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5.3.2.思い出の人

 あれからどれだけの歳月が経ったのだろう。現実の時間すらも忘れてしまった。それだけの期間、彼は何度も神界へ行き、当てのない放浪を続け、見返りのない旅路を繰り返したのだった。


 経るもののない放浪をし、得るもののない宝物を持ち帰った。どんな神物も機関は大した値段を付けなかった。赤貧の暗い生活を続け、それでも彼は神界に通った。


 そんなある日、彼は機関から渡された数枚の紙幣をポケットに捻じ込み、背中を丸めて帰ろうと、玄関ホールを横切ろうとした時、後ろから声を掛けられた。左右対称に口角の釣り上がった笑顔の、鮮やかな口紅を塗った懐かしい女だった。


 振り返った荒磯に対して、瀬羅は屈託なく話し掛けた。久し振り。会うのも久し振りだね。以前の自分達が恋人と呼ばれるような関係であったことも気にしていない口振りだった。彼女にとって荒磯とのことは既に遠い昔、現在とは隔絶した過去になっているようだった。今の自分とは関りのない昔話に感傷はなかった。


 荒磯もまた同じ感覚だった。ただ見知った懐かしい顔。その彼女に朗らかな挨拶を返した。立ち話を少しして、彼女は荒磯を飲みに誘った。


 しかし彼には金がなかった。身なりからそれを察していた瀬羅は、彼の口からそれを聞くより前に、


──奢るからさ! 店はどこでもいいよね!


 返すことも出来ないであろう借りを作るのに逡巡したが、しかしこの頃はまともな食事を採れていない。借りを返せないのは申し訳ないと思いつつも、それでも肉体に栄養を補充したくて、彼女の申し出を心苦しくも感謝しながら受け入れた。


 向かった先は瀬羅と初めて飲んだ店、彼女に告白をされた小料理屋だった。洒落ているわけでもない、かと言って鄙びているわけでもない。店内には何組かの客がおり、騒々しく飲んでいた。二人は隅の小さなテーブルに、差し向かいで座った。


──最近はここには余り来なくなったんだけど、懐かしいよね。


 瀬羅はメニューに視線を落としながらそう言った。荒磯は小さな声で返事をして、正面で俯いている昔の恋人を眺めていた。決して明るくはない照明で彼女の顔には影が落ち、面立に陰影を作っていた。じっと見ていると目尻に微かな皴が出来ているのに気が付いた。付き合っていた当時は若さに満ち、張り詰めた肌にはそんなものは一つもなかった。


 思えばそれだけの時間が経ってしまっていたのか。


 若かった女の肌から水気が抜け、消えぬ皴が刻まれるだけの年月。あの当時からそれだけの時間が行き過ぎていた。


──あ、ホヤがあるよ! 食べようよ!


 あの時にもこんな台詞を口にしていた気がする。しかし声の響きは明朗な軽さが薄くなり、僅かに低くなっていた。


 瀬羅は店員を呼んで幾つかの料理と日本酒を一升瓶で頼んだ。荒磯も注文を聞かれたが、元恋人に奢られるだけでは気が引けて、また後から頼みます、と注文を先延ばしにしようとしたのだが、瀬羅はその遠慮を察し、彼の分として別の日本酒とサラダを頼んだ。


 お通しと共に日本酒はすぐに運ばれて来、瀬羅は荒磯のグラスに酌をして、自分のものにも手酌で注ごうとしたのを荒磯は遮り、彼女のものに酌をした。


──それじゃあ、乾杯!


 差し出されたグラスに対して荒磯は軽く持ち上げて返し、少しだけ飲んだ。彼女と付き合っていた頃に色々と飲んでいた影響で、彼にも酒の良し悪しが分かるようになっていた。


 波々と注がれていた酒は香り高く、透き通り、癖こそ確かにあるものの、銘酒であることがすぐに分かった。こうした大衆的な酒場でグラスで飲むようなものではない、少なくとも猪口で少しずつ味わいながら飲む種類のものだった。甘く清涼で幸せな気持になり、喉を通ればその瞬間に心地良さが全身に染み渡った。


 向かいの女は自分のグラスを一気に飲み干し、次の一杯を注ごうとする所へ、荒磯はまた酌をした。瀬羅は礼を言って口を付け、半分ほど飲むと眉を顰めて満足そうに唸った。


──幸せ。


 ぽつりと呟き、


──美味しくて幸せ。幸せは心の栄養。だからお酒は栄養で、健康にいい。命の水だね。


──そうだね。


 荒磯は苦笑し、運ばれて来ていたサラダのキュウリを口に運んだ。


 このキュウリも瑞々しく、爽やかさと滋味が満身に行き渡る心地だった。ろくなものを食べていない体に生きる気力が巡って行く感覚がした。


 それから二人は取り留めもない会話をした。最近の事情には深く踏み入らず、当たり障りのないものだった。しかしその表面的な応答が荒磯には気持良かった。かつての瀬羅はずけずけと遠慮なく人の領分に踏み込んで来たものだったが、歳月を経て彼女も成熟したのだろう。口許に時折浮かび上がる皴からもそれが察せられた。


 昔と似たような遣り取りをしつつも彼女は確かに変わっていた。美人と言えた容貌は老いで曇り始めていたが、人当たりには気遣いが感じられるようになった。その心の優しさが瀬羅に一層の魅力を与えていた。


 それだけの年月が経ったということだ。快活な女性が円熟するほどの。


 彼女と別れた時から神界で黒龍と遭遇した時とでは、時間的には然程離れてはいない。三ヶ月かそこらだ。立ち去った黒龍を荒磯が無為に追っている間に瀬羅はすっかり大人の女性になっていた。


 しかし荒磯は当時から何も変わっていない。それだけの時間が過ぎ去ったというのに。いつ辿り着けるかも分からない放浪を未だに続けている。当時から何一つ変わっていない。一歩も前には進めていない。経済的には苦しくなり、むしろ後退したとすら思えて来る。


 それでは神界が滅ぼされるのを承知の上で、その時までのものと割り切り、金銭目当ての神物の採取に専念するか。


 それは、……嫌だった。たとえ赤貧に苦しもうとも黒龍の跡を追うのは辞めたくなかった。自分の生活がどうなろうとも、あの世界の崩壊だけは防ぎたかった。だが黒龍に追い着ける見込みはない。


 同じ場所で足踏みしている自分自身の不甲斐なさ、もどかしさ、苦しさ、悩ましさを苦い酒で腹の底に押し込んで、目の前の成熟した魅力を湛えている女性と談笑した。


 そうしている内にも注文した料理が次々と運ばれて来る。


ご愛読いただき誠にありがとうございます。

次回は11月28日(金)更新予定です。

どうぞ宜しくお願いします。


こうしてお読み頂けたのも何かの縁ですので、ついでにブックマークや評価もお願いします!

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