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1.3.山を越える

 とうとうたらり、たらりら、たらりあがり、ららりとう。((註2))


●「滝の()響く深山路(みやまじ)の、葛を掻き分け葦を踏み締め」


 男が呟いたようにここは既に山中も深く、頭上を覆う鬱蒼とした樹冠が闇を落として、真昼だというのに彼の歩く獣道は暗かった。樹々は乱立して先は見えず、道は草々で荒れていた。直ぐには歩めず左右に惑う。


 それだというのに男は慣れたように景色も見ずに物思いに耽りながら足を進めた。彼の目が向いているのは内面にのみ、外界は映らず盲目も同じことだった。それは彼の容姿にも表れていただろう。背は曲がりみすぼらしく、服は色褪せ、背負う旅袋は汚れが染み付いていた。


 顔は愁いに覆われて、そして疲れ切っていた。重い足を引き摺って、ただ人の世から一歩でも遠くへと離れたかった。


●「泡沫(うたかた)仮宅(かたく)、払暁にて露と消える。雨風を(しの)ぐ一夜の宿も目覚めれば草枕。浮世を惜しまず、その漂浮する様を見る」


 肩口へ手をやって、旅袋の紐を直した。額の汗を拭い、更に山の奥深くへと進んで行く。


●「ただ閻浮(えんぶ)を厭う」


 彼の生活は虚しかった。人から軽んじられる程度の収入しか得られず、妻もなく子もなく親しい友人と呼べる者もなく、独り住居へ帰っては狭く暗い部屋で空腹を紛らわせるためだけの不味い食事をし、薄い布団に寝そべった。自宅では時間を無為にし、人生を浪費した。そんな日々はおそらく死ぬまで続くだろう。


 しかしもしも彼の生活が充実し、色鮮やかなものであったとしても、現実世界に虚しさを感じていたのに変わりはあるまい。華やかにして讃えられる仕事、愛すべき家族、尊敬に値する友人達。そのような人生の彩りなども所詮は一陣の風で吹き飛ばされる表層的な装飾に過ぎない。彼の厭世感は心神の深奥から滲み出るものだった。


●「闇夜を照らす満月でさえ数日で欠けて消えてしまう。いやその夜の内にさえ雲霧に乱され光を失うこともある」


 月は飽くまでも偶然的な一点の光に過ぎず、夜の本質は闇だった。


 彼が望んでいたのは輝かしい光だった。荒れ狂う乱雲が空を覆おうとも決して霞むことのない絶対的な光だった。永遠の白い光が欲しかった。


 そのために彼は蔦の絡む乱れた暗い山道を、孤影を引きつつ歩んでいた。



◆◆◆◆◆◆◆◆



 茅葉で荒れた山道を進んでいた。しかしそれも何れはどこかで終わるのだろうか。山林の闇に行く手を塞がれた。


 その突き当りの闇の中央に、彼はその目に、ただ美しいとしか言えない女が立っているのを見た。


 漆黒にも近い暗い闇を背にして、彼女は純白の薄衣(うすぎぬ)を纏い、片手を小さな祠に預けてこちらを見ていた。目を細め、うっすらと笑っていた。決して雲には乱されない永遠の満月のような女だった。その口元が薄く開いた。


○「また来たのねえ」


 大きくはない、しかし透き通る玲瓏とした声だった。その響きが真空とも思われる山の気に染み入って男の元まで届いた。


●「ええ」


 男は答えた。小さく低く枯れた声だった。しかしその底には力があり、微かな熱を帯びていた。


◯「ねえ坊や、貴方は所詮ただの人間でしかないの。だからこの向こうでは暮らせない。それなのに、また、ここを通りたいの?」


●「然様で御座います」


○「無駄だと何度も言っているのに。人間らしく、肉の体と歴史の世界に閉じ込められて一生を終えたらいいのに」


 そう言いながら片手で祠を撫でさすっていた。彼女の円を描く手の動きによってこの空間が作られているようだった。深沈として邪まなものなど僅かにもなく、ただ清浄と静寂に満ちた空間だった。そこに二人が相対していた。男が声を発した。


●「そうではないもののために、御寮(ごりょう)がいらっしゃるのではありませんか」


 女は、ほほ、と笑い、


○「そうねえ」


●「イチキシマ姫神、どうか私をそちらの世界へ。私はただそれだけを願っているのです」


 彼は女神に縋るようにしてそう言った。


○「人の身で暮らせる世界ではないわ」


●「存じ上げております」


○「貴方ではまだまだ、修身が足りない」


●「身に染みております。それでも私は渡りたいのです」


○「遠くから見ているだけで満足なさいな。それではいけないの?」


●「それでは私の願いは満たされないのです。……どうか、御寮。私は御寮の司っている清らかな土地へ行く、ただそれだけを求めているのです。どうか。ただそれだけを」


 女神は言葉を交わしながらも祠を撫でる手を止めなかった。男はその手の動きに心を吸い寄せられていた。彼女のものになれるのならば、他の何も望まなかった。


○「そうねえ。貴方はこの可愛い御社(おやしろ)も建ててくれたのだからねえ」


●「どうか、是非にでも。私にとっては御寮の世界の住人になることだけが唯一の救いなのです。他の誰でもなく、ただ御寮の。他でもなく、ただ御寮だけの」


 彼女はすうっと手を止めた。


○「そこまで言われたら仕方ないわねえ。それじゃあ、ここを通してあげる」


●「ありがとうございます。恐悦至極にございます」


 男は感謝の念に身を震わせて自然と跪いた。女神は慈悲深くも彼の肩に手を置いて、


○「ただ行くだけではつまらないでしょう。何かを一つ、授けてあげる。何がいい?」


●「御寮の世界の住人と同じく、悩みも苦しみもなく、老いも病もなく、傷一つだに付かない健やかな身体を、健康な、健全にあることを」


○「贅沢ねえ」


 にこやかに女神は掌を差し出した。そこには精妙な蒔絵に彩られた印籠が載っていた。


○「毎朝日の出と共に丸薬が出て来るわ。それを呑めば次の日の出までの丸一日、貴方の望む体になる」


 彼は印籠を丁寧に押し戴いた。両手で握り締めると彼の姿勢は祈るような形になった。身に余る有り難さに声も出ず、頭を下げた。


 女神は体を彼の方へと傾かせた。彼女の白衣(びゃくえ)を纏った胴体が蛇のように伸びた。するすると胴体は伸びて行き、男の周りを取り囲み、そして巻き付いた。女神は長い胴で男の体をきつく締め上げた。


 男が(おもて)を上げると、女神の顔は、微笑みを湛えていた口が耳元まで裂け、大きく開かれて行きつつあった。顎が輪郭から外れ、口のあった場所には巨大な洞が広がっていた。容貌が変わっていても女神は変わらず美しかった。両目は酸漿(ほおずき)のように赤く、鏡のように丸く輝いていた。


 彼はその目に魅入られて陶然とし、身動き一つ取れなかった。


 尚も広がりつつあった彼女の口が視界を覆い、目に映るのは真紅の虚空のみとなった。赤い世界が頭上から下りて来た。男は両目を伏せた。女神の薫る吐息、口腔の焼けるような熱さを肌に感じた。恍惚とした。


 そうして白蛇の女神は彼を丸ごと呑み込んだ。


(註2)

「とうとうたらり、たらりら、たらりあがり、ららりとう」――能楽「翁」より引用

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