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2.1.27.朝と夕

 外からの慌ただしい足音が静寂を破いた。兵士達が怪物の呻き声や地を叩いた音を聞き付けて、駈け寄って来ているのだろう。


 間仕切りが勢いよく開けられた。


トヨ「どうなされた!」


 現将軍であるトヨハタが真先に飛び込んで来た。彼はそこに、一人(たたず)み放心しているアライソを見た。虚ろな目で虚空を眺め、気迫はなく、全身からは力が抜けて呆然としていた。その手元には神界の宝器である大自在王の太刀がだらりと垂れていた。


トヨ「アライソ殿、どうなされた」


 その声で初めて周囲に気が付いたように、


アラ「私は……」


 とだけ口にした。しかし何と言ったらいいのだろうか。


トヨ「貴公はお一人か。シノノメは如何(いかが)した」


 自らの手の太刀をちらりと見下ろした。この手で討った、と言えばいいのだろうか。


 本陣の中へぞろぞろと神兵達が入って来た。聞こえる音からして、外にも次々と集まって来ているようだった。


 たとえ何をするにせよ、既に囲まれ逃げることも出来ないように思われた。


アラ「私は、シノノメを殺しました」


 ただ事実をそのままに、そのようにして言うことしか出来なかった。


トヨ「貴公が。シノノメを。しかし何故」


 アライソは眉根を寄せて困った顔をした。どのように言うべきか分からなかった。


 それでも事実だけを訥々(とつとつ)と話し始めた。自分にこの世界を守って欲しいと言っていたこと、太刀と腕とを譲り受けたこと。村への襲撃を悔いていたことも言いそうになったが、それについては口を(つぐ)んだ。そして異形の怪物へと変化し、討伐したこと。死体はそのまま消滅したこと。


アラ「信じていただけますか」


トヨ「信じるも何も。そうなのでしょう」


 虚偽のない神界の住人であるトヨハタは疑うということを知らなかった。彼の言葉をそのまま受け取った。


トヨ「それに、宝器と腕とを失ったとてシノノメならば、誰が相手であろうとも易々とやられたりなど致しません。いや、彼ほどの者が大自在王の太刀を授けたのですから、貴公はそれに相応しい人物です。貴公の手にするその太刀が、嘘偽りなどない何よりの証拠」


 アライソは涙が出そうになった。自分はそのような人間ではない。自室の旅袋に隠してある盗品が脳裏を過ぎった。


 正直に白状してしまおうかとも思った。だが、それを返してしまえば現実世界で食べてはいけない。生活は出来ない。罪悪感と自己否定の念とに圧し潰されそうになりながら、じっと口を結んでいた。


アラ「私は、シノノメ元将軍のような、立派な者ではありません。あれがなくとも、彼には遠く及びません」


 ようやくそれだけ口にした。あの、たとえ自分を犠牲にしようとも、体は元より誇りまでをも捨てられるような、高潔な人間とは違っていた。


トヨ「謙遜をなさるな。……しかし、シノノメが死んだのだ。その処置だけはしなければ」


 トヨハタは周囲の兵士に指示を飛ばした。夜が明け次第、葬儀をするようだ。


 アライソは自室に戻り横になった。だがどれだけの時間、目を瞑っていても眠ることなど出来なかった。


 日が昇ると彼は陣営を出た。前日に将軍職移譲の儀を執り行った辺りで、兵士達が薪を組んでいた。


 ぼうっと眺めていると、段々と他の兵士達も集まって来た。その中には陣羽織を纏ったトヨハタもいた。


 彼が薪に火を入れた。野辺送り。シノノメの遺体も遺品もない、形式的なものだった。それでも白い煙は細く昇り、人々は行方を見送った。


 空は飽くまでも澄み渡り、どこまでも清らかでどこまでも広がっていた。この蒼空は永遠だった。その中に煙が吸い込まれ、溶け入った。煙は空の一部となり、その全てへと広がった。煙は空と同化した。


