2.1.13.勝敗は決する
戦いの様子をずっと眺めていた軍使や小姓達はそれでも手を出したりはしなかった。シノノメに言い付けられていたからだけではない。アライソの強さは知っている、そして将をして勝てないのならば自分達の加勢など無意味だと分かっていたからだ。
その彼らが、あっと息を呑んだ。
アライソの態勢が崩れていた。痛手を負ったのではない、それでも彼はよろめいた。
シノノメですら敵の変化に驚いた。どのような攻撃も通らないと見えた彼に、ついに負傷はさせられずとも影響を与えられたのだ。
これまでの打ち合いで敵が疲れを知らないとはシノノメにも分かっていた。ならば、この変化は自分の攻撃によって引き起こされたものだ。どれだけ高度な技で打ち掛かっても無意味であった彼に効果があったのは、それではどんな攻撃であったのか。
シノ「点描光、……」
それは単純な刺突であった。一念をもって繰り出した一撃であるのに間違いはない、それでも効果を得られるとは考えていなかった。繰り広げる技の一連の流れの中で、その流れの中の過程の一撃に過ぎなかった。
それまでの技が一切通じず、この技が通ったのは何故か。
シノ「違いはどこか」
思索のために彼の動きが一瞬、止まった。アライソは姿勢を立て直し、また何もない空間に空振りをしていた。よろめきはしたが、彼の体にはもう攻撃の影響はほんの僅かにも残っていないように見えた。既に元通りだ。彼の体は強靭に過ぎる。
そしてはっとした。
シノ「おお、そうか。分かったぞ」
これまでの攻撃は全て斬撃に特化していた。強すぎる相手の体を如何に斬るかだけを考えていた。突きもまた貫くための攻撃ではあるが、その目的以外の部分が活きた。
シノ「斬るのではない、打てば良いのだな」
シノノメは大太刀を左手一本で背中に担ぎ、アライソに跳び掛かり、その勢いを以って拳で顎を殴り付けた。
アライソの体は宙に浮き、そのまま殴り飛ばされた。
転がった彼には打撲はおろか痣すら出来ていなかったが、それでも攻撃には意味があった。強靭な肉体に効いてはいないだろうが、衝撃は受け、動かすことは出来るのだ。
シノノメは素早く駈け寄って、大太刀を下振りに、峰で脾腹を打った。アライソの体は宙へと打ち飛ばされた。
それが地面に落ちる間もなくシノノメは跳び上がり、相手の腰を峰で強かに打ち下ろした。誰であっても受け身などは取れないだろうが。アライソは地面に叩き落とされた。
四つん這いに起き上がろうとするところへ後頭部を殴打され、額を地に打ち落とされた。彼の体はシノノメの刃の元に屈服した。もはや自分の自由にはならない、敵の支配下に置かれていた。
シノ「おお、我は人間に勝ったのだ! 我が兵法は肉体を超えた!」
雄々しい勝鬨を上げた。そしてアライソをつくづくと見下ろし、感嘆し、
シノ「しかし肉体とはやはり強いものだな。兵らが打ち倒されたのも然もあらん。これが我が物に。我が兵法とこの肉体が合わされば恐ろしく強大な力となろう」
アライソは這い蹲って聞いていた。シノノメの声は明らかに高揚していた。
シノ「ああ、我のみではない、この力は兵らにも与えたい。すれば我が軍はどれほど強くなるだろう。貴公が言うには娑婆の人間は皆、肉体があるのだったな。ならば我が軍は娑婆世界へと侵攻し、悪霊の群ともなりて人間どもの肉体を奪おうか」
大太刀が腰を打ち、アライソは転がされて仰向けになった。額を大太刀の切先で押さえ付けられた。
アライソは歯噛みした。シノノメの娑婆世界への侵攻という言葉によって生じた絶望、瞋恚、危機感、焦燥が脳内に渦巻いたが、それらは額の狭く重い圧迫感に圧し潰されて、敗北感と無力感で消え失せそうになっていた。
現実世界などとうに見限っていた。自分にとってはもう何の価値もないものだった。それでも相手の言うようにさせてはならなかった。
現世など下らないものだ。それでも悪霊のような連中に侵略されていいものではない。この自分達の神界にすら刃を向けた暴虐な軍勢からあの世界もまた守らなければならない。食い止めなければならないのに。
それだと言うのに一体何が出来るだろう。自分の攻撃など幾らしても当たらない。殴り飛ばされた時に手放して、今では槍すら握っていない。身動きすれば殴られて、立ち上がることすら出来なかった。
シノ「では」
と言って、大太刀を左手一本で持ち直して再度押さえ付け、腰を落としながら籠手を嵌めていない右手を伸ばした。その生身の手がアライソの胸元へと近付いて行った。
アライソは死期を察しながらも、ふと、彼にこの体が触れるのだろうか、と思った。
それが脳裏を過ぎると同時に、その考えに至った理由である一つの記憶が蘇った。先日の戦いで神兵は彼の血を浴びて失神した。人間の血潮は神人にとっては耐え難い、灼けるような熱さなのだ。あの時の兵士は血を浴びて失神した。
それに思い当たるや否や、アライソは即座に唇を噛み切って、血を含んで敵の手へと吹き付けた。
シノノメは人間の熱い血をまともに浴びた。彼の手は血に濡れて絢爛な炎のように赤く鮮やかに染まった。
そしてシノノメは声も上げず跳び退きもしなかった。気を失うことも動揺することもなかった。
彼は何ともなかった。何もされなかったかのように、変わらずアライソの胸へと赤い手を伸ばしていた。
シノノメの修行は心技ともに神人の為し得る極致にまで達していた。心頭滅却すれば火もまた涼しの言葉通り、彼は戦いの内に心神を滅し、外的要因に観念を歪まされることのない境地にまで至っていた。ただ目的を一心に念じ、行動には揺らぎがなく、遂行の際には業火の中にも平気でいられた。
アライソが女神に願った苦痛なき心神はシノノメの内に完成していた。
人間の血潮を全身に浴びたとしても、彼は精神の平衡を崩さなかったに違いない。
シノノメは平然として掌をアライソの鳩尾に当てた。血潮ですら平気だった彼は当たり前のこととして人間の肌に手を置いた。結局のところ何事もなく彼はアライソの体に触れられた。それを知り、
アラ「全ての手は尽くした。起死回生の一手と思えたものも無駄だった」
気力の糸がふっと切れた。
神人に似付かわしくない禍々しく汚れた手で、シノノメはアライソの鳩尾を押していた。それは間もなく肉体へと侵入し、アライソの精神を握り潰すだろう。
勝敗は決まった。アライソの意志は折れた。シノノメが勝った。