2.1.24.夜半にて
夜も更けアライソは自室で食事をしていた。将軍交代の儀式は終わった。自分の盗みも済ませた。断言は出来ないが、とりあえず龍は戻って来なそうだ。そして何より食料があともう一日分しか残っていなかった。
アラ「明日一日名残を惜しんで、明後日には現実に帰ろう」
不安はある。神界で永遠に暮らしていたい。あの塵に塗れた世界にも戻りたくない。だが否応のない期限だった。
憂鬱な気持で咀嚼物を喉の奥に水で押し込んでいると外から声が掛かった。
兵士「夜分に恐れ入ります。アライソ殿はまだお目覚めでしょうか」
アラ「ええ。どうか致しましたか」
何気なく返事をした。だがすぐに偸盗が見抜かれて疑われているのではないか、との考えが脳裏を過ぎった。もしもそうだとすれば。
兵士「シノノメが呼んでおります。お手数でなければお出で下さいませんでしょうか」
アラ「はい。後は寝るだけでしたから、喜んで」
落ち着いた調子で答えたが、内心は震えるほどに焦っていた。
外に出て兵士の案内に続いた。
もしも露呈していたとしたらどうなるのだろう。軍法会議だろうか。いや、自分は軍人ではないからそうではない。普通の罪人として裁かれるだろう。しかし単なる窃盗犯ではない。国家の保安に関わることだ。死刑を下されても文句は言えない。
いや、だが、そうであるなら呼んだのがシノノメであるというのはおかしい。今朝までは将軍職であったとしても、今はもう退任している。軍を統べる立場でもなければ裁く権限もないのではないか。
自分を率いる兵士の顔をそっと覗き見た。彼の表情、素振からは何も感じられなかった。アライソも表には動揺を表さなかった。
この陣営に来てトヨハタらと会談した本陣まで来た。
兵士「では、こちらへ。シノノメが待っております」
室内は壁際に燭台が列を成していたが照らすには広すぎると見えて暗かった。薄闇の中央にシノノメが座っていた。燭台の明かりは彼まで届いていなかった。いや、と言うよりも、まるで彼の発する影が光を遠ざけているようだった。
シノ「おお、アライソ殿。よくお出でなさった。二人で話がしたい。伝令には席を外してもらう」
兵士はするすると引き下がり、彼を残して間仕切りを閉めた。足音が遠退いて行った。
シノ「将職移譲の儀、どうであった」
アラ「……初めて見るものではありましたが、見事でした」
シノ「そうであろうな。あれが我の最後の仕事だ。恙なく果たせたはずだ」
誇らし気な声音だったが、どことなく陰が混じっていた。そしてシノノメはあの儀礼の最中にアライソが抜け出したことは知らないようだった。盗みが気付かれたわけではないようだ。一先ずは安心した。
シノ「我はもう将軍でも何でもない。だから本来はこの本陣を私用で使うことは出来ないのだが、特別に許しを得た」
アラ「……」
シノ「トヨハタには寛恕の心がある。新将軍として安泰だ」
アラ「ええ」
シノ「アライソ殿はどう思う。あれは上手くやれそうか」
アラ「私は、そういったものには詳しくなく」
シノ「素人目で良い。どう見える」
アラ「……良い将軍になれるかと」
シノ「そうか。安心した。これで心置きなく退役できる」
アラ「……」
シノ「あれは立派な人物になろうな。我とは違って」
アラ「シノノメ将軍、いえ元将軍。あなたも神界を想う心持、戦士としての強さ、立派な方だと思います」
シノ「ふ、我はそのような者ではない。自身が一番分かっておる。そして我を置いては唯一貴公だけが分かっておる」
アラ「私だけとは」
シノ「二人だけで話をしたいと他の者は遠ざけた。これを聞くのは貴公だけだ。だから言う、我に神軍を統べる資格はない。既にこの世界を守る衛士ではない。もはや御霊様の信徒とも呼べぬ。そうだ、貴公が言ったように、我は守るべき村を襲い焼いたのだ」
その言葉にはっとして、
アラ「あれはやはり許されないものです、が、しかし、将軍には将軍の、世界を守るためにはどうしても必要なことであったとの理由があったのではありませんか」
