2.1.11.東雲の元で
幕営地を囲む外幕の内に入ると、そこには背丈よりも高い陣幕が張り巡らされ、迷路のようになっていた。
全ての角に、全ての出入口に兵士が配置されて死角もなかった。整然と配された兵士らには気迫が漲り、何かが起こればすぐにでも全軍の兵士が駆け付けて来るのだと想像された。緊張感が縦横に張り詰められたこの場には、虫の一匹すらも入り込めそうになかった。
使者に曳かれてアライソが横を通っても盗み見もせず、ただ正面のみを睨んでいた。先日に彼らの仲間を大量に殺戮したアライソが陣内に来たと言うのに、幾ら縛められているとはいえ、僅かな動揺さえも見せなかった。
幾つの角を曲がっただろうか、幾つの通りを抜けただろうか、入り組んだ陣営の中を進み、ついに一つの広い部屋に入った。
兵士は縄を引き脚を蹴ってアライソを転ばせると、自分も片膝を突き、
兵士「シノノメ様、連れて参りました」
と、その部屋の主に言った。彼は床几に腰掛けて、左右に槍や大太刀を捧げ持つ小姓を侍わせていた。
甲冑は纏っていなかった。それでも草摺、佩楯を腰に帯び、脛当を巻き、左腕には籠手を嵌め、満智羅で肩と胸を覆っていた。
小具足の装いをしているからには、今は休んでいるのだろうが、全身から発せられる気勢に弛んでいるところは一切見られず、他の兵士らのように鎧兜は被っていないのにも関わらず、これまでに遭遇した誰よりも威迫があり、威風を漂わせていた。見る者を圧し潰すような存在感をもって鎮座していた。
神兵達の中でも特に抜きん出た威容を放つその彼が、一瞬ぎらりと目を光らせた。鷹揚に頷き、
シノ「苦労」
と応えて、アライソを無遠慮に眺め入った。神人に引け目を感じているとはいえ、あの時は無我夢中であったとはいえ、兵士の群にも気後れしなかったアライソが彼の発する気迫に圧倒された。男の眼光から逃れるようにアライソは顔を伏せ、肌には汗を滲ませた。そうして暫くすると、
シノ「聞け。我こそは東方守護大将、鎮東将軍、東雲と称す。して、貴公は」
低く重く厚い声だった。相手を圧し潰してしまいそうな。それに対して吐き出すように、
アラ「アライソ、と名乗っている」
シノノメの語気にそう答えるのが一杯だった。
シノ「ほう、アライソ、と。貴公は人間なのであろう。どこの世界からやって来た」
アラ「娑婆、から」
シノ「娑婆か。ものの話によれば娑婆世界の者は皆、肉体を有していると聞く。真か」
アラ「ああ」
その返事を聞いてシノノメの瞳に暗い漣が打ち寄せた。しかしその妄念を打ち払うように首を振り、
シノ「しかし人間とは、兵らの報告は受けていたが、直に見れば聞きしに勝る醜さよな」
アライソは神人でもある彼から心神に染み付いた劣等感を突かれて息が詰まり、羞恥のあまりに身を縮めた。
シノ「思い違いをするな。讃えているのだ。醜悪とは死の一要素だ。醜さは死の類縁である。死とは力だ。何者も抗えぬ絶対的な力だ。醜さは死という絶対的な力に連なっている。醜い者はその力を有している。武人たらんとする者は醜くあらねばならぬ。貴公のように」
一息入れて、
シノ「だから貴公を連れて来た」
アライソははっとした。今の言葉で抑圧された思考の内から、道中での疑念が思い返されたのだった。何故彼らは自分の身柄を欲したのか。
アライソは意気を振り絞るようにして問うた。それに対して、
シノ「我々は力が欲しいのだ。力を増したい。現状の武力では全く足りぬ。ただただ力を求めている」
アラ「村を襲ったのは」
シノ「あのような村でも接収すればものの足しにはなる」
