2.2.4.憎むべき敵
そんな折、向かいの席に誰かが座った。反射的に見た盆の上には豚カツの大皿を始め、大量の揚げ物が載っていた。視界の端に映っただけでも胸がムカつきそうだった。俯いて自分の食事に戻った。
──相変わらず食べないんだね。
声を掛けられて面を上げると、例の嫌いな同業者だった。左右対称に口角を釣り上げた人為的な表情を作る、毒々しい口紅をくっきりと塗った女だった。瀬羅という、稼ぐのが上手い女だった。
──私も今日帰って来たんだ。一仕事終えた後なんだから、栄養のあるものをたくさん食べなきゃね。チートデイ。
口紅を塗った唇を大きく開けて豚カツに噛み付いた。感無量といった感じの小さな唸り声を上げ、それから薬指で口の端を拭い、
──美味しい。
と言った。そしてまた貪り始めた。
──ここの豚カツは美味しいですよね。
面白くもない、お付き合いの相槌を打った。すると彼女はぎょろぎょろした目を更に見開き、それからすっと薄くして、
──嘘吐き。
と、にやりとした。
──荒磯さんはそういうのばっかりで、揚げ物とかは食べないよね。嫌いなの。
──そんなことは。たまには食べますよ。
──そうなの? それじゃあ、あげる。
と、カツを一切れ、ササミの上に載せて来た。カツの衣がササミやキュウリに微かに散った。皿が汚れた。イラっとした。
──ありがとうございます。
ウスターソースの掛かったそれは明らかにくどそうで、見るだけで嫌になった。味噌汁ですら味が濃すぎて飲みたくない今の状態では、こんなものは食べられそうもなかった。箸で摘まむための後一歩が踏み出せずに逡巡している内に、ぽろっと一言が零れてしまった。
──栄養のあるものを食べなきゃって言っても、油に栄養なんてあるんですかね。
彼女は口元に手を当てて、目元を笑ませた。
──油は美味しい。美味しいから幸せ。幸せは心の栄養。だから油は栄養で、健康にいい。
──そうですか。
やはりカツを食べる気にはなれず、下のキュウリを口に運んだ。
──だけどさあ、見てたよ。さっき荒磯さんが窓口でお金を貰うところ。私も後ろで順番待ちしてたから。ポケットに入るくらいの儲けにしかならなかったんだね。と言うか、十万円以上なら振り込みだから、多くても一桁万円。
顔が熱くなり、頭に血が上って行った。箸が止まった。彼女はそれに気付かずに続けた。
──それじゃあ駄目だよ。お金は稼がなきゃ。そうでなきゃ、普通の会社勤めじゃなくて、わざわざこの仕事を選んだ意味、ないでしょ。というか、あっちの世界へ行くのは大体月に二回。今の稼ぎで生活出来てる?
余計なお世話だ。
──ええ、まあ。なんとか。
──なんとか、じゃなくてさ。もっとちゃんと考えた方がいいと思うよ。いい年して貧乏暮らしなんてみっともないし、将来の事もあるんだから。
将来、そんなものはない。今のこの暮らしをするので精一杯だ。先の事を考えている余裕なんてない。そもそもが、もう、将来なんてものに期待をする年齢でもない。終わって行くだけだ。
──だからさ、ただ闇雲にやるだけじゃ駄目なんだって。ちゃんと考えないと。そうしないと儲けられないよ。どうやったら儲かるか、どうしたら稼げるか、そういったことを考えてやらないと、どんなに良い物だって売れないよ。商売なんだからさ。
自分だって必死で頑張っている。それでもこうにしかならない。この瀬羅のように、稼げる奴には私の気持は分からない。
──よく言ってるでしょ、稼ぐための工夫。こういう風にやった方がいいよって。
自分だって綺麗なものを盗って来ている。今回は神軍を危機に陥れかねないものだって盗って来た。そんなことすら私はやったのだ。
──私のアドバイスは無料なんだから、いくら聞いても損にはならないよ。
自分は苦労をしながら、苦悩をしながらやっているのに金にはならない。それなのにこいつは大変そうな素振も見せずに上手いこと稼いでいる。
私は金が稼げていない、それに間違いはない。それなのにこいつは、その工夫とやらで、私はおろか、二十代半ばかそこらにして、一般的な労働者の中央値よりも稼いでいる。いい暮らしをしている。
妬ましい。
いや、そして、自分はあの世界に敬意を抱いてやっているのに、こいつはあちら側の世界を単なる金儲けの道具としか見ていない。神聖であるあの世界を、そんなものとして捉えているのは不遜であり、冒涜だった。
憎かった。
