2.1.17.人間の道行きは生活の瑣事に妨げられる
毅然として隊列は街道を下って行った。迷いもなく、躊躇いもなく、一糸と乱れることもなかった。このまま東の辺境まで止まることなどないように思われた。だが、
アラ「将軍、貴方は肉体が欲しいと言っていた。しかし肉体というのがどんなものかご存じなのか」
シノ「どんなものか、とは」
アライソは居心地悪そうにして、
アラ「少し休憩をして貰えないだろうか」
シノ「……。奴が今、どうしているのか分からない。疲れたのであれば、夜になってから野営する。それまでは辛抱してくれ。少しでも進んでおきたい」
アラ「それは重々分かっているが、肉体のことだ。やむを得ない、どうしようもない事だ」
シノ「……。分かった」
シノノメは側近に合図をすると、その兵士は銅鑼を鳴らし、行進が止まった。
アラ「すまないが、少し、ここから離れさせて貰う」
と、隊から離れようとしたのだが、すかさず、
シノ「待て!」と引き留めて、「話を聞いて怖気付いたか。それはそれで致し方がない。が、肉体は逃せない。それであるなら矢張り貴公を殺し、肉体を奪う」
アラ「少し中座するだけだ。すぐに戻る」
シノ「すぐ、とは。何万年後だ」
アラ「逃げようとして言っているのではない。頼む」
そう言いながら腹を押さえて眉根を寄せていた。よくよく見れば額にはうっすらと脂汗も滲んでいた。
アラ「肉体のことだと言っただろう。もしも貴方が肉体を得ていれば、今頃は私と同じことをしようとしていた筈だ」
シノ「我が、隊を離れるだと。この危急時に」
アラ「そうだ、危急のことなのだ。一人にさせてくれ」
アライソを苦しめているものとはつまり、便意だった。股をこっそり濡らして誤魔化せる方ではない、もっと大変な方だった。先程から我慢をしていたのだが、刻々と激しさは増して行き、そろそろ限界だった。
シノ「それは出来ない。確かに我は肉体を知らない。だが、それをみすみす取り逃すことは出来ない。世界の命運が掛かっている。言ったはずだ」
しかし排泄をしない神人には彼の事情など推察することも出来なかった。
アラ「逃げたりはしない。必ず、すぐに戻って来る。頼む」
脂汗が滴り始めた。
シノ「何をそんなに焦っている。死ぬ覚悟は出来ていると言っていたのは偽りか。汗をかくほど恐れているのか。そうであっても逃しはしないぞ」
眼光が鋭くなった。目的のためなら同胞の村すら焼いた男だ、意志は堅固だった。
アラ「そうではないと言っているだろうに。ほんの僅かの間だけだ。どうしようもないのだ」
彼もまた必死だった。漏らすわけには行かなかった。汗が冷えて震えて来た。
シノ「ならばせめて訳を聞こうか」
アラ「言わせないでくれ」
シノ「ここから離れたい。訳も言えない。認められるものではない」
アラ「そこを、どうか」
周囲の兵士らもこの口論を注視していた。面には出さないが、この一刻を争う時に駄々を捏ねる彼にじりじりしていた。衆人環視の下で便意を堪えるアライソは恥ずかしさにも耐えられず、身悶えた。もはや切って出そうだった。だがしかし、決してここで漏らすわけにはいかなかった。
シノ「どうしてもと言うなら縛って曳いて行くだけだ。いや、そうする必要はない。この場で我が斬って捨てよう」
と、佩刀に手を掛けた。
アラ「どうしても、行かせてくれないのか」
シノ「くどい」
アラ「一人にさせてくれないのか」
シノ「無駄だ」
アラ「隊列から離れることは」
シノ「許さぬ」
羞恥と苦痛で顔を歪ませながら、アライソは意を決した。
アラ「分かった。それなら将軍、ついて来てくれ。一人にならないならいいだろう。仕方がない。多くの兵に見られながらするよりはマシだ……」
シノ「何をすると言うのだ。一先ず太刀は納めるが。すぐに戻ると言ったな。ならば付き添うことで認めてやる。だが努々忘れるな、もしも逃げようとなどすれば」
