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2.1.26.暗澹たる東雲

シノ「神界を守る大義のためと、村を襲い人を殺し、御霊(ごりょう)様より賜った尊い使命に背いてしまった。御霊様の御意志を踏み(にじ)って何が神兵か。


 寸鉄も帯びぬ民草に刃を向けて、一体何が武士だろうか。


 我はこの身に誇りを持っていた。御霊様の使徒であり、神界一の猛者であると。だがそれもあの一件で捨ててしまった。


 たとえ誇りを捨てようとも、この世界を守るためならば、それでも良かった。だが、ああ、それも違っていた。自らを畜生に堕としながらもそれは何の意味もなかった。殺戮と破壊の悪徒となっただけだった。


 間違いをあれ以上重ねる前に、貴公があそこで止めてくれたお蔭でまだ良かった。いや、既に殺された者どもには何も良かったことはない。我が悪行は既に行われてしまったのだ。


 この身は何だ。誉れある丈夫(ますらお)と自ら認めていた我とは何だ。ただの悪賊ではないか。


 せめて戦士でありたかった。戦う術などない無辜(むこ)の人々を殺して回り。


 どうせ刃を向けるのならば、龍のような侵略者とも言わぬ、せめて戦うに値する者を相手にしたかった。戦うのなら武人と戦い、死ぬのであれば相手の名誉になりたかった。我を打ち倒した強者(つわもの)に、シノノメ殺しの何某(なにがし)と、誉れある二つ名を与えたかった。


 死ぬのであれば貴公と刃を交わしたあの時に殺されたかった。貴公の武名にシノノメ殺しと加えたかった」


アラ「シノノメ元将軍、貴方は死ぬ気ではありませんか」


シノ「それで解決するのであれば、すぐにでも死のうが。だがしかし、この身が滅んだところで何にもならぬ。我はせめて村人達に許しを乞わなければ。御霊様にも贖罪を。その上で彼らが死ねと言うのであれば一切の躊躇いもなく直ぐにでも死のう。しかし彼らが他の何かを求めるのなら何にでも応じよう。


 罪と恥に塗り上げられた穢らわしいこの身を引き摺りながら。


 それにしても憎い、憎い、ただ憎い」


 ただ只管(ひたすら)に呪わしい。


シノ「我を穢した、あの龍が。あのようなことをさせた、あの龍が」


 ただ只管に呪わしい。


シノ「恨む、恨むぞ」


 龍だけではなく、自らもまた。


シノ「何なのだ我は。一体何だと言うのか」


 感情の高ぶりと共に、虚ろな印象のあったシノノメの身体から熱が溢れ出た。その熱はアライソの目には暗い(もや)として見え、彼の身体を覆い尽し、盛り上がり、後から後から吹き出でるそれが、シノノメの肌を内側から突き破り始めた。彼自身は感情の(たけ)りに心を奪われ、体の異常に気付いていなかった。


シノ「憎い、悔しい、恨めしい、不甲斐ない。ただ只管に呪わしい。龍めも、己も」


 我は一体何だと言うのだ。ただの悪賊、破壊者ではないか。この世界の敵でしかない。神界を蹂躙する、御霊(かみ)への叛逆者でしかないだろう。憎悪と敵意がこの身を満たし、溢れ出る。怨念だけが己を動かす。


 シノノメの清らかな肌はいつしか濁り出していた。染み一つなかった白い肌には今ではどす黒い痣が無数に広がり、それは濃淡を変えながら身体中を蠢き回った。次から次へと湧き出る痣は表皮を破いて痘痕(あばた)を作り、絹よりも滑らかだった神人の肌が醜く爛れた。


 肌上で動き乱れて傷痕を付ける多数の痣は、それぞれが広がり、互いにぶつかり繋ぎ合わさり、(いばら)の模様を描き始めた。連結した痣は黒縄の如くに彼を縛め、きつく締め上げ皮膚を裂き、神人の肉を露出させた。それも直ぐに新たな痣に潰された。


