2.2.1果たして彼女は知っているのか
気が付くと彼は薄暗い山奥の、少しだけ開けた場所で横になっていた。生臭い草いきれと腐ったような土の匂いが鼻を突いた。そこは神界へ送られる直前の、闇に行く手を塞がれた山道の突き当りだった。現実世界に戻っていた。
はっとして面を上げた。
いつもならばこの世界に戻って来た時には女神はここにおらず、彼はつまらなそうに嫌な顔をして、肩を落として人の住む場所まで降りて行くだけだった。
だが今回に限っては女神に伝えなければならないことがあった。平穏たるべき神界の平和が乱されていた。龍という存在が侵略を始めたらしいことを伝えなければならなかった。彼女の世界が狂わされていた。
朦朧とした意識がはっきりするまでの僅かな時間すらも惜しんで、彼は周囲を見回した。だが山林は常と変わらず寂として、在るものと言えば、神界へ行く前に女神が片手を預けていた小さな祠だけだった。木陰によって何重にも編み込まれた闇は深く、ただ只管に深く、その闇の中央に小さな祠がぽつんとしているだけだった。
その祠を見詰める彼の両目は左右共に無傷だった。潰れた左目もここでは何の異常もなかった。潰されたのは飽くまでも精神であり、肉体の世界である現実においては、目に見える傷にはなっていなかった。
そんな自分の状態に気付く余裕もないままで、彼は女神の名を呼んだ。慌てていた。彼女に神界の異変を伝えなければならなかった。四方に視線を走らせながら、彼は女神の名前を何度も叫んだ。
再び正面を向いた時、そこには小さな祠に片手を預けた、ただ美しいとしか言えない女が立っていた。
彼女は目を細めてうっすらと笑いながらこちらを見下ろしていた。しかし膝を突いた姿勢で周章狼狽している彼を見てはいなかった。ただ目に映るものを見ているだけだった。何度も会っているというのに、彼はそのことに、この時初めて気が付いた。
だがそれは今はどうでもよかった。
荒磯「女神よ、お伝えしなければいけないことがあります。神界が、御寮の世界が、乱されております。悪いものに攻められて、あるべき姿を失っております」
女神「龍が来たのねえ」
荒磯「ご存知ですか!」
女神「それは勿論。私の世界だもの」
荒磯「それでしたら安心いたしました。一時はこうなってしまいましたが、これからは御寮が世界をお守り下さるのですね」
女神「いいえ」と、彼女の口が開いた。「私は何もしないわ」
耳を疑った。
荒磯「どういうことでしょうか」
女神「私はあの世界に手を差し伸べるつもりはない」
荒磯「何故、でしょうか」
女神「あの世界は私の世界。だけど私の子供達の世界でもある。世界を守るのはその世界の者達の役目」
荒磯「ですが、攻められております」
女神「そうねえ」
荒磯「侵略されているのですよ」
女神「そうねえ」
荒磯「それなのに、御寮は何もなさらない……」
女神「ええ」
荒磯「それではもし、世界が破壊されてしまったら」
女神「とても悲しいわ」
荒磯「それでも御寮は御手を差し伸べては下さらない。……」
女神「それは私のすることではない。住人である、我が子らの務め」
荒磯「……その子らが、神人達は苦しんでおります」
女神「辛いことね」
荒磯「必死になって、世界を守ろうとしておりました」
女神「きっとそうでしょう。あの子達はそういう子。信じていた通りね」
荒磯「ですが、しかし、彼らとて神ではありません。間違いも犯してしまいます」
女神「それでも私はあの子達を信じている。きっと最後には上手くやり遂げられるでしょう」
荒磯「しかし犠牲が、既に犠牲が出てしまっております。もう既に。大勢の。取り返しの付かない……」
女神「悲しいわね。そのような者が少なくなるよう努めて欲しいわ」
荒磯「……それでは、やはり、御寮はお助け下さらないのですか」
女神「ええ」
荒磯「……それでは、もしも、もしも彼らの力が及ばず、世界を守り切れなかったら」
女神「とても残念ね」
荒磯「そんな」
女神「だけど心配はしていないわ。あの子達なら大丈夫。世界は守られることでしょう」
荒磯「……。御寮の、御寮の彼らに対する尽きることのない信頼は承知いたしました。御寮は必ず正しく在られます。ですが、私が、彼らに助力することは構いませんでしょうか。私は御寮を信仰し、その尊い御寮の司る美しい世界が何よりも大切なのです。黙って見ていることは出来ません」
女神「貴方のやることに口出しはしないわ」
荒磯「有り難く存じます。最善を尽くします」
女神「ええ。自分の良いと思うことを為せば良い。そしてそれが我が子らのためになるものならば、私にとっても嬉しいこと」
荒磯「そうおっしゃって頂けるのは、何物にも替えられない幸せで御座います」
女神「幸せを感じられるというのは幸福なことよ。我が子らのためにも善処して欲しいわ」