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2.1.7.夜の跡

 地平線に太陽の端が輝いた。東の空に曙光が走った。印籠にカランと音がした。


 アライソは急いで中から丸薬を取り出し、村人達の止める隙も作らずにそれを子供の口に捻じ込んだ。


 顔を濡らして子供を抱いている女は彼を見て慄いた。異形の姿に驚き、子供に何をしたのかさえ分からなかった。


 子供は意識のないままに、反射的な運動として口の中に放り込まれた丸薬を飲み込んだ。それが喉元を通るか否かもしない内に子供の顔は土気色から生色へと変わって行った。


 目には生命の光が戻った。アライソは子供の胸から矢を引き抜き、胸元の傷も瞬く間に治癒するのを見て安心した。この子は助かったのだ。神薬の効能に、女神の慈悲に改めて感謝と畏敬の念を抱いた。


 同時にどっと気が抜けて、疲労と激痛で昏倒した。



◆◆◆◆◆◆◆◆



 どれだけの時間が経ったのだろうか、左目の灼熱と激痛に意識が戻った。しかし頭の中は苦痛に満ちて何を考えることも出来なかった。


 だが霞んで見える風景には光が溢れていた。きっと昼間なのだろう。痙攣した指先が地を掻いた。辺りは眩いばかりに明るいというのに、そこの光は柔らかかった。


 体は熱くて堪らないが、それは体内から生じる熱のみで、外からの熱は感じなかった。


 その理由を知ることもなく再び彼は気を失った。



◆◆◆◆◆◆◆◆



 次に目を開けた時には暗かった。おそらく夜になったのだろう。


 彼の体は夜露に濡れることもなく、柔らかで軽く、温かい毛布が掛けられていた。


 ニ、三度大きな息をして、彼は目を閉じた。



◆◆◆◆◆◆◆◆



 三度目に気が付いた時には景色はまた明るくなっていた。


 アライソは掌中に固く握り締めていた印籠を揺すった。カランと音がした。


 震える指で蓋を開けて逆さまにすると丸薬がこぼれ落ちた。それを摘まみ上げて口に入れ、乾き切った口内に唾を溜めて飲み込んだ。


 すると丸薬は喉に引っ掛かっている内からするりと溶けて満身に温かさが染み渡った。


 気が付けば体から熱は引いていた。左目の激痛もなくなっていた。


 違和感と言えば顔中に貼り付く乾いた体液だけだった。顔を手の平で拭うとそれもなくなった。


 彼の体からは異常が消え去り、健やかな体調を取り戻していた。体の軽さ、心身の健康から来る清々しさは、現実世界においては久しく感じたことのないものだった。


 アライソは体を起こして胡坐を組んだ。すると彼を真正面から眺めていた神人と目が合った。憧れの存在とこんなに近くで見詰め合って、ドギマギした。だがその神人は彼の体調が戻った様子に目を見張り、それから慌てて立ち去った。


 アライソは声を掛けることも出来ずに後姿を見送った。


 その逃げる様を見て、ちょっとした寂しさが胸に込み上げた。別に何かを期待して彼らを助けた訳ではない。それでも、やはり、自分は神人達からしてみれば逃げ去られるような存在なのだと身に染みた。


 俯くと彼の周囲には影が出来ていた。それに気が付き振り仰げば、頭上には、細やかに編み込まれた雲のような日傘が掲げられていた。


 これは、神人達が彼のために差してくれたのだろうか。いやそうでしか有り得ない。全身血塗れになって失神した彼を慮って重症の身には強すぎるであろう日光から守ってくれたのだ。アライソは彼らが自分のことを気遣ってくれた事実を知って、微かに顔を紅潮させ、心臓の鼓動が高鳴るのを聞いた。


