2.1.19.旗は空を切り
東の辺境は、空は穏やかにして草原には爽やかな潮風が吹き通っていた。どこまでも平野の続いている神界の陸地が途切れ、その向こうには海原が広がっていた。ここが地の果てだった。だがその海面もあくまで静かで漣すらも立たずに凪いでいた。巨大な鏡のようだった。
何も知らずに見ていたならば、ここも平和で美しい神界の風景でしかなかった。
シノ「しかし、あれは現れたのだ。どうなっている」
穏和な景色ではあったが、その調和を崩すように街道の先には崩壊した城郭の跡が痛々しく散り乱れていた。地は焦げ灰に覆われて、瓦礫となった石垣には煤がこびり付き、幾十本もの黒い柱が傾きながら乱立していた。
何者かがここにあったものを、建造物を、城塞を破壊したのは事実だった。それに遭遇した者達は一溜まりもなかっただろう。
シノ「この地はとっくに崩壊させられたものとばかり思っていたが・・・・・・。いや良かった」
この地ばかりではない、来るまでの道も、とうに荒廃させられているものとばかり思っていた。自分達のいる所まで、すぐにでもあの龍が襲って来るものとばかり思っていた。それがここに着くまで、草の一本に至るまで乱れるところもなかった。
シノ「・・・・・・これもトヨハタの働きか。・・・・・・。よくやっている」
惨たらしい城跡の傍に、整えられた戦陣が張られていた。皴一つなく張られた外幕が陽光を照り返していた。トヨハタの部隊のものだろう。報告にあった通り、それは威にして傷跡一つも焦げ跡一つも見当たらなかった。
シノ「どう考える」
汚れすら見当たらない戦陣が訝しく、側近に聞いたがはっきりとした返事はなかった。戦った、とは見えなかった。とてもそんな様子ではなかった。
シノ「どう思う」
アライソにも問うた。しかしアライソは戦など知らない。ここであったという出来事もシノノメに聞いただけで自分では見てもいなかった。
シノ「直に質すしかないようだな」
彼は足を速めて隊列の先頭まで進んだ。
そして陣営が音声の届く距離まで近付いた頃合、正面の軍幕が開いて中から数人の兵士が出て来た。甲冑は煌々として威風を放ち、手にする槍の穂先は日光を照り返していた。間違いなく神兵の一員だった。トヨハタについて行った者だった。
彼らはシノノメの元に駈け寄ると片膝を突き、
兵1「将、よくご無事で」
兵2「ここへ戻られたということは再起が叶ったに違いありません。祝着至極に御座います」
畏まって挨拶をした。だが彼らの態度には、どことなく気まずさがあった。
シノ「うむ、それは良いが。どうなっている。トヨハタに話を聞こう」
兵らはちらっと互いに目配せをして、
兵1「は」と、頭を下げ、それから、「ではこちらまで」と、シノノメを促し、「ただご覧のように狭いものですから、全軍は入れませぬ」
シノ「であろうな」
隊を外幕の外に控えさせ、数人の側近と小姓、そしてアライソを連れて彼らに続いた。
陣中には幾つもの天幕が張られ、それぞれの元には先の野営地で別れた精鋭達が居並んでいた。規律通りに整然と屹立し、シノノメ達を見ると敬礼もしたが、どことなく妙な雰囲気を漂わせていた。どこか弛緩していた。どこか鬱屈していた。
兵士らによって皺一つなく張られた絢爛な軍幕の前まで案内された。これが本陣なのだろう。中に入ると、一際豪奢な甲冑の上に陣羽織を羽織った神兵が片膝を折って、シノノメ達を迎えた。
彼はシノノメに比べれば若く体躯も締まっていたが、身に纏う厳粛の気においては引けを取ってはいなかった。トヨハタだった。
彼は恭しく礼辞を述べた。が、やはり他の兵士達と同じようにどことなく決まりの悪そうな様子をしていた。
シノノメは挨拶もそこそこに、陣内の中央にある軍卓子まで行くと、彼を床几に座らせて自分も腰を下ろし、アライソにも座を勧めた。
そして、
シノ「そちらの首尾も聞きたいが、先ずはこちらから伝えよう。端的に言えば軍の再建はならなかった」
トヨ「なんと」
シノ「物資の補充はならず、兵の増強も出来ていない。我が軍としては其方らと別れた時と同じだ」
