2.1.14.尊ぶもの
アライソの肉体は奪われるだろう。それはおそらく死を意味するのだろう。
アラ「人生はつまらないものだったが、女神の世界で死ぬのは悪くはない」
無感動に呟いた。彼にはもう抗う意志はなかった。自らの死を受け入れていた。だが、それを聞いたシノノメは少しの関心を引かれて、
シノ「女神。ほう、女神と。人間だてらに女神と口にしたのか。殊勝なやつだ、御霊様に敬意を抱くか。篤信に免じて最期の言葉があれば聞いてやる」
シノノメの手が止まった。
アラ「言いたいことなどこれといってないが。それでもやはり、女神に対して自分の不甲斐なさを恥じ入るばかりだ。常々彼女を信奉し、この世界の住人になりたいと願っていた。
それがどうだ、いざ危難に面してもお役には立てなかった。彼女が決して私をこの世界に住まわせなかった道理がよく分かる。
こんな者は認めないのも当然だろう。お前達の村の襲撃に間に合わず、世界を破壊せんとする悪賊に破れ、神人でありながら女神に仇なす背信者の欲しいがままにさせるのならば」
シノ「待て。世界を破壊する悪賊とは誰だ。背信者とは誰のことを言っている」
アラ「お前達を措いて誰がいよう」
シノ「何を」
アラ「神兵の身でありながら同胞の村を襲い、殺した。悪賊でなくてこれが何だ。女神から平和の守護を任された立場でありながら、秩序を乱し、平穏を壊した。背信者でなくてこれが何だ。違うか」
シノ「それは事実であろうが。だが、我々はそのような者ではない。背信者などと」
アラ「平和を願う女神の意に背く破壊者が。おかしなことを」
シノ「これも御霊様のためだ」
アラ「女神がそのような命を下すものか。よくもそんな侮辱を。腹立たしい」
シノ「確かに御霊様からこのような命は賜っておらん。だが我々としては、そうしなければならなかったのだ。この国土を守るために」
アラ「村を襲った者の言うことか」
シノ「そうだ」
アラ「人を殺した者の言うことか」
シノ「そうだ」
アラ「おかしなことを言うものだ」
シノ「我々は補給を必要としていた。必ずや、何をしようと手に入れなければならなかったのだ。たとえ彼らを戦火で焼こうとも。物資を得なければならなかった。軍を立て直すために。資材や土地を得て、持ち直さなければならなかった。そのために略奪した。やむを得なかった」
アラ「村の方々の言うことには、お前達は突然やって来て、いきなり全てを明け渡せと言い放ったそうだ」
シノ「それは事実だ。必要だったからだ。だが彼らは断った!」
アラ「当然だ。生活を奪われれば誰だって困る」
シノ「しかし我々は得なければならん。国土を守護するために。そうしなければこの邦は滅びる。あの村もだ。それ以外の町々も。
だから我は頼み込んだ。理由も告げて。膝を折り、両手を突き、頭を垂れて。それでも彼らは納得しなかった。それどころか彼らはこの期に及んで交換であれば良いなどと、商売を始めやがったのだ! それも、よりにもよって、対価として武具を渡せと!」
その語調は激しくなった。
シノ「ああ、敗軍の我らが持つものはそれくらいだ。それしかない。だが、それを無くせば戦は出来ん。交渉は決裂した。だから我々は奪うと告げた。二日後に戦端を開く。それまでに逃げろと。だが、ご覧の有り様だ。彼らは逃げもせず呑気に暮らしていた。そんなことなどするはずがない、と。高を括って。危難を知りつつ、我らの役目を知りつつも」
アラ「役目とは」
シノ「邦国鎮護、それしかない! 万年に一度あるかないかのその事態に備えるために、そのために我々は養われていたのだ。ああ、彼らが我々に協力しなければ彼らもまた危難に晒されるというのに。なぜ彼らは。自分達の平和だけは絶対だと信じているのか。いざの際にはどうなるかを考えもせずに。今がその、いざの際であるのにも関わらず」
短くも熱い息を吐いた。
