3.1.3.海松藻という女
アラ「ええ。ええ。これは大丈夫です。もう痛みもありません。傷口もすっかり閉じて、治っています。いや、潰れているのだから治っていると言うのは少し違うかも知れませんが」
それでも彼は左目を隠し、そう答えた。
ミル「ふふ。そうなのですね。安心しました」
軽い笑い声と共にそう言った。彼の何となく慌てた様子が可笑しかったのだろう。
ミル「帽子を、ありがとうございます」
相手の手から帽子を受け取り、胸に抱えて、
ミル「これは私のお気に入りで、もしも失くしてしまっていたら、泣いてしまうところでした」
と、被り直した。広い鍔の裏が頭の後ろで白く、後光のように広がった。彼女の顔は柔和な光に湛えられ、朧々と霞んで見えた。
アラ「そんなことは。貴女が悲しむようなところは、見たくありませんから」
ミル「ふふ。お優しいのですね」
それから彼女は岬の先端まで行き、海に向かって座り込んだ。アライソは彼女の動きに促されるようにして、その隣に座った。
ミルメは穏やかな笑いを口元に浮かべつつ、一心に海を見詰めていた。アライソは彼女の横顔を盗み見しつつも、そこから目を離せずに、心の奥が疼いて行くのを感じていた。
ミル「この海の先に、何があるかご存知ですか」
不意に発せられた彼女の言葉でようやく彼は我に返った。
アラ「海の先」
彼女と肩を並べているのとは別の種類の、嫌な、胸騒ぎがした。神界の辺境であるここの、その海の更に先。それはつまりこの世界の端であり、世界の境界線だった。侵略者はその向こうからやって来る。
アラ「世界の果てが」
知らず重々しくそう言った。
ミル「あら。そうではありますが、そこまで遠くではありません。そのもうちょっとだけ手前の話でした。ご存知?」
アライソに反してミルメの声は軽かった。
アラ「そうですね……。さあ」
ミル「この先にはですね、南方の守護を任された、神軍の砦があるのです。一つの島を丸ごと城塞にしているそうです。彼らはそこで標杭として神界を守っているのです。御霊様より受け賜わった、尊いお勤めです」
アラ「神軍の城塞が! では、あそこに」
ミル「ええ」
アラ「それでは、南方の、あそこの軍は無事なのでしょうか。何事もなく、守護を果たせているのでしょうか」
ミル「それはそうでしょうが……。それは、どういうことですか」
アラ「あ。いえ、……彼らは外敵からこの世界を守ろうとしております。では、その外敵は襲来して来るのか、どうか」
ミル「ふふ。アライソさんは心配症でいらっしゃる。確かに神軍は外敵を防ぐのが役目。ですが敵がこの世界にやって来るなど、天地開闢以来聞いたことがありません」
アライソは思いに塞ぎ込み、
アラ「ええ」
ミル「それに、私達は御霊様の子ですから、もしも何かがあったとしても御霊様がお守りくださいます」
アラ「……ええ。きっと」
ミル「ですが、もしもそんなことがあったとしても、御霊様を煩わせることはありません。神軍がいるのですから」
アラ「……御寮様もまた、貴方々が御自身で神界を守れると、信じております」
ミル「もちろん、出来ましょうとも。なにせ……」
と、彼女は眉を曇らせ、
ミル「でも、御霊様は尊い御方ですけど、少し寂しいところもあります。神軍は必要なものですし、兵士の方々も皆、気高く篤い志を持っております。
それでも、兵士達にも親しい者がおります。兵士を親しく思っている者もおります。彼らを親しく思っている者達は、その方に会えなくて、寂しい思いをしております。
親しく愛しいあの方は、今この時に、どのようしているのでしょうか。