トヨ「・・・・・・お言葉でありますが、将よ、では何故お戻りになられた。現兵力では奴に対抗出来ないとご存じのはず。・・・・・・」と、そこで言葉を詰まらせた。
シノ「まあ待て。その代わりに我らは力強い協力者を得た。先の戦いでは万全の軍でも奴には歯が立たなかった。しかし今度は必ずや勝てよう。この者が力を貸してくれる」
と、アライソを目で示した。
トヨ「先程から気になってはおりましたが、この方は」
シノ「うむ。この者は人間だ。話に聞く肉体というものを持っておる。娑婆世界から来たそうだ。それも御霊様にお目通りしてな」
トヨ「おお」
シノ「武芸の心得はないが、素質の面においては神人とは比べ物にならぬ。我も手合わせをして辛うじて勝ちはしたが、いや難儀した」
トヨ「シノノメ様でも梃子摺るほどに」
シノ「然様。神人と人間の違いというものを思い知らされたわ。しかし味方となってくれればこれほど力強いものはない」と、アライソの方へ振り返り、「改めて頼むぞ」
アラ「出来得る限りのことはするが、どの程度の役に立つか」
シノ「このように謙虚でもある」と、大笑し、「だが、あまり慎まれても困るのだ。繰り返すが、奴は手強い。そして何としてでも討ち取らねばならぬ」
アラ「それは元より。覚悟してここに来た」
シノ「頼もしく思うぞ」と、それからトヨハタに向き直り、「こちらはこのようだ。して、トヨハタ、そちらはどうなっている」
聞く言葉と共に目端が鋭く光った。トヨハタは眉間に皺を寄せて俯いたが、重々しく口を開いた。
トヨ「我々は、戦っておりませぬ」
シノ「陣容を見るにそうであろうが、一体何をしていた。本隊を逃がすための捨て石となろうと申したは偽りか。龍はどこだ」
トヨ「・・・・・・立ち去りました」
シノ「何だと。其方らが追い払った、・・・・・・わけではないようだが」
トヨ「では御座いませぬ。
我々は本隊と別れた後、あの野営地で戦列を整えました。いつ彼奴に追い付かれても良いように。しかし待てども待てども姿が見えるどころか風すら吹きません。
我らは青褪めました。もしや彼奴は我らを追うのではなく、全く別の方角へと向かったのでは。待ち伏せるのではなく、奴の居所を探るためにも道を引き返しました。
しかしその戻る道の様子はどうだったでしょうか。見渡せども見渡せども奴が暴れたと見えるような、通ったと思われるような、荒れた様子はありません。・・・・・・おそらくは、将がここまで御来駕される際にもそうであったはず。飽くまでもいつもの、平穏な光景が広がっているばかりでした。もしも草一本でも乱れたところがあれば奴の通ったものとしてそれを追っていくつもりでしたが、そんなものもありません。
我々は怪しみながらも警戒を怠らず道を戻りました。そしてとうとう何事もなくこの地まで辿り着いてしまったので御座います。
そしてここで見たものは、先の戦いの記憶通りに破壊され尽くしたこの城塞と、そして、遠い海とその上空の、荒れる様であったのです。
例の暗雲が遠くに浮かび、その下にはあの龍の背中もありました。既に矢も届かぬほどの遠くへ行ったあの龍は、悠々と立ち去って行ったので御座います。
どんどん小さくなっていく姿に向かってどれほど怒号を投げたかったことでしょう。奴と討ち合う、死を覚悟した我々が、ただあの龍ののんびりとした背中を眺めるばかりなのです。
しかし我らの目的は奴をここから先へは向かわせず、本隊の時間を稼ぐこと。それであれば自ら去って行くのは目的に副い、呼び返すのは作戦の妨げとなる。従って我らは黙って奴を、その後姿を眺めるだけしか出来ませんでした。
捨て石となろうと将に宣言した我々が、刃も交えずただただ奴を見送って、昇揚した意気のやり場を失い、呆として突っ立っていることしか出来ませんでした。
奴がこちらを振り向きでもすれば、こちらに気付きでもすれば、戦闘が始まり、我らの覚悟が無駄になることもなかったでしょうが、そのようなこともなく、遂に姿は消え失せて、暗雲も彼方へ、海の乱れも治まりました。
龍は海の向こうへと、この世界から、立ち去ったので御座います。生ける我々を無様に残して。
我々は死に時を失いました」