私にとってはあの世界に行くのが目的であり、金もついでに稼げればいいと思っていた。勿論、稼ぎは多ければ多いほどいいが。それなのに瀬羅は、金儲けを目的として、あの世界をその手段に貶めていた。
そんな彼女が憎かった。
──だからね。売る時のことを考えて、ラベリングとパッケージ化をして、……。
荒磯は自分の内に嫉妬と憎悪が渦巻いているのを自覚していた。得々として持論を語る彼女の話を神妙に聞いている振りをしながら、心の内ではただ只管に呪詛を吐いていた。
神界の物品とは商品ではない。換金可能な替えの利くものではない。他のものの手段ではなく、それ自体が目的だ。金を目的とした売り物などではない。それをこの女は。神物をいうものを侮辱していた。
パッケージ化して商品の装いを整わせ、ラッピングして虚飾を纏わせ、ブランディングして商業的価値を高める、云々。神物を売物にすることをなんの抵抗もなく口にする彼女が憎かった。
もちろん自分だって稼げるのなら沢山稼ぎたい。金は欲しい。儲けたい。しかしそれが最優先の目的ではない。もっと大切なものがあり、金はあくまでその次だ。
しかしこの女は金のためにあの世界へ通っていた。彼女のスタンス、そしてその商業主義のみが唯一絶対の価値観だと信じている彼女が憎かった。
神界に向き合う者として、存在してはいけない人間に思われた。このような人間が、あの世界に行ってはいけない。
怒りが止め処なく溢れて来た。
いずれは大儲けをして見せて、こいつ自身の価値観で、彼女の口を黙らせてやりたかった。お前は間違っている、と。お前の思想は無意味だ、と。こいつを否定してやりたかった。お前の存在に価値などない、と宣言してやりたかった。
目の前の相手への憎悪に感情が高まり、目頭が熱くなって来た。
瀬羅は変わらず金しか見ておらず、神物の商品化について語っていた。
そうだ、熱を帯びるこの目には、シノノメから託された宝器が入っている。こいつなどとは、格が違う! それを思い知らせてやりたい。どちらが上か、はっきりさせて見せてやりたい。いっそ、この太刀で斬り捨ててやりたい。
こうしてシノノメを思い出した瞬間に、荒磯は自分が瀬羅に攻撃性をすら抱いているのを自覚した。
憎い、ただ只管に憎かった。
シノノメですら村人を焼いたのだ。それを思えば彼ほど立派な人間ではない自分であれば況や。
ふっと気が遠くなりそうだった。
いや、……違う!
荒磯は自らの過ちに気付いた。
シノノメは村人を殺したくて殺したのではない。敵意があって攻撃したのではない。正しいと信じたことのために、やむを得ずしてしまったのだ。他に手立てはないと思っていた。行動としては間違っていたが、思想に歪んだところはなかった。
一方で今の自分は。行動としては何もしていない。抗弁すらもしていない。しかし相手に殺意をすら抱いていた。
それでは、行動こそ悪であったが思想は善であったシノノメと、行動こそ善であるが思想は悪である自分とでは、どちらが悪人だろうか。
シノノメは自らの行いを悔いて怪物となった。自分は目の前の相手に悪意を抱きながら人の形を保っている。しかし、思想に悪いところのなかった彼と、今の自分とでは、果たしてどちらが怪物的か。
言うまでもない、怪物的であり、悪人であるのは自分だ。
目の前の女は憎くて堪らない。決して相容れない存在だ。
だが、それでも、彼女を認めようと思った。全く異なる価値観の、決して許せない価値観を持つ彼女を、絶対に認められない相手であると知りつつも、その理解出来ない価値観の存在を殺すまいと誓った。
彼から託されたものがある以上、怪物になってはならない。
自分には自分の思想がある。だから彼女の考えを受け入れることなど決して出来ない。理解すらも出来はしない。
それでも、目の前の憎い思想の持主を、全く別種の存在を、相容れないままで、理解すらも出来ないままで、そのまま認めようと思った。理解も出来ず、憎悪の暗雲を呼び起こそうとする彼女の存在を殺すまいと誓った。
自分は穢れた肉体を持ち、罪を抱いた人間だ。それでもシノノメからあらゆるものを託された。肉体は穢れていようとも、心を濁らせてはいけない。
瀬羅は自分の論説を展開するのに夢中になっていた。気持良さそうに持論を語り、荒磯を軽んじていた。相手の心情などは一切斟酌していなかった。上から目線の弁舌を鼻高々に繰り広げていた。
それを荒磯は静かに聞いていた。決して認められない思想を、不倶戴天の怨敵の、相容れぬ異物に、憎悪を抱かぬようにと努めながら。