2.1.18.罪の意識
シノ「それにしても、我はそのような肉体を得ようとしていたのだなあ」
アラ「ああ」
シノ「知らなかったが。いや、待て。貴公はさっき、娑婆のものを食べなければ肉体は保てないと言っていたが、それでは、もしも我が肉体を得ていても、この世界では『飢え』で死んでいたということか」
アラ「十日もしない内にそうなっていただろう」
シノ「そうであったか」
神界に似合わぬ虚しい風が吹いた。必死になって手に入れようとしていたものが、成功していたとしても無駄だったのだ。
シノ「しかし、それならば猶更、貴公が来てくれて良かった。肉体という力を使えるのは人間である貴公しかいない。助力に感謝する」
アラ「今更、礼など。それにまだ始まってもいない。私も力を貸すが、勝てるか、どうか。やれることはやるが」
シノ「何を言う。実際に戦った我が言うのだ、肉体は絶対的な力だ。それがあれば必ず奴を討ち取れよう。肉体なるものには我が刃が通らなかったのだ」
アライソは言うべきか言わないべきか迷った。しかしシノノメは彼を信頼している。だから伝えるだけは伝えておいた方が良いだろうと思った。
アラ「シノノメ将軍、貴方はまだ肉体というものを勘違いしている。確かに貴方と戦って私は無傷でいられた。しかしそれは肉体の力ではない」
シノ「なに」
アラ「この世界へと渡るにあたって、私は女神から神薬を賜った。傷一つ付かない体になる薬だ。無傷であったのはその効力だ。肉体があるからではない」
シノ「御霊様から。それは真か。いやしかし、御霊様の御加護であったのか」
アラ「事実として、私はこの世界に来てから怪我をしている。薬を飲む前に負った怪我だ。これが」
と、潰れた左目を見せた。
アラ「あの村で、貴方の部下と戦った時に負ったものだ」
と、その言葉を口にした瞬間、自分もまた、村人を守るためとはいえ、兵士達を、今目の前で話をしている相手の部下を殺したことを実感した。罪の意識と気まずさに襲われ、口を噤んだ。
しかしシノノメはその様子に気付かずに、
シノ「ほう、貴公の膂力を物ともせずに攻撃を通し、そして傷まで負わせたか。誰がやったのだ」
アラ「……」
シノ「純粋な興味だ。教えてくれ」
アラ「……兜の下で顔形は詳しく分からないが、若い兵士だった。瑞々しい、青春の花が開いたばかりのような」
シノ「若い者か」
アラ「そして私は、傷を付けられて直後に、彼を殺した」
ぐっと黙り込んだ。
シノ「あの村で死んだ者で、若い者……。おお! 蝉麿だな! あれがやったか! 頼りない所もあると気を揉んでいたのだが、そうか、あれが。うむ、我にも出来なかったことを成し遂げたか。見事である。貴公の言う神薬の前後はあるにせよ、だ。あれもまた誉れある武人となっていたのだな。いや、気は悪くしないでくれ」
アラ「気を悪くするなど。私が彼にしたことを思えば」
シノノメはアライソの表情を横目で見、
シノ「貴公はセミマロを殺したことを気に病んでいるのか? 戦だ。敵だ。殺しもすれば殺されもする。悩むところなどない。そうした場だ」
アラ「……」
シノ「貴公があれを殺したのと同じように、あれは貴公を討とうとした。互いに同じ立場だ。そもそもあれは武者であり、そこは戦場である。刃を交える者同士が武名を競う場なのだ。結果として一方が死んだからとて讃えられこそすれ、貴公が責められる謂れはない。我もまた責めはせず、責める道理はない」
アラ「そういうものだろうか」
シノ「そうだ。互いの名誉を賭けた誇りある決闘だ。それに、貴公が討ったのは飽くまで自分に殺意をもって向かって来た者ではないか。殺さなければ貴公が殺されていたのだ。戦意もなく、敵でもない者を殺したのとは違う。……」
そう言うとシノノメの顔に薄い陰が落ちた。
アラ「どうした」
シノ「我は軍の将だ。口にしてはいけない言葉もある」
そうして屹っとなり、
シノ「先日、我々が野営した所まであと少しだ。もう、見えて来た。あそこが、あの龍から逃げて一夜を明かした場所だ。篝火の跡がまだ残っている」
と、指差した。その間にも隊列は進んで行った。
シノ「そうだ、ここだ。ここで我々は惨めな夜を過ごしたのだ。焦げた火の跡と乱れた草とが残っているが、静かなものだ。
戦いの痕も兵の屍も一つもない。これまでにも見ていない。どうやらトヨハタ達はここを離れて道を戻り、ここより先で奴を迎え討ったのだな。そして周りを見渡せども目に見える景色に荒れた様子は未だない。奴はここまで来ていない。よく持ち応えてくれている。あれを信じた甲斐があった」
更に行軍を進めても辺りは穏やかであり、もしもシノノメが虚言のない神人でなければ、悪龍に襲われた話など信じなくなるほどに平和な風景が続いていた。
進めど進めど、
シノ「まだ何もない」
本当に襲撃があったのか、自分自身で疑いそうになるくらいだった。
シノ「こうした平穏を守るために我らがいたのだが」
それが本懐であったのだが、こうも異常がないというのは、あの龍の暴虐を思えばおかしなことだった。
シノ「この調子ならば明日には東の辺境に到着するが……」
このまま歩いて行っても戦闘の痕跡を見掛けるとは思えなかった。それほど街道は平和だった。だが、そうも行くまい。もう、すぐにでもトヨハタの部隊の凄惨な残骸にもぶつかるはずだ。
シノ「一先ず今夜はここまでだ」
街道を外れて簡易な陣を敷き、野営をした。
夜が明けると一番鳥の啼き声と共に一人の兵が、目覚めたばかりのシノノメの元に来て片膝を突いた。彼は隊列から離れて先の様子を見に行っていた斥候だった。
斥候「申し上げます」
シノ「おう」
斥候「それが、この先にも戦闘の跡はなく、トヨハタ部隊の遺骸も一つもありませんでした」
シノ「どういうことだ。あれが逃げるはずもないが」
斥候「ええ。辺境までつつがなく。そして城塞の跡には陣営が築かれておりました」
シノ「トヨハタの隊であろうが。そこまで押し返せたか。いや、戦いの跡もなく?」
斥候「然様で」
シノ「して、陣容は」
斥候「……破れる所も僅かにもなく、無事そのもので御座います」
シノ「龍との戦いの形跡は」
斥候「一切御座いませんでした」
シノ「ううむ」
斥候「接触をしようか考えましたが、異なことにより、先ずは報告まで」
シノ「苦労」
それだけ言って兵らには出立の準備をさせ、アライソを起こした。
シノ「では行こう。今日中には辺境まで辿り着く」