2.1.9.暗雲再来
彼女の繕ってくれた旅袋を嬉しく思いながら眺めていると、遠くの方から明るく賑やかな声が聞こえて来た。
村長「おや、出来たようです。御使い様がお目覚めになり、せめてものお礼にと準備をしたのです」
そう言って彼が指し示した方向からは、何人もの神人が食膳を掲げて向かって来ていた。それは何と形容したらいいのだろうか。見た目も鮮やかで瑞々しく、水気の滴る果実や、香り立つ湯気が霞のように煙っている料理が乗っていた。
次々と運ばれて来る神界の食べ物は見るからに旨そうで、その色彩は既に目を楽しませ、嗅覚の愉楽は蕩けそうなほどに全身に充満して行った。
しかしそうして食べ物を見、鼻先を擽られるとアライソは苦しんだ。
アラ「これが人間の醜さだ」
神人「いかが致しましたか」
アラ「失礼ながら」と、半ば腰を上げ、「一時退座いたします」
と、旅袋を抱えて立ち上がった。神人達は引き留めようとしたが、
アラ「すぐに戻って参りますから、どうぞご容赦を。少しの間、一人にさせて下さい」
そう言って相手を手で押し止め、アライソは小走りに立ち去った。神人達は互いに顔を見合わせて困惑した。
アライソは村から駈け出し、それから暫くの距離を取ると後ろを振り返り、誰も追って来ておらず周囲にも人がいないのを確認し、旅袋から円匙を取り出して穴を掘った。神界の土は柔らかく、小さな円匙でも充分に穴を掘ることが出来た。
そして彼はそこに糞尿を垂れ流した。見るも穢らわしい汚物の凄まじい悪臭が鼻を突き、それが自分の体から排泄されたものであるという事実が一層、嫌悪感を増さしめた。
神人の体からはこのようなものは出ない。垢も出なければ汗もかかない。先程まで親しく話をさせてもらっていたが、やはり自分は彼らとは全くの別物なのだと、醜く穢らわしい人間という存在なのだと、改めて実感させられた。
穴を埋めると清浄な神界の土は異臭を完全に遮断した。残り香はまだ漂っていたが、それもすぐに爽やかな風に吹き散らされるだろう。
腹の中が空になると今度は空腹を感じた。余りにも単純な肉体の生理が忌々しかった。神界の食べ物は心を満たすが体の栄養にはならない。肉体を維持するためには現実世界の食べ物も腹に入れなければならなかった。アライソはこうして神人から遠ざかることが出来た今の内に食事もしておくことにした。
旅袋から樹脂製の弁当箱を取り出して蓋を開けた。酸味のある腐った野菜と脂の臭い。野菜は萎れて傷み、肉は脂に塗れている癖にパサパサしていた。神界の食物とは何という違いだろう。自分で持って来たものとは言いながら、臭いも見た目も味も酷いものだった。これはアライソが料理に無頓着であったり下手くそであったりするからではない。神界のものに比べれば現実のものなど、どんな一流の料理人が作ろうとも同じようなものだった。
決して味覚の楽しみになどはなり得ない、養分の摂取だけを目的とした不味い食事をした。
口を開けて顔を歪め、咀嚼音を立て、歯に脂を付け、嚙み砕かれて唾に塗れてどろどろとした、吐き出されていないだけの反吐を飲み込んだ。神界の清水を見た後では濁っているように感じられる、腐ったような臭い水を喉の奥へと流し込んだ。
空腹感だけは癒えた。だが今食べたものも体内に入っては血の色をした内臓を通り、一日か二日すれば肛門を押し広げて糞になる。食べ物など汚穢の元でしかなかった。
アライソは汚辱に満ちた肉体をあえて維持するために物を食べなければいけない人間である自分を恥じた。
楽しい食事などではない、むしろ神人との最大の違いである肉体を存続させるための厭わしい行為であった。
したくもない義務をこなしてアライソは村を見返した。所詮は穢れた身であるが、これでまたあの尊い人々との交流に戻れる。そう思えば心が弾んだ。
だが村に戻ると人々の面持は暗く、沈み込んでいた。誰一人として顔を上げようとせず、声も上げなかった。地面に並んだ食膳だけが虚しく芳しい香りを上げていた。
気力なく項垂れる人々の中にただ三人だけ、すっくと屹立して、近付いて来るアライソを真向から見据えている者達がいた。彼らの目には鋭い光が走っていた。兜は被っていない、武器は帯びていない。しかし黄金の鎧だけは身に纏った兵士達だった。この村を襲った神兵だった。彼らだけが異彩を放ち、村人達を委縮させていた。
兵士「貴公に話がある」
と、その内の一人がアライソに語り掛けた。
兵士「貴公、肉体を持つ者よ、貴公は人間なのではあるまいか。閻浮提かどこかの異世界からやって来た」
アライソは答えなかったが、その沈黙こそが肯定だった。
兵士「やはりか。将の推察していた通りだ」
と、独り言ち、それからアライソに向かってきっとなり、
兵士「某は使者だ。害意はない。言伝をし、返答を求めるのみ。我が軍は先日この村を襲撃し、撤退した。そして明日、再び襲撃する、か、もしくは二度と近寄らないか、どちらになるかは貴公の判断によって決まる」
アラ「どういうことだ」
兵士「すなわち、貴公が要求を呑めば我々は二度とこの村に手を出さない。しかし呑まなければこの村は次こそ灰燼に帰す」
それはアライソにとって選択肢になっていなかった。何を要求するかは分からないが、しかしどんなものであったとしても村の平和のためなら従う他はなかった。