3.1.2.岬には石が立っている
アライソもまた自己嫌悪と相手を驚かせてしまった後悔でどうしていいか分からずに動けなくなっていた。神人と向かい合い、顔と顔とを見交わしながら、互いに硬直していた。
だが、その止まった空間を動かしたのは神人の方だった。彼は一時の驚きが治まると、アライソに軽い会釈をして、桶を拾い直し、どこかへと立ち去った。
アライソは彼が恐慌せずに落ち着きを取り戻し、平素の生活に戻ったことに、ほっと息を吐いた。彼は、あの村とは違って異常事態ではないのに、アライソを見ても騒ぎはせず、逃げもせず、追い立てようともしなかった。
アラ「私がここにいることを認めてくれたのだろうか」
そんな思いが過ぎりはしたが、それでも彼は自分という存在を思い出し、身を縮めて足早に街を出た。他の神人に見付かってはいけない。彼らを驚かせたり怖がらせたりしてはいけなかった。敬愛する彼らの心を乱したくはなかった。
彼は街の外から海岸へと行こうとした。実際に街に足を踏み入れてここが無事だとは分かったが、それでもやはり心配だった。
街を出で、街道を外れ、海原を横目に見ながら青々しい草原を暫く歩いた。海は僅かずつ、陸の影に隠れて行った。歩いている彼にも感覚出来ないほどに少しずつ地面は傾斜し、小高い丘になっているようだった。
海面は岸の向こうに見えなくなっていた。振り返ると、街は遠く小さくなっていた。
アラ「ここまで離れればいいだろう」
彼は足の向きを海へと変えた。
突き立った崖の上から海原を見渡した。群青に染め上げられた海面には漣一つ立ちもせず、平和そのものだった。皺一つなく平らに張られた天鵞絨のように温かで、穏やかで、静かな光輝を含んでいた。
アライソは暫し見惚れて、それから何事もなかったことに再度安堵し、少しだけ海岸線を歩くことにした。この綺麗な神界での散策ほど楽しいことはなかった。
それにしても、やはり、侵略者などは滅多にないものなのだ。東方は危機に陥ったが、他に異常はない。神界には平和が保たれている。
海と空と、その境を眺めながらゆっくりと歩いた。
と、前を見ると陸地が海の方へ突き出して岬になっていた。あそこまで行って、その先端に立ち、前と左右から潮風を浴びようと思った。それはきっと、とても気持が良いことだろう。
岬の先端に、小さく岩があるのが見えた。小さいと言っても岬までにはまだ距離がある、それだけ離れていても見えるのだから、あの岩はそれなりの大きさがある。人と同じくらいの大きさか。
それだけ思って然程気にせず海を見ながら歩いて行った。
またふと前を向くとその岩がさっきよりも詳しく見えた。その岩には白妙の布が掛けられていて、潮風を浴びて靡いていた。風に揺らぐ布につられて岩も揺らいでいるように見えたが錯覚だろう。
そうして彼は岬の根元にまで辿り着いた。岬に足を踏み入れて、その先端まで行き絶景を見ようと思った。
だが、足を進める内に、例の岩に違和感を覚え始めた。それは靡く衣を纏っていた。そして上には白い帽子が被せられていた。
アラ「岩に見えていたこれは、本当に岩だったのだろうか」
颯っと強い風が吹き、帽子が飛んだ。帽子の内から豊かな髪が溢れ出た。アライソの足元にまで、帽子は転がって来た。
岩は髪を振り、頭を巡らせ、裳裾を翻して振り返った。その彼女と目が合った。岩だと思っていたそれは神人だった。可愛らしい面立ちをした、可憐な少女であった。
アライソは身が竦んだ。神人と会わないようにしようと思った先から会ってしまったからだけではない。その神人の少女が輝かんばかりに麗しかったからだ。
眉目の優れていることについては神人だけあって言うまでもない。しかし彼女にはそうした外見のみではない、内面から発せられるものがあった。心を打ったその魅力にアライソは思わず惹かれそうになった。彼女の後ろにある空と海とが光り輝いていた。
彼女はアライソを見、大きな目を更に開いた。想像すらしたことのないものを見たからだ。そしてその目をぱちくりさせて、潤んだ瞳でアライソを見詰めた。
暫しそうした後に彼女は笑んだ。不浄な異形でしかないアライソに向かって、満面の笑みを浮かべた。その表情の動きにつられて、アライソの感情も知らず知らずの内に柔らかくなった。
少女「初めてお会いする方ですね。私は海松藻と申します。貴方は?」
何事もないように彼女は言った。問われてたじろぎつつも、
アラ「アライソ、と言います」
ミル「アライソさん、ですね。素敵なお名前です。それにしても珍しい装いをしていらっしゃる。どこか遠くからのお越しですか?」
アラ「ええ、娑婆、という別世界から」
ミル「まあ。別の。それは本当に遠くから。私も遠くには興味があるのです。それで、ここでこうして海を眺めているのです。その向こうを見たいと思い」
アラ「そうなのですね。ええ」
と、彼はどぎまぎして目を伏せると、足元に帽子が落ちていた。それを拾い上げて、彼女に返そうと差し出した。その時にまた、目が合った。顔と顔を見詰め合い、アライソは自分の顔が仄かに紅潮したのを感じた。
だが彼女は眉根を寄せて、
ミル「ですが。あら。貴方のその目は」
その指摘にはっとして、可憐な彼女に醜く穢く潰れた片目を見せたくはなく、顔を背けた。彼女の反応からして、悪い印象を与えてしまったかも知れない。
アライソが内心に覚えた悲しさを察することもなく、彼女は続けた。
ミル「怪我をなさっておりますが、大丈夫ですか?」
眉を顰めたのは嫌悪感からではなかった。思い遣りに満ちた声で、心配そうにそう言って、彼を覗き込んでいた。