1.1.渡世稼業
とうとうたらり、たらりら、たらりあがり、ららりとう。
能楽の「翁」の一節が永遠のように頭に鳴り響いていた。
あの世界に住むことが出来たのならどれほど素晴らしい事だろう。恒久の真善美が実現されている世界。
しかし悲しい人の身であるからにはそれは叶わず、こちらの世界で臭い息を吐いていなければならない。
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何日か前から予兆がしていた。今朝目が覚めると一層酷くなったのが分かった。薄暗い自室の、汚い布団から半身を起こすだけでも一苦労だった。それでもこの日は街中へ出る用事があった。
危ないのを理解しつつも慎重に足を運び、歩道橋を降りるところまでは何とか無事にこなせた。だが、その直後に石畳のほんの小さな出っ張りに爪先がぶつかり、その衝撃で腰に激痛が走った。一瞬意識が飛び、路面に膝を突いた。
下半身に力を入れるのも難しかったが、それでもどうにか這い、歩道の端まで行って座り込んだ。腰に脈動する痛みの波を数えて立ち上がることが出来るタイミングを計った。
酷い腰痛持ちだった。何事もなく過ごせる期間もあるが、年に何回かはこうした事態に見舞われた。
仕方がなく、雑居ビルの角に背中を預けて道行く人々を眺めるともなく眺めていた。彼らの殆どはこちらを見ることもなく、稀にちらと視線を投げ掛ける人がいても何の感情も抱かずに再び前を向いて歩いて行った。わざわざ立ち止まる者などいなかった。
着ているものも色褪せて擦り切れ、襟も緩んで袖や裾には解れがあり、ジーンズには膝に穴が開いていた。
弊衣に蓬髪の浮浪者同然の姿だった。他人からすれば社会の内に数えられない種類の人間だった。路上の端、ビルの角の路地裏の入口に座を占めてはいるが、存在などしていない者として往来の人々から扱われた。
俯き、眉を顰めて左手首を撫でた。何年か前から発症している腱鞘炎が痛んでいた。病院には行っていない。健康保険には義務として加入しているが、それでも治療費は彼にとっては大金だった。しかし幸か不幸か痛みには慣れた。
真面な職には就いていない。生活費を得るためにしている仕事も不器用さが災いして碌な収入になっていない。彼は貧しく、みすぼらしかった。
こうして蹲っている間にも、それでも彼に関わろうとする者が二人いた。
一人は四人連れの若者の集団の一人で、彼を指差し揶揄おうと近付こうとしていた。だが仲間の女に窘められて通り過ぎた。その女が窘めたのも彼を慮ったのではなく、単に汚いものとの接点を持ちたくなかったためだ。
もう一人は三歳かそこらの小さな女の子だった。心配そうな顔をして、薄く口を開け、こちらを見ていた。子供は嫌いではなかった。安心させようと思い、笑い掛けようとした。しかし一緒にいた母親が強く手を引き、その子が彼のことを言おうとしても無視をした。憤りを浮かべた目元は厳しく、彼を一顧だにせず子供の手を引いて過ぎ去った。
黙殺されるのにも軽蔑されるのにも慣れていて最早何も感じなくなっていたが、これには少し傷付いた。
脇の路地裏からは虫と悪臭が涌き出でて、見上げる空はビルに阻まれ狭く濁り、吹き荒ぶ風は塵や砂を巻き上げていた。
立ち上がれるタイミングは中々来ずに、彼はそこに座り続けなければならなかった。
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数日後、彼は目の前に広がる光景に見惚れながら、大きくゆっくり息をして、清々しく爽やかな微風に全身を晒した。体に痛みはなく、そして晴れやかな心地だった。
目に見えるもの、肌に触れる大気、香る風、快く美しい場所にいた。彼がいるのは女神の司っている世界、神界だった。
天空では旭日の予兆が夜闇を祓いつつあった。神韻たる紺碧が無窮の空に広がって行った。地平線では朱色が滲みつつあった。雲一つなく濁り一つない果てなき天穹に薔薇色の曙光が走った。天地は光に満ちた。
天へと昇った日輪は燦々と輝き、あくまでもどこまでも澄み渡った碧空に光を染み渡らせていた。
果ても分からぬ遠い天上からは雅やかな花弁が、一片一片舞い散って、薫香を大気に満ち広がらせていた。その合間を縫うように清明な神鳥の啼き声が降り注いでいた。
見渡せば地平線の向こうにまで永遠に続いて行くとも思われる草原が広がっていた。光と風を浴びて揺らぐ草々は歌っているようだった。
美しい世界だった。完璧な世界だった。ここに身を置いているだけで染み入るような幸福を感じられた。
彼は穏やかで静かな幸せを味わいながらゆっくりと足を運び、柔らかな涼風の愛撫に身を任せていた。この世界に住むことが出来たならばどれほど素晴らしい事だろう。この世界とは正に、真なるもの、善なるもの、美なるものの顕現だった。この世界を愛していた。
遠目に神人の姿が六つ見えた。急いで屈み、身を隠そうとした。彼らは輪になり、優美に踊っていた。神人達は容姿端麗にして纏う白衣に塵はなく、舞の差す手、引く足は整っていながらも柔和であり、典雅という概念を形や動作にしたもののようだった。
尽きることのない平安の内に暮らす彼らには悩みや苦しみといったものはなく、その性は善だった。そんな彼らに憧れていた。彼らのためであればどんな事でも出来そうだった。
神人達がこちらに気付く気配がないとはっきりすると、彼はゆっくりと立ち上がり、反対の方向へ、僅かな凹凸もない広い平野に足を進めた。
神樹があった。樹齢は数百年を優に超えているだろう。太い幹に触れるとしっとりしていて気持が良かった。この世界にある樹木でもあり、尊いものだと目でも手でも感得された。見上げれば青々とした枝葉に瑞々しい果実が生っていた。艶やかな果実は貴重な宝玉のようだった。神人であればまだしものこと、人の手が触れてはいけないものに思われた。
彼は樹に登り、その果実を捥ぎ取った。背負っていた旅袋に押し込んだ。樹から降りて逃げるように駈け出した。
彼は自分の愛する世界に傷を付け、その尊いものを盗み出した。金になるからだ。
それが彼の生業だった。彼は現実世界とこの神界を行き来して、神界に存在している物品を持ち出し、現実世界で売り払う仕事をしていた。それが商売、生活の糧だった。彼は自分の愛するものに傷を付け、尊ぶものを売り払って生活していた。
それで日銭を稼いでいた。そうしなければ口に糊することも出来なかった。こんな生き方しか出来ない自分自身を、彼は嫌悪し、悩み、悶えていた。
それでも彼は既に盗んだ。この盗品を持ち出して、現実世界で売る作業が残っていた。
(註1)
「とうとうたらり、たらりら、たらりあがり、ららりとう」――能楽「翁」より引用