 パタパタと軽やかな足音が幾重にも連なって聞こえて来た。見れば何人もの神人が彼の方へと駈け寄って来ていた。アライソは動揺したが、咄嗟の事に逃げも出来なかった。


 純粋な幾つもの瞳を向けられて、アライソは思わず赤面した。彼らの内の一人が声を掛けた。


神人「あのう、貴方は。それよりも、ありがとうございました」


 清水のせせらぎのような声だった。アライソは言葉に詰まった。何度となくこの世界には来ているが、彼らと喋るのは初めてだった。憧れの存在からの感謝を受け、何と答えればいいのか分からなかった。


神人「貴方は、私達を救ってくださるために、いらっしゃった方なのでしょうか」


 アライソは輝く瞳に圧倒されて、何の返事も出来なかった。


神人「見れば、貴方は私達とは様子が些か違うようでもありますが」


 声の響きこそ耳には届くが、言葉の意味を判別するほど冷静ではなかった。ただ面映(おもは)ゆく相手を見詰めていた。


 話し掛けて来た神人はアライソが何も答えないのに困ってしまい、周りの村人とひそひそと声を交わし始めた。言葉が通じないのだろうか、声が出せないのだろうか、いや、倒れてしまわれる前には確かに言葉を話していた、それでは元気そうには見えてもやはりまだ喋れるほどには恢復(かいふく)されていないのでは。


 その会話にはっとして、


アラ「ありがとうございます、ありがとうございます。ここに、いられて」


 周章狼狽(しゅうしょうろうばい)して何を言っているか自分でも分かっていなかったが、必死で言葉を紡いだ。


アラ「貴方々とこうして面して言葉を交わせていられるのは、ただただ幸甚の至りにございます。何より貴方々がご無事で良かった、何よりも」


神人「それは貴方が私達を救ってくださったからです。重ねて御礼を申し上げます」


アラ「私は、何も」


神人「何をおっしゃいます。貴方が兵士達から守って下さったのではありませんか」


 真正面からの謝意にアライソは更に顔を赤くした。


神人「それにしても、昨日にはあれほど弱っていらっしゃったのに、今ではこのように御健壮であらせられる。貴方はもしや、我々を救うために遣わされた守護者なのではありませんか」


アラ「そんなものでは。私はただの人間です。娑婆(しゃば)世界から来ただけの」


神人「まあ。そんな別の世界の方だとは。異世界の方は傷の治りが早いのですね」


アラ「いえ、それはこの」と印籠を見せ、「女神に賜った神薬のお陰です。女神のお慈悲によって五体から病も傷も消え去る神薬を頂いたのです」


神人「まあ、御霊(ごりょう)様から。御霊様とお会いになって直々にそのような尊いものを下賜されるとは。それではやはり、貴方は御霊様の御使(みつか)いなのですね」


アラ「御使いだなどと。確かに私は御寮(ごりょう)様のお目を(よご)してこの世界へと渡って来ましたが」


神人「やはり御使いなのですね」


アラ「そのようなものでは。畏れ多い」


神人「そしてその神薬の霊妙によって、先日の童子もすっかり全癒いたしました。あの、矢に射抜かれた。御使い様にはどれほど感謝をしても足りません」


アラ「治りましたか! 嬉しい限りです。女神の威徳には謝意と敬意を抱きます。私もまた御寮様の信徒として畏敬の念を深くするばかりです」


神人「しかし御霊様の霊薬をもってしても貴方の左目は治らないのですね」


アラ「え」


 と驚き、左目に手をやった。眼窩は窪み、眼球はなかった。視界にも感覚にも異常がなかったために、これまで気が付かなかった。


 どうしたことだろうか。体中を(さす)り、腕や脚を見回しても他には擦傷一つ付いていない。それなのに何故、目だけが。いや、女神の神薬を飲んだと言うのに何故治っていないのか。


アラ「いえ、このようなことは。いや、しかし。治っていないのには、きっと、我々には及ばぬ御寮様の深慮が」


神人「ええ、それは必ず」


 アライソはふっと考え込み、その場に沈黙が流れた。


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