 焚火が消え、残った薪も片付けられた。兵士達も持ち場へと帰った。この岬にはもはや二人しか残っていなかった。


 夕闇に染まり行く海を尚も見詰め続けるトヨハタの元へ、アライソは歩み寄った。何を言おうと思ったのでもない、何をしようと思ったのでもない。ただそのように足が向いた。


トヨ「アライソ殿か」


 振り返り、声を掛けた。別段驚いた風でもない、彼が残っているのは背にしていても分かっていた。アライソは軽く頷いた。


 ほう、とトヨハタは息を吐いた。アライソの背後では、遠く、輝く夕日が西の地平線へ潜ろうとしていた。天も地も、あらゆるものが茜に染まった世界に見惚れ、それからしみじみとして目を細めた。


トヨ「いい夕焼けだな。実に綺麗だ。良い日の終わりは沈む夕日もこのようになる」


 アライソは同じ方向を向いた。その目に映るものを見、同じことを思った。あえて言葉にはしなかったが。トヨハタは心地良さそうに胸を張り、


トヨ「見よ、夕日を浴びて、我の体も貴公のように熱く映えているではないか」


 天地と同じく茜色に染まった彼の姿は哀愁を含みながらも凛然とし、心に染み入るものがあった。それは彼の内心を純粋なままに表していた。言語化され分類化される以前の生の感情が伝わって来るようだった。


 彼は夕日に背を向けて、再び海へと目をやった。頬に微かな笑みを湛えながらも眼元は厳しく、一瞬、きらりと光が走った。今は穏やかな暗い海原の、その果てを見据えていた。腰に()いた宝剣の柄を、とんと叩いた。


トヨ「今夜(こよい)月夜(つくよ)清明(さやけかり)そうだなあ」((註3))


 その剣はシノノメから受け継いだ、神軍大将の象徴だった。剣は今では特別に目を引くものではなく、トヨハタの一部として彼の様相と調和していた。宝器に比する輝きが、トヨハタの瞳に煌めいていた。


 アライソもまたシノノメから託された使命に想いを馳せていた。龍がどこにいるのか分からない以上、彼はこの世界のあらゆる場所へと赴いて、


アラ「必ず奴を見付け出し」


 託された宝刀と腕とを()って、


アラ「討ち降してみせよう」と。


 しかし決意はどれほど固くても、意志はどれほど堅牢だろうと、それでも彼は人間だった。今すぐにでも探しに旅に出たかった。それでも彼の食料は尽きていた。持って来たものは今朝方食べたもので終わりだった。彼は自分が人間であることが悲しく、情けなかった。


アラ「志は同じくしようと」


 トヨハタと同行は出来なかった。食べるために、一度は現世へ戻らなければならなかった。


 アライソは威風を放つトヨハタの横顔に別れの言葉を述べた。彼は深く頷いた。アライソを見返す彼の目には力強い光があった。共に戦う同志への絶対的な信頼と信用に満ちていた。


 アライソは岬から立ち去り、陣の自室から旅袋を持ち出してそこからも去った。トヨハタのいた岬とは逆の方向へ向かって駈けた。


 使命感が体に気力を与えていた。だがそれと同時に劣等感と罪悪感が背を丸めさせた。神人ではない、物を食わなければならない存在であることの劣等感、そして旅袋に忍ばせた、偸盗の罪。結局のところ、自分は肉を持つ人間でしかなかった。


 神軍の陣営は既に遠く、夜の(とばり)の向こう側に隠れて見えなくなっていた。


 東の夜空には煌々とした満月が掛かっていた。(よど)み一つない純白に輝く月の光は永遠を思わせた。それこそがアライソの求めるものだった。


 憧憬と願望と充足感、そして与えられた使命感と自分への失望、あらゆる感情が一つの心の内で撹拌(かくはん)されて喉の奥から慟哭が漏れた。


 知らず零れる涙と共に、月に向かって口を開いた。


アラ「女神よ、女神よ、どうかお願いです、私を現実世界へ戻して下さい」


(註3)

万葉集収録、中大兄皇子詠歌「渡津海乃 豊旗雲尔 伊理比弥之 今夜乃月夜 清明己曾(わたつみの とよはたくもに いりひさし こよひのつくよ さやけかりこそ)」を踏まえ


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