シノ「斬り取りするも武士の倣いだ。護国のためには致し方がない。神界全土を守るため、一つの村だけ犠牲にしよう。多生のための一殺か。そうしなければ神兵としての使命は遂げられん」
アラ「その言い方では、まるでこの世界に危機が迫っているかのような……。何かが、起きていると?」
シノノメは眉間に深い皺を刻み、項垂れるようにして頷いた。
アラ「一体、何が」
シノ「……、アライソ、と言ったな。貴公には関係のない話だ。別世界の住人である貴公には」
アラ「しかし、お前は今、私の体を奪おうとしているではないか。私の体がどうなるのか。関係はある」
シノ「死ぬのであれば、その後はどうなろうとも良いだろう。有意義に使わせてもらう。この肉体は御霊様からの恩賜だ。別世界からお送り下さった」
アラ「女神は別世界の住人といえども人を犠牲にするような、そんな非道をする方ではない」
シノ「そうであろうが。しかし、肉体は欲しい。何としてでも」
アラ「娑婆世界へと侵攻し、人間の肉体を奪うと言っていたな」
シノ「そう出来れば良いという話だ。それが出来ればどれほど良いことか。人の身でありながら世界を越えることなど出来ん。世界の隔たりはそれほど大きいのだ。だから、この世界が崩壊しようとも、貴公らの世界は何ともない。安心しろ。妬ましい」
アラ「私の世界が平和だったとしても、この世界が滅びるのは、つらい」
シノ「だが、つらいだけだ。元の世界に戻れば大変な体験をした、ただそれだけのものになってしまう。所詮は他人事でしかない」
アラ「そんなことはない」
シノ「それで終わってしまっては困るのだ。肉体という力を得る千載一遇の機会だ。決してこれを逃してはならん。貴公の肉体を取り逃してはならん。必ず我が物にせねば。敵に打ち勝つ力を得ねば」
アラ「この世界の敵なのであれば、私だって力になりたい」
シノ「今は少しでも多くの援助が欲しい時だ。気持はありがたいが」
アラ「どんな事情があったにせよ、村を襲ったのは許されるものではない。だが、この世界の危機なのであれば、シノノメと言ったな、私も何とかしたい」
シノ「そうは言っても、貴公は畢竟別世界の住人だ、やつを前にすれば立ち去るだろう。臆病だと言っているのではない、この世界に命を賭ける義理がないのだ」
アラ「そんなことはない。神界こそが私にとっての全てなのだ。元の世界よりも余程。どんな相手か知らないが、共に戦いたい」
シノ「我が軍を破ったやつだ。死ぬかも知れんぞ。いや、殺そうとしている我が言うのも変な話だが」
アラ「死にたくはないが、この世界のためであるならそれも良い。言っただろう、女神の世界で死ぬのであれば悪くない、女神のお役に立てるのならば本望だ」
神界は虚偽のない世界であり、シノノメは虚言を吐かない神人である。だからこの言葉を信じた。この肉体の力こそあれ、戦いを知らぬ男の心を信じた。
シノ「何故そこまで。貴公はこの世界の住人でもないのに」
アラ「確かにこの世界の者ではない。私は女神の御子ではない。だが、私も女神を信奉している。私もまたこの世界を守りたい。私はこの美しい世界を欣求している。たとえ全てを賭してでも」
この言葉はシノノメの胸を打った。この異世界の人間の偽りのない熱意に打たれた。
シノ「そうか。そうであったな」
アラ「加勢しよう!」
シノ「貴公が味方になってくれれば心強い。それであれば、有り難く援護を願おうか」
眼元を潤ませて片頬を笑ませた。手を差し伸べてアライソを起こした。
アラ「それでは、シノノメ、将軍。神界に一体何が」
その問いにシノノメの眉は曇った。
シノ「語らねばなるまいか。ならば語るが、しかし時は一刻を争う。今すぐにでも出立したい。準備をしながらだ」
彼は軍使に陣営を撤去するようその旨を伝え、全軍に通達させた。そして小姓に床几をもう一つ持って来させて、アライソを座らせた。