彼という人間

 彼が生まれたのは北方の貧しい漁村だった。特産や名産と呼ばれるものはなく釣果が遠方まで運ばれることはなかった。村人は特定の魚介類や海産物を求めるのではなく、ただ獲れるものを獲れるように獲っていた。それらは全て味覚の為ではなく養分としてのみ摂取された。


 愉楽のない質朴な村だった。岸辺には巌が散在して、波が激しく打ち付けて、磯は荒れていたために、そこは荒磯の村と呼ばれていた。


 そこで育った彼は都会へと出、しばらくすると機関に登録してこの仕事を始めた。それは何物も持たない彼が出来る数少ない仕事だったからだ。業務上の呼び名が必要になると彼は出身地の名前を採って自らを荒磯(アライソ)と称した。


 神界で意識を取り戻す際にはいつもそうであるように、アライソは鼻を刺し鼻腔に粘り付く凄まじい臭気で目を覚ました。苦く()えた汗と垢の臭い。甘ったるい脂、そして肉の生臭さ。渾然とした耐え難い悪臭だった。


 四つん這いになって、えずき、涙と鼻水、胃酸の混じる唾液を垂れ流した。突く手の下には夜と彼の影とで暗く染まった芳しい草が生えていた。それが体液で穢されて行った。


 悪臭の元は彼の肉体だった。清浄な神界の空気の中では、彼の持つ生物としての体臭が否応なしに強調され、現実世界では意識されることのない臭さが強烈に彼自身を襲った。


 喉の痙攣がやや治まると、彼は目を(こす)り、鼻を(ぬぐ)い、唾を吐き、背負っていた旅袋を放り投げて転がり、仰向けになった。上空には満天の星空が広がっていた。


アラ「綺麗な夜だ」


 綺麗な夜だった。純粋な光を放つ星々が綺羅の如くに天穹に張り巡らされ、天頂にはあくまで白い月が絢爛と輝いていた。どこからともなく吹き寄せる爽やかで甘い風が柔らかに肌を撫で、静謐な闇は乱れる身体を落ち着かせ、心を慰めた。


 彼は横になったままで、女神に賜った印籠を腰帯に結び付け、左右を見渡した。


 森の中の開けた場所にいるらしかった。


 彼は少し不思議な気分になった。神界には山もなく谷もなく地の果てまで平野が広がっている。街道があり、神人の住む街や大樹や塔が点在しているが、視線や歩みを妨げるものはないはずだった。事実彼もこの世界において丘陵や渓谷などは見たことがなく、森というものも存在するとは知らなかった。


 しかしこうしてここに居る以上、神界にも森や林はあったのだろう。


 神人達もこの森にやって来るのだろうか。アライソは立ち上がり、思った。それならば木立に隠れて彼らを眺めることも出来るのだろうか。


 いずれにしてもこの森から出るためにアライソは旅袋の紐を肩に掛けて歩き始めた。


 彼はこの世界に来ても神人との交流を持たなかった。こっそりと街に入ったこともある、塔に登ったこともある、しかし幾度となく来訪し長い時間を過ごしても、神人と顔を合わせて言葉を交わしたことはなかった。


 樹間に歩みを進めながら、無意識の内に腕を掻いた。そこから胸のむかつくような酷い体臭が立ち昇った。


アラ「物質世界に所属する肉体を持つ人間の醜悪さ」


 それを自ら恥じていた。神人は肉体を持たない。星のように純粋な光のような存在だ。しかし彼は悪臭を放ち腐敗する肉体と生を共にする物質世界の醜い生物だった。


 肉体は獣らしい悪臭を放ち、どろどろとした汗を流し、不潔な垢が生じて衣服を穢す。肉は光を発することはなくただ暗く、疲労や苦痛を生じて精神を苛む。


 彼の脚には抜けることのない疲れが詰め込まれ、腰には鋭い痛みを抱えていた。腕は重くて自在に動かせず、そしてそれは腕の長さまでしか伸ばせなかった。


 肉体には病が忍び込み、苦しみと倦怠感に襲われる。そして老い、日毎に衰えて行く。いずれこの肉が動かせなくなればそれは死だ。死後の肉体はどす黒く変色し、硬くなったかと思えばぶよぶよと不快に柔らかくなり、腹がぱんぱんに膨らんで裂けるか萎れるかし、腐り、虫が涌き、どろどろと溶けて行く。人間の存在はそんな肉体と結び付いていた。


 どれほど女神にねだっても、たとえこの世界に立ち入ることを許されても、彼は所詮ただの人間でしかなかった。神人とは存在そのものが違っていた。


 アライソは死と結び付き、腐れ行く肉体に囚われている人間でしかなかった。


 だがこの世界に暮らす神人は、そのような不浄な肉体とは無縁の存在だった。病も飢えも老いることも死ぬこともなかった。


 彼らは争うということを知らず、互いに憎しみ合うこともなく、この世界には恒久の平安が約束されていた。人を騙す者も傷付ける者も奪う者もいなかった。ここには法律も必要がなかった。天の機序が地の隅々にまで行き渡っているからだ。


 神界は如何なる苦しみも悩みもない清らかな世界だった。


 世界は光に満ちて陰りがなく、地の土塊(つちくれ)一つに至るまで輝いていた。眩いばかりの天上からは美しい音楽が響き渡り、芳しい花が舞い降りて来た。鳥の囀りはこの世のあらゆる歌人よりも情感に溢れて心を震わし、涼風は絹のように柔らかかった。薫風が鼻先をくすぐるかと思えば目に映るもので秀麗を湛えていないものはなかった。流れる水はどこまでも透き通っていて甘く、果実は瑞々しく心身に染み入るようだった。


 そしてこの世界には過去というものがなかった。推移としての前後はあるが、何が起きたとしても、それらは全て「今」の中を生きている出来事である。どのようなものも、かつては存在していたが今では消え去ってしまった「過去」となることはない。どれほど儚く脆く思えるものであってもそれは永遠であり、失われるということはない。ここは時間さえも超越した世界であった。


 現実では決して実現しない理想郷、それが神界というものだった。


 彼はそんな世界に属している物品を懐に隠して持ち帰り、現実世界で売り払う仕事をしていた。金銭には替えられない尊いものを盗み出して現金化する賤しい行為を、彼は自分の生業を嫌悪していた。


 ただの人間でさえ汚辱に満ちた存在だ。それなのに自分は尊い世界に傷を付け、罪を働く一層に穢れた盗人だった。


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