3.1.1.隻眼の来訪人
神界で意識を取り戻す際にはいつもそうであるように、アライソは鼻を刺し鼻腔に粘り付く凄まじい臭気で目を覚ました。苦く酸えた汗と垢の臭い。甘ったるい脂、そして肉の生臭さ。渾然とした耐え難い悪臭だった。
四つん這いになって、えずき、涙と鼻水、胃酸の混じる唾液を垂れ流した。痙攣が治まると胡坐で座り込み、深く息をした。体の具合はまだ気持が悪いが、神界の空気がすぐに慰めてくれるだろう。
見上げれば綺麗な夜だった。
アラ「満月に欠けるところなく」
前回、この世界に来た時の騒動が嘘のようだった。神界に侵略者が現れて、破滅の危機に瀕しているなど、この夜空を飾る星々の輝きを見れば信じられそうもなかった。
しかしそれは起こっていた。破壊された城塞の跡も見た。東方守護軍が村を襲っているのにも直面した。そして今でも、──アライソは顔を撫で、──左目が潰れているのは現前たる事実だった。
今回、女神の元を訪ねた時、彼はこれまで通りに神薬を受領した。そして普段であれば他の希望など述べなかったが、この度に関しては、神界の内でも辺境へ飛ばして欲しい、と頼み込んだ。
侵略されるのであれば敵は外からやって来るはずだ。東の方面はトヨハタの軍が守っているから安心出来る。だから女神にどの方角の辺境かと訊ねられた際、東以外ならどこでも良かったが、取り立てて理由があったのではないが、南、と答えた。
そして彼女は彼を呑み込んだのだが、そうした会話をしていた間、アライソは女神の眼差しが喩えようもなく優しく、瞳に慈愛の色が浮かんでいるのを見た。考えられないことだった。彼女が彼に興味がないのは前回初めて気が付いたことだったが、それでもこれまでも、彼女はどことなく秋の風を纏ったように涼し気だった。
そんな彼女が彼に対して思い遣りを持ち、温かな雰囲気を漂わせていた。
理由は分からない。彼が世界を救おうとしていることにも無関心だった。どうとでも好きに動けばいい、自分が良いと思うようにすればいい、と突き放していた。これまで盗みを働いていたことも、今回も働くであろうことも、知っているはずだった。同じだった。
だが、どんな理由でそうなったのだとしても、今はそれを考えていても仕方がなかった。考えても分からないからだ。
アライソは手足を広げて横になり、目を閉じて、胸いっぱいに神界の清浄な空気を吸い込んだ。夜は安息の時間だ。暫くの間、彼はそうして心身を安らがせた。
神鳥が啼いていた。目蓋の裏が明るくなった。腰紐に結び付けた印籠から軽い音がした。目を開けると朝だった。
一方の地平線から旭日が頭を上らせて、薔薇色の光を無窮の空へ放っていた。東の雲は紫色に染められて、長く長く悠然と棚引いていた。
視界いっぱいに広がっている草原は朝露で一面が巨大な鏡のように輝いていた。それが陽光と陽気に当てられて、薄く靄が湧き出した。白い靄は光を孕み、女神の衣のように清らかに柔らかに膨らんで行った。そこへ足を進めれば、雲上を歩いているようだった。
遠目に靄の切れ目が見えた。街道だった。アライソはそこまで辿り着くと、朝日を左手にして街道を下った。南の端まで行くつもりだった。砦や城塞か、街があるのかは分からないが、こうして道が続いているのであれば、そこには人の集まる場所があるはずだった。
アラ「東方は荒らされた。それでは南方は無事か、否か」
果たして青龍やその類が暴れているのか、現れているのか。確かめに行かなければならなかった。
アラ「しかし、この朝の風景の何と荘厳で平穏なことか」
昇り始めた日輪は初々しくも力強く、清々しくも活力に満ちていた。蒼穹は飽くまで澄み渡り、無限の果てまで見通せるように思われた。左右には白雲が見渡す限りに広がっていた。どこからともなく神鳥の麗啼が優しく響いていた。
アラ「これが神界のあるべき姿だ。荒れることなど決してなく」
彼は薫風に身を晒し、心の奥まで洗われながら、靄の切れ目の街道の、雲の通い路を歩んで行った。
しばらくすると街が見えた。その左右には海岸線が伸びていた。港町だろう。そして、神界は平野の世界であるからには、ここが南の果て。神界の南端だった。
街は燃やされていることもなく、静かで穏やかに見えた。涼しい朝の大気を通って陽光が朗らかに降り注いでいた。清明な神界の街だった。
アラ「ここから見るには荒らされていることもなく、何物も来てはいないようだ。少なくとも今はまだ、悪い者は現れず、静寂は乱されていないようだ」
安堵に胸を撫で下ろし、そして神人に会える嬉しさに心を躍らせながら街へと向かった。
近付いて行ってもやはり異常なところはなく、何事も起こっていないようだった。
遠目に、街の中を平和に行き交う人影が見えた。風に乗って活気に満ちた声が届いた。港町だけあってここは神界でも賑やかな場所なのだろう。
一歩一歩と進みながらも、街の様子が詳しく見えて一層心が楽しくなりながらも、思考の隅で、ふっと、
アラ「港町、か」
自分の生まれ故郷の漁村を思い出していた。つまらない村だった。だがそれはもういい。おそらくは二度と帰ることはないだろうからだ。村は捨てた。残りの人生は現実世界の都会とこの神界だけで暮らして行く。
面白くもない感傷は振り払い、ついに街へと到着した。神人達の暮らす街。晴れ晴れとした気分だった。
街の中に踏み入っても、やはり景色に欠けるところは一つもなく、平和そのものだった。とりあえず彼は街を通り過ぎて波止場まで行き、海を見ようと思った。幹線道路と思われる、広い通りを歩き始めた。
と、その時、正面からこの街の住人らしき神人がやって来て、彼とはっきり目が合った。
その神人は両手で抱えていた桶を落とした。体が竦み、硬直した。在り得べからざるものに直面したように目を見張っていた。
アライソは何があったのかと駈け寄ろうとしたが、その理由に思い当って、うっと呻いて立ち止まった。
神人は気を失う寸前の虚ろな目をアライソへ向けていた。その瞳に意志はなく、見えているものを理解するだけの思考力も残っていないようだった。ただ呆として人形のように身動ぎも出来ずに立っていた。
彼は思い出していた。すっかり忘れていた。前回、この世界に来た時には彼らに受け入れられていたからだ。
アライソは穢れた肉体を持つ、醜い人間だった。清らかな神人から見れば、アライソは異世界の恐ろしい化物だった。しかも今では片目が潰れ、以前にも増して悍ましい不浄の異物となっていた。
あの時に村人達に受け入れられたのも、神軍に迎えられたのも、異常事態だったからだ。本来ならば肩を並べてよい者ではない。穢土の自分と浄土の彼らとでは存在そのものが違っていた。このような自分が、彼らの巷に足を踏み入れてよいものではない。
自分自身が醜く穢れた人間という存在であることを思い出していた。
卑しい人間とは隔絶した尊い神人と、肉で濁ったアライソの視線が、はっきりとぶつかっていた。