アラ「分かっている!」
力の入らない足を踏み出そうとした。シノノメも気を払いながら続こうとした。やっと用が足せる! が、
側近「シノノメ様、憚りながら申し上げます。ここまで強弁するのは訝しい。兵から離れ、二人になって何をしようと企んでいるのか。先の戦いで見せなかった奥の手があり、それで遁走しようとしているのでは。縛るなり討つなり、やはり離脱は認めるべきではないかと」
シノ「あのような狭い場所では出せず、ここでなら打てる秘策か。あり得るな」
その言葉にアライソは絶望した。これ以上引き留められれば、決壊してしまう。
シノ「まあ、良い。何をする気か、とくと見てやろう。アライソ、行け」
アラ「ありがたい!」
早足になって街道を外れ、大樹の陰に駈け込んだ。シノノメも後を追い、共にその陰に隠れた。
隊列へと戻って来た時、アライソは真赤な顔をして、シノノメは青褪めていた。自分達の長があのような表情を見せるとは、兵士らは互いに目を見交わした。
側近「シノノメ様。一体何が。ご無事ではあるようですが」
シノ「いや、なに」と、咳き込んで、「我は、肉体というものが分かっていなかった……。あのような……。まさに不浄のものであるのだな……」
側近「アライソ殿。何をなされた」
アラ「お願いです、お慈悲があるのなら、どうか言わせない下さい……」
同じ人間の前で脱糞するのも嫌なのに、憧れの神人に見られながらではその恥ずかしさは言葉では表せないだろう。
シノノメは難しい顔をして腕を組んでいた。妙な雰囲気が兵士らの間にも漂った。アライソは居た堪れなくなって乙女のように蹲った。
すると間の悪いことに、腹が鳴った。アライソは泣き出したくなった。考えてみれば最後の食事は村から出る直前。軍使に幕営地まで連れられて、その後長い戦いをし、行軍し、もう一日以上何も口にしていない。
シノノメは肉体から出た音にぎょっとして、
シノ「まだ何かあるのか!」
やや潤んだ声をして、
アラ「腹が、減りました……」
シノ「腹が減る?」
アラ「飢えというものです。人間は肉体を維持するために物質の、娑婆世界のものを食べなければ生きていけないのです」
シノ「難儀なものだな……。よし、食え」
アライソは躊躇った。食事というのは余りにも肉体的な行為であり、生の醜さの象徴のようなものだった。しかし空腹に耐えるのも辛く、
アラ「毒を食らわば皿まで」
と、恥を忍んで弁当箱を取り出した。蓋を開けると臭気がムッとし、
シノ「これは、また……」
神界の食料との差に絶句した。
シノ「このようなものを、本当に食べるのか」
アラ「ええ」
シノ「肉体を保つためには娑婆のものでなくてはいけないと言ったな。この世界のものでは本当に駄目なのか」
アラ「残念ながら」
シノ「ううむ」
大口を開けて貪るアライソの歪んだ顔に、眉を顰めた。神界の食事ならば表情を崩さず澄ました顔で済ませられるというのに。人間のものを食べるという行為は、神人から見れば醜怪に過ぎた。
シノ「アライソ殿、我は最前、貴公を醜いと言って讃えたが、それに応えようとして敢えて醜く振る舞っているのではなかろうな」
無言だった。
シノ「……すまない」
それでもどうにか食事も済ませてアライソは小さな声で詫びた。
シノ「もう、良いか」
アラ「ええ」
シノ「では行軍を再開しよう」
そして隊列はその場を後にした。一刻を争う時に無駄な時間をくってしまった。
アラ「この隊が私を連れずに神人のみで構成されていれば、目的に向かって一心に邁進出来たのに」
人間を連れていたばっかりに、彼の生理に付き合って立ち止まらなければならなかった。
食うための諸般で足を止めなければならなかった。人間はたとえ確固たる目的があろうとも、それに専念することは出来ない。生きるための瑣事に煩わされる。