2.2.3.黄塵の巷
山を降りると荒磯は自宅にも寄らずに直接機関に向かった。休みたくて堪らなかったが、旅袋の中には神界からの盗品が入っていた。あの世界の尊く清らかな物品を、あのような汚い場所には持ち込みたくなかったのもある。
また今回に限っては、女神とのあのやり取りの直後では、一度帰宅してしまえば二度と機関へは行けないような気がした。
その選択は採れなかった。生活費のために売りに行かなければならなかった。疲労で頭が回らないまま肚を括った。
決心をした以上は、後はただ高く売れることだけを願った。
機関の施設は駐車場が併設された地味なコンクリートの建築物で、外装にも趣向の凝らされた部分はなく、酷薄なほどに簡素だった。知っている者でなければここで神物を扱っているなどとは想像もしないだろう。
ガラス張りの自動ドアを潜ると装飾なども一切ない、壁に掛かっているものと言えば時計だけの、殺風景なエントランスが広がっていた。左手に案内所、右手に一般用の窓口があり、正面奥にエスカレーターが伸びていた。見えるものはこれだけだった。ただ床だけが綺麗に磨かれていた。
何人かの見知らぬ顔と擦れ違い、エスカレーターに乗って二階へ行った。二階にある採集業者用の窓口で受付を済ませ、番号札を貰ってベンチに座った。布も張っていない木目の剥き出しのベンチだった。この日は自分の他には数人程度しか待っておらず、順番はすぐに来そうだった。
だが呼び出しのアナウンスは中々流れず、一時間は待たされた。仕方がなく腕を組んで目を瞑り、仮眠を取ろうとしたが、ちょうどそのタイミングで自分の番が来た。間が悪かった。
真白い部屋に入り、そこにいた職員から渡されたトレーに神物を載せた。あの戦陣の武庫から盗み出した鍔の束だ。
無機質なトレーの上にあっても矢張りこれは素晴らしく、鍔に嵌め込まれた宝玉の一つだけでも数十万円は下らないように思われた。そんな宝玉が一つの鍔につき四つあり、それがなくとも精巧な装飾の施された鍔は、神妙な芸術品に見えた。そんな鍔が錦糸で結ばれて十二個ある。これは良い値が付くだろう。
職員は無感動にトレーを受け取って受領証を渡すと、すぐに奥へと引っ込んだ。これからあの神物は鑑定を受けて値が決まる。その金額によって採集業者の報酬が決まった。荒磯は受領証を持って別の窓口へ向かった。
ここでも彼は待たされた。鑑定に時間が掛かるからだ。それを分かっていたから彼は今度こそ目を瞑り、座ったままで仮眠を取った。
どの程度の時間が経ってからか、自分の番号が呼ばれた。窓口ではいつもと変わらぬ無愛想な職員が光のない眼で待っていた。荒磯は、どのくらいの儲けになっているか、その期待を悟られないようにしながら、強いて平静を装って番号札を渡した。
封筒と領収証の載せられたトレーが差し出された。領収証に記された数字が視界の端に映り込んだ。表には出さなかったが、内心、動揺した。
職員の口が薄く開いた。
──では、この金額で間違いがなければ領収証にサインを。
荒磯は領収証の数字が間違いであることを信じながら封筒を切り、中身を確かめた。だが、そこに入っていたのは確かに、記されていた金額と同じだった。三万円。
──そんな、まさか。
──何がまさかなのですか。
職員は不機嫌そうに言った。
あれほどの素晴らしい芸術品と見えるものが、たったの三万円。煌びやかな宝玉の埋め込まれた典雅な神物が、十二個あって三万円。
──不満があるなら止めますか。
急かすようにして職員は言った。
──いえ、何でもありません。何でも。サインをしますよ。
荒磯はサインを書き殴り、震える手で領収証を差し渡した。たった三枚の一万円札をポケットに捻じ込み、背を向けた。
肩を落として歩き出しながら、呼び止められないだろうかと淡い望みを抱いた。先程の領収証は間違いでした。すみません。こちらの金額が正しいものです。
しかし次の番号が呼び出され、結局彼は呼び止められなかった。
◆◆◆◆◆◆◆◆
荒磯はエスカレーターを降りるとその裏手に回った。背中を丸めながら、建物の奥にある食堂へと向かった。そこは職員の福利厚生を兼ねていてそれなりの量のものが安く食べられた。彼のような採集業者であっても受領証を見せれば当日限り利用出来る。
茹でたササミとキュウリの盛り合わせ、それから水菜の浸しを陳列台から取って盆に載せ、玄米を店員に頼んだ。
会計所で、ポケットに突っ込んでいた受け取ったばかりの一万円札を渡し、九枚の千円札とじゃらじゃらした小銭を釣りに貰い、またポケットに仕舞い込んだ。
食べる場所は端がいい。だから自然と隅の方の窓際の席に座り、箸を取った。窓外の風景を見ることもなく、下を向いて黙々と食べた。
卓上には調味料も並んでいたが、何も使わずにそのまま食べた。あの世界の清らかな空気に触れた直後では、現世のものは味が濃すぎた。普通であれば薄すぎると言われるくらいで丁度よかった。
卓上の醬油やポン酢を掛けることを前提とした、そのままでは何の味もしないと言われるような水菜を口に入れた。青臭かった。自炊ではまともな料理などはしない。だからちゃんとした食事が採れるのはここだけだった。
それにしても、と荒磯は思った。今回の偸盗品が三万円。あの鍔十二個で三万円。まさか、信じられなかった。あれほどの芸術品が現実世界ではこれだけの価値にしかならなかった。尊い神物が、ここではただの物品としてしか扱われなかった。
それでも他に伝手はなかった。現金に替えるにはこの機関に頼らなければならなかった。自分が持っていても仕方がない。この機関に売る他はなかった。機関の言い値で売らなければならなかった。
悔しかった。
それも今回のものは単なる神品ではない。神軍の武庫から盗み出したものだ。彼らの行動に影響が出ないように、それでも万が一があればどうしようかと不安を胸に抱えながら持ち出したものだった。
もしも鍔が一つ足りなかったがために彼らが敗けたりしたならば、それは自分のせいだった。たとえ僅かであっても彼らに危険を及ぼしながら、彼らを無事から遠ざけながらも、それを知りつつ盗んだ品が、三万円。彼らの危難が三万円。
悔しくて堪らなかった。
そんな感情も表に出さずに青臭い水菜を噛み締めた。