 痣に覆われ地肌も隠れたシノノメからは、内臓のような酸い臭いが放たれていた。それでも怨嗟の呻きを喉から漏らす彼は自分の変化に気付かなかった。


 いやむしろ自らの状態を鑑みるだけの理性はなくなっていたと言った方が良いだろう。


 彼は正気を失っていた。


 千々に乱れた精神は、精神そのものの存在である神人を異形に変えた。嵐の夜よりも暗い色の、節々に瘤の隆起する荒れ果てた姿は、神人ではなく、人間ですらなく、(おぞ)ましく醜い怪物としか呼べなかった。


 彼の体は皮下に充満する障気によって膨張し、人であった頃の倍はあろうかと思われる程になっていた。湧き出でる暗い靄が周囲を翳らせていた。喉であったと思わしき場所からは、地の底から響いて来るような怨嗟の呻きが漏れ続けていた。


 彼は衝動的に浮腫(むく)んだ腕を振り回し、地に叩き付けた。地響きが空間を震わせた。


アラ「シノノメ将軍!」


 呆気に取られていたアライソがようやく発したその叫びも、もはや彼には届かなかった。


 ただ狂気だけが彼の抱いている全てだった。怨嗟でさえも、彼にはそれが何であるかが分からずに、臓腑を抉るような苦しみとしか認識出来ていなかった。


 憎悪ですらもその感情を言語化出来ず、自身を掻き乱す衝動としか捉えられずに、外界へ対する純粋な攻撃性へと転化した。


 敵意が彼の体を動かしていた。思考はなく、理由はなく、ただただ世界を破壊したい、本能的な意志となっていた。


 彼は荒れ狂う怪物と化していた。それは、


アラ「修羅」


 そのものとなっていた。彼は本能である敵意のままに暴れ回り、この世界を破壊しようとするのだろう。ほんの僅かの前には最も尊んでいた神界を、その平和を壊乱し、何よりも優先していた国土を滅亡させんとするのだろう。


アラ「止めなければ」


 ならなかった。たとえ元はシノノメであったとしても、この怪物は倒さなければならなかった。


アラ「武人としての誇りを捨てても、(いた)わるべき村人を犠牲にしてでも、必ずや神界を守ろうとした彼の意志をここに継ぎ」


 自分に言い聞かせるようにそう言った。アライソは左目に片手を当てて、するりと大太刀を引き抜いて、


アラ「貴方の守ろうとしたもののため、その厄災を討ち滅ぼさん」


 気合一声。戦いに臨んだ彼の様相は以前のものとは全く違っていた。大太刀を八双に構えたその姿勢は巌のように重々しく、眼光は鋭く、傍目にも分かるほどの気迫が発せられた。武威に満ち溢れた彼の姿は、まさにシノノメそのままだった。


 修身、鍛錬、経験、覚悟、そして武術を彼から直に受け継いだが故だった。


 目の前の状況に集中している彼は自身の状態すら意識せぬままに地を蹴って、全身の発条(ばね)を使った一跳で敵へと躍り掛かった。


 振り下ろされた大太刀の切先の煌めきが線を引き、その残光が消えぬ間に全身を一回転させて円を描いた。輝きの円はピシリとその空間に食い込んで、時が止まったようにも感じられた。「払界塵(ふっかいじん)」その技のシノノメだからこそ至った技の極致のその先だった。


 (たい)の捌き、技の冴え、アライソの動作は本来のシノノメと寸毫(すんごう)たりとも違ってはいなかった。武芸の腕は一分の狂いもなく確かに彼へと継承されていた。


 腰を落として(かすみ)に構え、静かに息を整えた。


 残心。


 既に勝敗は決していた。禍々しく穢らわしい暗い靄の怪物は、払界塵の軌跡に従って二つに斬り裂かれていた。断ち離された(もや)と靄との間から、向こう側の景色が見えた。


 靄は瞬く間に消散して行った。アライソが一つの呼吸もしない内に、シノノメであった怪物の姿は(かすみ)のように消え失せた。


 後にはただ、深沈として虚無へと構えるアライソの姿が残っているだけだった。


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