3.1.4.神界で見る夢
アライソは胸の内側で、何かが崩れていくような感覚を覚えていた。
彼の言葉に夢中になったミルメは、そんな様子に気付くはずもなく、
ミル「ああ、それでは、船着場に案内します! こうしてはいられません。いずれにしても出航は明日であっても、今すぐに、アライソさんを案内します!」
彼女は立ち上がると同時に彼の手を取ろうとした。だがアライソは彼女の握ろうとする手から逃げるように、身を引いた。
ミルメは彼の拒絶に当惑した。その困ったような顔を見て、
アラ「あ、いえ。人間の、我々のような肉体を持つ世界の住人の肌は、貴方々神人からすれば熱すぎるようで、もしも触れてしまったら、火傷をしてしまうのです。実際に重傷を負ってしまった者もいますので……」
それを聞いて残念そうに、
ミル「まあ。それでは私はアライソさんと手を繋ぐことも出来ないのですね。住む世界が違うというのは悲しいことですね」
アラ「……ええ。本当に」
アライソは一人で立ち上がり、ミルメの弾む歩調に続いた。この世界ではないことだったが、その足はただただ重かった。
街に着き、ミルメは大通りを何事もないかのように進んで行った。途中で何人もの神人と行き交った。彼らはミルメと共に歩くアライソを見て、一様に驚きの表情を浮かべたが、すぐに日常へ戻って行った。
珍しい人間であっても避けたり追ったりする相手ではない。その上、この時には見知った顔のミルメと一緒にいるのだった。不審者などではない、何をやるとしても見張るような者ではない。彼らはアライソを心許せる人間であるとして、疑いなどはしなかった。
いや、そもそも神人には差別や偏見といった感情はなかった。たとえ醜い魔物然とした人間であったとしても、珍しいものを見れば驚きこそすれ、それを理由に忌避することはしなかった。この時のアライソは未だそれを知らなかったが。
船着場は穏やかな海に接して、真白い香木で出来た桟橋があるのみ。波を防ぐための設置物もなく、小さな湖に作られた船溜まりと変わりはなかった。荒波など立ちはしない神界の港はこれで充分なのだろう。
何艘かの係留されている船はどれも帆もなく、小さな漁舟のようなものだった。現実であったならば航海はおろか、近海へ出るのも躊躇われるほどの、ささやかなものだった。それは湖上の蜘蛛が乗る木葉のようだった。神界の船である、それを見ていると心の内に染み入るものがあった。
船人達はのんびりと笑い合いながら貨物を運んでいた。ミルメは彼らに親しく声を掛け、それからアライソを紹介した。船人達は穏やかな目で彼を受け入れた。
アライソは彼らの荷運びを手伝うことにした。神人達に交じって彼らの仕事を一緒にすることは、普段であったならば、自分も彼らの仲間になったような気持になって、とても幸せであっただろう。
しかしこの時に限っては彼の心は沈んでいた。船人に頼まれた通りに荷造りをし、荷積みをする彼の横では、ミルメが嬉々として、恋人の話を語っていた。そんな彼女に、
船人「ミルメちゃん、今日は岬に行かなくてもいいのかね」
ミル「ええ。今日は。何と言っても、アライソさんがあの人を連れて来て下さるのですから。私もアライソさんのお手伝いをします!」
彼女はアライソに、彼との馴れ初めや、思い出や、彼がどれだけ優しいか、彼がどれほど魅力的かを延々と述べて語って聞かせた。
ミル「彼は、万年青は、私にとっての全てなのです。他の何にも替えられない、一番大事な方なのです。お兄様のためならばどんなことでも出来るのです。どんな危難も受け入れますし、お兄様のためならば、水火の中にも飛び込みます。アライソさんにも、きっと、そういう方がおありでしょう?」
アラ「私には、そういう相手はいませんが、……しかし、そういうものであれば」
ミル「まあ。では、アライソさんの、とても大事なものとは何ですか」
アラ「……そうですね、それはこの世界です。私にとっては神界が、最も大事なものなのです。……」
ミル「ふふ。アライソさんらしい」
とても優しくて、親切で、初めて会った相手にも親身になってくれて、とっても、良い人。
夜が更けるとミルメはこの街にあるという自宅へと帰り、アライソは船人に頼んで倉庫を宿にさせて貰った。船人は皆々自分の家に泊まりに来るといいと言ってくれたが、彼は人間であるという引け目から断った。
翌朝、彼は神薬を呑んでから街を出で、肉体を持つ者としての諸用を済ませて船着場まで戻って来た。ちょうど船人が桟橋に結ばれた係留縄を緩めているところだった。そこには彼らの作業を面白そうに眺めるミルメもいた。
船人「アライソさん、準備は出来ましたか。それではそろそろ船を出しましょう」
アラ「はい」
彼は船に乗り込んだ。船人も最後の一人が乗り込んで、櫂で力強く桟橋を押した。
波のない海は何もしなければ永遠に船をその場に留めることも出来そうだった。船人は水面に静かに櫂を差し込んで、ゆっくりと漕いだ。
既に離れた陸地では、ミルメが大きく手を振っていた。
ミル「アライソさん、オモトのことをよろしくお願いします。そして、楽しい船旅を!」
アライソは小さく笑いながら手を振り返した。目元には悲しさが滲んでいた。
船人の小唄と共に進む船はのんびりとして揺籠のように心地良く揺れ、船底から伝わる水を裂く振動が快かった。
朗らかな陽気に包まれて、遠くには海鳥、近くには船歌を聞き、穏やかな気持になって目を閉じた。安心して全てを自然に任せていられる航海は、胎内での眠りのようだった。
朧ぐ意識に入り込む水音に、彼は故郷の夢を見た。
神界で起こる出来事は、夢でさえも良いものだった。嫌な思い出しかない故郷の光景が、ここではどことなく懐かしかった。
柔らかな光に満ち溢れて、そこは何となくいい場所だと感じられた。夢の中で故郷と認識したその場所は茫漠として不明瞭であったが、それでも一つだけ、明確な輪郭をもって現れた人物がいた。
妹だった。年の離れた妹の更に幼い頃の彼女が、親愛の感情を浮かべた瞳で満面の笑みを向けていた。今ではもう成人もしている筈だ。何年も連絡を取っていない。それでも故郷に関することで唯一、妹のことだけは好きだった。
現実世界を見放した彼であったが、その妹だけは、たとえ遣り取りがなかったとしても、現世に対する愛着だった。あの世界のどこかで生きている彼女の存在は、言わば現実世界と彼との唯一の縁だった。
現実では一度たりともなかったというのに、この時の彼は故郷に関する夢を見て微笑みを浮かべていた。
船人「アライソさん、お邪魔してすみませんね。到着いたしましたよ」
気遣いに満ちた声で彼は目覚めた。アライソはこの時に初めて自分が眠っていたことに気が付いた。
そして軽く周囲を見回してから前を向くと、そこには絢爛な城門が口を広げていた。船人達は荷を負い、その中へと入って行っていた。
城門の脇を固める衛兵らは、口をきつく結びながらも、目元には親しみを浮かべて船人達を見送っていた。アライソもまた荷運びを手伝いつつ、城門の内へと踏み入った。