2.1.25.継承
大太刀はアライソの左目にするすると入り込み、刀身が消え、ついには柄頭までもがすっぽりと納まった。
シノ「うむ。これで良い。貴公が旅をするにもこれなら荷物にならないだろう」
アライソは当惑しながら左目を撫でた。
シノ「神界の武器は魂魄の武器だ。精神や魂魄を斬っても肉体は斬れない。貴公の左目は潰されており、その場所には精神がない。だからこうして大太刀を差し込んでも傷にはならず、眼窩の窪みに」
アラ「仕舞う」
シノ「ことが出来る」
人間は精神と肉体が絡み合って一つになりそれら二つの差異に無自覚だが、神人は肉体のない精神のみの存在であるからして、たとえ肉体を持っていなかったとしても、こうした事柄に関しては彼の方が直感的に分かったのだろう。
思えばシノノメはアライソの肉体に入り込もうとした。それが出来ると分かっていたのも、その方法を感覚的に分かっていたのも、精神と肉体とを別のものだと認識している神人であったからだろう。
アラ「それではこの刀は預かっておきます」と、左目を押さえた。
シノ「くれぐれも頼む。そして貴公に受けって貰いたいものの、もう一つはこれだ」
と、台座に載っていた手斧を取り上げた。
それは神界の武器に相応しく神妙な出来ではあったのだが、既に渡された宝器に比べればこれと言って秀でるところの見えない、言わば普通の斧だった。
アラ「そちらのものは」
シノノメはそれには応えずに、黙って斧を振り上げた。
右手一本で高く掲げられたその斧が、シノノメのふっと吐いた息と共に振り下ろされた。
アライソがただ眺めていただけの目の前で、斧はシノノメの左肩に打ち下ろされた。左腕がばっさりと断ち落とされた。
アラ「何をしている!」
丸太のように太い腕がごろんと転がった。突然のことに狼狽するアライソとは対称的に、自らの腕を断ち切ったシノノメ自身は平然として、顔色一つ、眉一つ動かしたりもしなかった。ただ冷静に、何も起こらなかったかのように、つい一瞬前まで自分に繋がっていた左腕を拾い上げ、
シノ「これが我の腕だ」と、淡々として、「長年の鍛錬によって磨き上げ、謙遜はせぬ、神界一の兵となったこの我の、武芸の腕だ。大自在王の太刀と共に、これも持っていけ」
アライソは混乱して何の返事も出来なかった。
シノ「アライソ殿、貴公には強靭な肉体がある。神界の宝器も渡した。だがそれだけでは戦は出来ぬ。技がなければ。武術の腕がなければ戦うことなど到底出来ぬ。ましてや相手はあの龍だ。一角の武者でなければ。
太刀打出来るか出来ないか、そんな話では困るのだ。必ず、あれを討ち倒して貰わねば。そのためには我はあらゆることをする。どのようなことでも。打てる手は全て打つ。たとえこの身を捨ててでも。どんな犠牲を払おうとも」
アラ「……」
シノ「そうだ、何を犠牲にしようとも、だ。神界の平和には代えられぬ」
未だ混乱から覚めぬアライソに向かって左腕を差し出した。しかしそれを受け取ろうとも何をしようとも出来ない彼に、
シノ「託したぞ」
と、左腕をアライソの胸に押し付けた。するとそれは大太刀が左目に呑み込まれたのと同じように胴体に吸い込まれた。
腕は肉体に入り込むとじわりと融けて、彼自身が見えない体の内で、液体の重金属のように隅々にまで染み渡り、アライソという皮袋には、シノノメの練り上げられた武術の技量が満ち広がった。
心なしかアライソの姿態はがっしりと安定して、突けども揺るがぬ盤石の重さが姿勢の内に貫かれたようだった。しかしもしも彼が動こうとすれば、羽毛よりも軽やかに俊敏に動作を起こせただろう。武術という名の体捌きを彼は身に付けていた。
シノノメは以前アライソの体を乗っ取ろうとした。それはこのようにして精神を肉体に挿入することだった。もしもシノノメがあの時あのままアライソの体に乗り移ろうとすれば、腕が肉体に溶け入ったのと同じように、それは成功していただろう。
シノ「アライソ殿よ、これで貴公は人間の肉体と神界の宝器、そして神将の兵法を身に付けたのだ。これならばあの龍にも勝てる」
隻腕となり、どことなく衰えたようなシノノメを見据え、
アラ「シノノメ元将軍、貴方の意志は受け取りました。必ずや」
シノ「くれぐれも頼んだそ。我が兵法と肉体が合わさったのだ、恐ろしく強大な力となろう」
そしてふっと息を吐き、
シノ「これで我は抜け殻だ。もはや何も残っていない。将軍の職務はトヨハタに任せた。宝器は貴公とトヨハタ二人に渡した。武芸の腕は貴公に託した。我はもはや何者でもない。
それは別にいい。何の問題もない。僅かな悔いも抱いていない。
だがしかし、我は最も大事なものを捨ててしまった。その悔恨が臓腑を切り刻む」
と、アライソを見詰め、
シノ「こうなってしまっては武士とも呼べぬ。自らの誇りを、名誉を、役目を捨てたのだ」