2.1.21.交代
アラ「このような時だが仕方がない。私には私の生活もある。……大したものじゃない、小っちゃなものだ。なくなっても気付かれない程度のような……。そうしたものの一つくらいなら、なくなっても差し障りないだろう」
夜が更けてこっそり天幕を抜け出した。武器庫の前には歩哨が変わらず立っていた。
兵士「アライソ殿、こんな時間にどこへ」
他意のない純粋な質問だった。
アラ「その、……人間の生理で。ここでするわけにもいかず……」
兵士「ああ。例の。話に聞いております。お手間ですね。我々には勝手の分からぬものですが、どうぞごゆるりと」
アラ「お気遣いありがとうございます」
陣を出て暫くの時間を潰し、それから戻った。その時にもやはり見張りは立っていた。兵が言っていた通り、他はともあれこれだけは管理しておかなければならないのだろう。
アラ「お疲れ様です」
兵士「いえ。これが役割ですから」
天幕に戻り横になった。この状態では盗むのは無理だ。何か策を練るか時を得なければ。今は一先ず眠り体を休めることにした。
翌朝になっても陣内には慌ただしい雰囲気が漂っていた。哨兵に聞くと評定は夜通し続けられて参加者は一睡もせずに今この時にも論議を交わしているそうだった。
外の空気を吸いに行き、昼下がりに戻って来てもまだ終わらず、終わる気配もなく、むしろ激しさは増して行っているそうだった。武器庫の兵士も難しい顔をしていた。
昼が過ぎ、夕が訪れ、再び夜になった。それでも評定は終わらなかった。深夜、昨晩と同じように用を足しに行く振りをして武器庫の前を通ったが、何ら変わるところはなかった。
また夜が明けた。前日までに比べて哨兵の数は明らかに減っていた。相当数が評定に出席することになったようだ。それでも武器庫の歩哨だけは二人から減ることはなかった。
そうした状態で更に三日が過ぎた。アライソは焦りを感じ始めた。現実世界から持って来た食べ物が後二日分しか残っていなかった。神界には雑菌もなく腐りにくいものを持って来ていたから食中りの心配はなかったが、分量には限りがあった。元の世界へ帰らなければいけない時間が迫っていた。
アラ「いざとなれば別のものでもいいのだが、出来れば金になりそうなものを。どうせ盗むのは同じなのだ」
そんな折、俄かに全軍が騒々しくなった。自制心に満ちた神兵達ですら騒ぎ始めた。
陣の外が荒れている様子はない。龍が再び現れたのでもないようだ。いや、神兵達はそれを警戒していたのだ、それであったなら活気付きはすれども慌てるはずはない。
天幕の外で走っていた兵士に声を掛けた。
アラ「いかがいたしました」
兵士「将が、シノノメ様が、辞任をされると!」
これはアライソにとっても青天の霹靂だった。兵の後に彼も続いた。
本陣は緊張に満ちていた。キッパリとしたシノノメを中心に、他の将校は受け入れざるものを受け入れた沈痛な面持で押し黙り、その外を囲む兵卒達は目線を泳がせ互いに目配せを交わし合っていた。
シノ「言った通りだ。我は将を降りる」
兵1「しかし将よ、このような時に。いつまた奴が襲って来るかも分かりませぬ」
兵2「将が降りては、軍はどうなります。軍が脆すれば国土も危うくなりまする」
シノ「それらについての支障はない。既に告げたようにトヨハタが後を継ぐ。こやつならば上手くやろう。我よりも余程な。トヨハタ。で、あろうな」
トヨ「は」
深沈とした重い表情で頷いた。
シノ「このようだ。問題ない」
兵1「しかし、何故。シノノメ様は御健壮にあらせられる」
シノ「我も老いた。潮時だ」
兵2「然様なことは。武術一つ採っても軍の誰もが未だシノノメ様には比肩し得ませぬ」
シノ「と、思うのは余人ばかり。自身の衰えは自分が一番分かっておる」
と、その時アライソと目が合った。シノノメは目で何かを伝えようとしたようだった。しかしアライソには何を伝えようとしたのか分からなかった。
アライソもまた他の兵士達と同じように困惑していた。彼との交流は短いものだが、しかし為人は分かっていた。彼は自分の任務を中途半端に投げ出すような人物ではない。
そして実際に戦って、彼が他の兵士とは隔絶した強さをしていると分かっていた。決して衰えてはいないだろう。いや、そもそも神人が老いるのだろうか。
また辞任の宣言はここに着くまでの行動や言動とも懸け離れていた。アライソを捕らえて戦った時、彼は自身でアライソの肉体を乗っ取り、自分で龍と戦おうとしていた。行軍中にも彼はあくまで神軍の長として振る舞っていた。とても辞める考えを持っているようには見えなかった。
シノ「話はここまでだ。全軍に伝えよ、将職移譲の儀は明日執り行う。このような時であるからして、急なことにもなり簡略なものとする」
将校を除いて全ての兵が本陣から解散させられた。シノノメ辞任の報せは即座に全軍に通達された。伝聞ではない、正式な知らせを受けて兵士達はどよめき、陣の内も外も一斉に騒々しくなった。
アライソは自室で横になり、盗みの事も忘れてシノノメについて考えた。何故突然辞めるなどと言い出したのだろう。そして辞めて、この軍はどうなるのだろう。神界はどうなるのだろうか。
そうしている内に天幕の外の喧騒はやや治まって、兵士達の足早に行き交う音、ものを運ぶ合図の声などが聞こえて来た。先程言っていた明日の儀礼のための準備をしているのだろう。
アライソはまんじりともせずシノノメを想った。