2.1.22.儀礼
東の空にようやく暁の色が差し始めた時刻だった。紫雲は鈍い光を孕んで長く長く棚引いていた。朝鳥も未だ啼かず深更の静寂が大気の中で名残を惜しんでいた。
天幕の外で控えめに鳴らされた咳払いでアライソは浅い眠りから覚めた。それから咳払いをした者のものであろう声が聞こえて来た。
兵士「アライソ殿、お目覚めでしょうか。昨日お聞きになったことと思われますが、これより将軍職移譲の儀式が執り行われます。アライソ殿にご参観いただければシノノメへの餞になるかと思われます。礼式の都合上アライソ殿の席はなく兵卒どもの後ろからご観覧いただくことになりますが、どうぞご参加をお願い致したく」
アラ「私もこの軍とはもはや他人ではないと思っていますから、参列が許されるのであれば是非」
アライソは天幕を出て兵士の後に続いた。陣の中は人の気配も僅かにもなく、無人の静けさに満ちていた。
陣営を出て海岸線を行き、少し歩くと軍の隊列が見えた。昨日までの動揺も今では消えて、全軍整然として皆兵粛然と居並んでいた。東の水平線に輝く旭日の予兆に向かいながら、厳かに整列する黄金の甲冑の群がその時を待っていた。
アライソは隊列の最後尾に並んで彼らと同じように式典が始まるのを待った。兵達の見詰める前方には舞台が設営されていた。昨夜の内に準備したのだろう。その背後には大海原が広がっていた。
薔薇色に輝く朝日が、その縁を海から覗かせた。大気がすっと引き締まった。
舞台の上に一人の女性が――とアライソには見えた――、現れた。彼女は闇夜よりも尚黒く絹よりも尚滑らかな豊かな髪を風に泳がせて、一点の濁りもない純白の衣を身に纏い、その裳裾を軽やかに靡かせていた。
アラ「御寮様……」
アライソはそこに女神の示現を見た。が、すぐにそれが錯覚だと気付いた。彼女は女神そのものではなく、見間違えるほどに似ているが、女神の風采を装った神人だった。
台の中央に立つと全軍を見渡し、一度瞼を伏せてから、豁然と両目を見開いた。彼女はこの儀典を取り仕切る祭司だった。薄く紅を塗った唇が開いた。
祭司「これより将職移譲の儀が始まる」
大地に染み入るような、重々しい男の声だった。険しく真剣な顔をした祭司は女装をした男だった。薄く化粧をした彼は続けて言った。
祭司「シノノメ、前へ出よ」
この場所にいる以上、彼もまたこの軍隊の一員のはずだった。普段はただの兵卒に過ぎないであろう彼が、その長を呼び捨てにして命令した。
シノノメが舞台に昇り、黄金造りの絢爛な鞘に納められた剣を恭しく祭司に捧げた。そして彼は両手を突き、
シノ「鎮東将軍としての任を受け預かりましたる降三世の剣を今ここに返納致しまする」
と、額突いた。
祭司「有り難くも得難き役職、果てずして自ら辞する所以を常ならば質すところだが今回は問わぬ。宝器の返納を許そう」
シノ「は。有り難く存じまする」
祭司「して、この剣を手にするに足る者はこの場に在りや無しや。相応しい者があれば包まずに申せ」
シノ「某愚考致しますに、トヨハタなる者が剣に値しましょう。彼は長年某の右腕として良く働き、その才覚、篤信、人品、厚徳につきましては万民の知るところであります。この場において剣を持つべき人物とはまさに彼のことでありましょう」
祭司「それは汝を差し置いてもか」
シノ「は。某よりも優れたる強者でございます。僭越ながらも某が任を賜った際には彼はまだ若輩でございましたが、この身が将軍職にある間に成長を遂げ、今では抜きん出たる人物となりました」
祭司「なるほど。彼か」と、居並ぶ兵士達を見渡して、「兵どもよ、トヨハタを汝らの長とするは如何」
兵士達は地を踏み鳴らし、
全軍「おう!」
と、天が震えるほどの大声で返した。
祭司「異論のある者は申し出でよ。この場であればどのような意見も邪魔立てはさせず何人たりともそれによって害を為すことは許さぬ」
と、一呼吸の間を置き、
祭司「異議は!」
全軍「なし!」
一斉に放たれた声はずれたところもなく完全に統一されていた。全軍の総意が表れていた。
祭司「トヨハタ、前に出よ」
隊列の中から一人の若者が進み出た。彼は他の兵士達とは違い甲冑を身に付けず、簡素な薄衣だけを纏っていた。神界の衣であるからして清らかなものではあったが、周囲の煌びやかな甲冑と比べれば粗末とも言えた。
そのトヨハタもまた舞台へと昇り、祭司に向かって跪いた。
祭司「トヨハタよ、余は群衆の中から汝を選び出し、この場へ呼んだ。神軍を率いる覚悟はあるか」
トヨ「は」
祭司「大任、引き受ける覚悟はあるか」
トヨ「は」
祭司とトヨハタの問答はそれからも続いた。
兵士達は皆舞台を熱く見守っていた。シノノメは額突き、トヨハタは面を伏せていた。祭司は自らの役割を熱演していた。隊列の後方になど目を向ける者はいなかった。アライソの動向を見る者などいなかった。
アライソは足音を立てないようにしてこっそりと集会から立ち去った。この神聖な儀典を抜け出して、盗みを働くつもりだった。彼らの信仰心の影に隠れて、自らは偸盗を犯すつもりだった。これは明らかな裏切りであっただろう。
しかし、今こそが罪を犯す好機だった。