シノ「だがここに戻って来ても龍はいなくなっていた。村を襲わなくても良かったのだ」
アラ「そんなことは知りようがありません。結果論です」
シノ「結果論であろうが、事実として我は村を焼き、村人を殺した。そしてそれは無意味であった。意味もなく村を蹂躙し、人々を殺戮した。貴公が言ったように、我は悪賊であり背信者だ。そうだ、我と貴公だけが、この身が大逆人であると知っている」
アラ「行いは悪くあっても、想いは決して」
シノ「よい、分かっておる。我の行いは決して許されるものではない。
ここへ来る途中、軍の将として口にしてはいけない言葉もある、と言った。それはつまり、あの作戦は失敗であり無駄であり、そして不正義であったということだ。
兵達は我に従っただけであり罪はない。彼らが従ったのは、我を信頼し、それを正しいと信じたからだ。彼らの心に暗雲を落としてはいけない。軍を率いる者として、既に行われた行動が間違っていたとは言えないのだ。
兵らの心根は清らかであり、性分は善だ。過っているのは我だけだ。統べる者が浅慮であったから、彼らはあれをやらされた。あのようなもの、あのような行動は、神兵のするべきものではない。
それでもあの龍が国土を襲うのならば已むを得ぬ。神界全土を守護するためには、他に道はなかった。村人達には悪いと言うのも愚かだが、致し方がない、犠牲になってもらうしかなかった。
にも拘わらず、神兵の誇りを捨てながら散々蹂躙し殺戮したのにも拘らず、龍などいなくなっていた。
おお、結局奴がいなくなるのであれば我は何のために村を焼いたのだ。村人は何故殺されたのだ。この国のため、そのためにこそ我は殺したというのに。軍の将が愚かにもあれが必要であるなどと誤った判断をしたために、彼らは、村人らは犠牲に、いや、犠牲ではない、無駄に殺されたのだ。無意味な死を迎えたのだ。
龍は何故いなくなったのだ。居さえいればあの行動には意味があったのに。何故いなくなったのだ。恨む、恨むぞ。
いや、違う、国土の脅威がなくなったのは良いことだ。喜ぶべきことだ。自らの行いを正当化したいがために敵の襲撃を願うとは。呪わしい考えだ。彼奴がいなくなったのは良いことだ。こうなるのがこの世界にとって最も良かったのだ。間違っているのは我だけだ」
痛恨に満ちた息を吐き、
シノ「アライソ殿よ、聞いて欲しい。我は神兵を退く。我にはその資格がない。だから将軍職をトヨハタに譲り、降三世の剣を托した。
そして貴公にも受け取って貰いたいものが二つある。
いや、その前に、聞かせてくれ。貴公は今でもこの世界を大切に思い、脅威から守ってくれる意志はおありか」
アラ「力になれるのであれば、なりたい。私にとってもこの世界は尊いものです」
シノ「かたじけない」
と、俯いた。彼の足元には横に長い台座に載って、抜身の大太刀と手斧があった。
シノ「この太刀には見覚えがあるだろう。貴公と手合わせした際に使っていたものだ」と、取り上げて、「名を大自在王の太刀という」
と、つくづくと、見惚れるように見詰めていた。惜しんでいるわけではないだろうが、彼としても思い入れのある大切な武器のようだった。
シノ「龍と戦った時、この太刀とトヨハタに托した降三世の剣の二振りの宝器だけが奴に傷を付けられた。
貴公はこれからも神界を旅するのだろう。どうかこれを受け取って、あの龍と遭遇したならば、これで奴を打ち倒して欲しい」
アラ「そんな貴重なもの、受け取れません。私には余ります」
シノ「そんなことはない。我を置いては貴公だけが、奴を討てる可能性があるのだ。それに、これは貴公の私物にしても良いと言っているのではない。あくまでも神界のため。この世界を守るために、貴公に持っていて欲しい」
それでもアライソは躊躇った。
シノ「奴の手からこの邦を守って欲しい」
その瞳は切実だった。それに促されるようにアライソは僅かに頷いた。
シノ「頼んだぞ」
そう言って彼は大太刀の切っ先をアライソの目に突き刺した。