寝食に不足はなく、戦友はいい人達ばかりで、楽しくやっているのでしょうが、何の案ずるところもなく、敵が来ずとも、無事であろうと、私達は彼らに会えない。
一目見たい。遠く離れたこの場所では、声の響きも届きません」
触れも出来ずに、見も出来ず、一人寝に濡らす枕は湿りて乾かず、雨を孕みて膨らむに任す雲のよう、ただ何時までも感嘆を含みて増すばかり。水気を叩く砧の音も風には乗らず、彼には届かず。
ミル「私のお兄様もあそこにいるのです。
大切な、とっても大切な、私のお兄様」
会えぬ月日は一日千秋、千歳三千歳と等しく思われ。それでも張り裂けんばかりの胸の疼きを会えるその日を楽しみとして癒しては抑え、千々に乱れる雲が思いを仮絵姿を頼みに治め、こうして生きていられるのはただただ会えるその日のため。
ミル「ですが尊いお勤めは、我ら妹兄を切り裂いて、万里の果てまで引き離すのです。比翼とも思い、連理とも思う、愛しい心は引き裂かれ」
寂しく、悲しく。
ミル「お兄様は何故行ってしまわれたのでしょうか。いつお戻りになるのでしょうか。私はただ、一目見たい、お会いしたいだけなのに。
御霊様のお勤めは、こうして我ら子供らを、寂しい思いに沈めるのです」
アラ「ですが、大切なものですから……」
彼はミルメの悲しそうな顔を見て、自分のことのように、いや自分のこと以上に、胸を痛めた。
ミル「それは重々分かっています。それでも寂しいものは、寂しく」
辛く。
アラ「お気持は分かりますが……」
ミル「アライソさんは、やっぱりお優しいのですね。初めて会った私に同情して下さるのですから。
それでも私は会いたくて。
それでこうして私は、毎日岬の先に立ち、お兄様の影を拝めはしないかと。ただ一歩でも近くへと。この海の向こうに、お兄様はいらっしゃる」
アライソは少し悩み、それから、
アラ「その海の孤島の城塞に、行くことは出来ないのでしょうか。船か何かで」
ミル「連絡船ならありますが、しかしこのような私情で渡ることなど許されるものではありません」
アラ「実は私は、南方守護の神軍に用があるのです。彼らに会い、確かめたいことが」
ミル「まあ。それなら、ちょうど明日船が出ますよ。それに乗せてもらうと良いかと」
アラ「それでは私はそれに乗ります。そして」
胸が弾んだ。
アラ「私の用と共に、貴女の、そのお兄さんに、貴女が会いたいと言っていた、と伝えます」
ミル「本当ですか!」
アラ「ええ! もちろん!」
彼のこの考えには私心が入っていた。彼女を喜ばせたいと、彼女の個人的な役に立ちたいという気持が混じっていた。
今の言葉だけで嬉しさに溢れたミルメの顔色。好意と親愛に満ちた瞳で見詰められ、浮かれていた。
アラ「そして、出来るようなら、彼を連れてここに来ます」
ミル「出来ますでしょうか」
アラ「ええ、きっと! お話を聞く限りではこの地は平和そのものの様子。それならば、兵士の一人や二人くらい、何日間かは抜けても然して支障はないはず。そのお兄さんを連れて来ますよ!」
ミル「ああ、アライソさん……。本当に、本当にご親切な方……。私、貴方のことが大好きです!」
痺れるようだった。
震える心の内に彼は認めざるを得なかった、自分が彼女に対して、神人に対する憧憬以上の感情を抱いていると。彼女を個人として捉え、他の神人とは異なる、特別な好意を抱いていると。
そして彼女は続けて言った。
ミル「それでは、私はお兄様に会えるのですね」と、歓喜を含み、「長く、遠く、辛い毎日でしたが、ようやく、私は。今から楽しみでなりません。心がとっても弾みます。
やっと私は会えるのですね。
私がお兄様とお慕いしているあの方に。とても大事なあの方に。吾が兄。恋人。愛する方に」