その言い回しにアライソはカッとなった。ものの足し。そんなたかが「ものの足し」程度のためにあの村の平和を破壊し、村人達を殺したのか。そんなことまでしておいて、「ものの足し」扱いか。
思わず睨み付けたが、シノノメの眼力に押し返されて再び俯いた。
シノ「補給程度にはなると思い、襲いはしたが、いやしかし、そこに貴公が現れるとは何たる僥倖か。貴公の力を得られれば、あの村など取らずとも良いわ」
アラ「力を得る。私の力を欲しようとも、お前達には与しないぞ」
シノ「元より貴公の助力など期待してはおらん。……肉体が目当てだ。貴公の肉体を奪い取り、乗り移ろうというのだ」
悪霊が人の体に入り込み、それを乗っ取るという怪談はよくある。神人もまた霊のように魂魄や精神のみの存在ならば同じことが出来るのだろう。
肉体を乗っ取られたら、そうなったなら自分はどうなるのだろう。肉体から弾かれて精神のみの、神人でもなく人間でもない存在になるのか。それとも彼に圧し潰されて消滅するのか。いずれにせよ、死と同義だ。
しかしそれ以上にアライソは愕然としていた。無力な村を襲ったとはいえ彼らもまた神人だった。非道な行いを見せられていても、アライソはまだ彼らに対する敬意が残っていた。その神人が悪霊紛いの行いをしようとは。失望すらした。
が、アライソの消沈には気も払わずに、
シノ「神人は精神の存在だ。しかし人間は精神と肉体の存在だ。肉体があるだけ人間の方が神人よりも強い。だから、その肉体を頂こう。我は人間の肉体を得、死に連なる絶対的な力を得る」
アライソの両脇に跪いていた兵士達に目を配り、
シノ「縄を解け。……力を得られるのならば修羅にもなりたいものだ」
自分の脇に控えていた小姓に向かって、
シノ「槍をやれ。我が兵らを打ち倒した力が見たい」
アライソの体は自由になり、目の前に置かれた槍を取った。肉体とは汚辱に満ちたものではあるが、だからと言って言われるがままに奪われるわけには行かなかった。何ということだろう。常に忌まわしく思い、嫌悪していた肉体を守るために戦わなくてはならないとは。
槍を杖にして立ち上がり、不格好に構えた。腰元で横にして穂先こそ相手に向けてはいるが、槍など扱ったことがないのが明らかな、隙しかない姿勢だった。
シノノメは別の小姓が捧げていた大太刀を受け取り、鞘を掃い、
シノ「おお、それが我が肉体になるものか。うむ」
と頷いた。
アライソは決死の覚悟を決め、身を震わせて気力を奮い起こした。自分の身を守るためにはこの神兵の将に勝たなければならなかった。恐れを抱きながらも敵の威圧的な目を睨んだ。
シノ「おお、いい目だ。睨め睨め。我を打ち倒してみよ。そして我は貴公に打ち勝ち、神人の身にして人間を破った誉れを得よう」
シノノメは大太刀を霞に構え、手首をやや返すかと見えると一跳で間合にまで踏み込んだ。
そして振り被りもせぬ初太刀がアライソの肩に食い込んだ。
かに見えた。が、それは肩口で止まり、血も流れないどころか薄皮一枚も切れていなかった。
それは正に傷一つ付かなくなる神薬の効能だった。飲んでいなければアライソの体は既に真二つに割れていた。
初撃が無駄に終わったのを知ってシノノメは目を見張り、跳び退いて距離を取った。
シノ「これが肉体というものか。ううむ」
部下からの報告で彼は余りにも強靭に過ぎると聞いていた。だがこれは話以上だった。
もっとも、先日は神薬を飲んでおらず、今は飲んでいるのだからその時よりも強くなっていた。それをシノノメは知らなかったが。
しかし彼は肉体なるものに感動を覚え、
シノ「これが我がものになるのだなあ」
と、俄然闘志が湧き立った。