「魔女」の世界③
ウィッチの口の中に血の味が広がる。彼女は冷たい眼差しで自分を殴りつけた人間を睨む。その視線に公平は膝をついてしまう。その恐怖が無条件で公平の身体を動けなくした。
「公平……!」
エックスは思わず彼に目を落とし。手で包んでウィッチの視線から隠した。再びウィッチの方をに視線を戻す。
「あッ!」
すぐ目の前に彼女は来ていた。その黒い瞳はエックスの手を突き抜けて、その中にいるものを見つめていた。
この手の中で公平が震えているのが分かる。彼の悲鳴がほんの少しエックスの手を震わせた。この状況にエックスの視界がまた涙で滲む。そんな二人の様子にウィッチはニパッと笑顔になった。
「ま、いーや。今日はこれくらいにしておいてあげる。じゃーねえ」
ウィッチの真上に巨大な魔法陣が生じた。彼女はそれに飛び込んだ。
一瞬呆けていたエックスは我に戻り探知を開始した。だが彼女を捉えることは出来ない。元よりこの世界に痕跡なく現れた魔女だ。気配を消す能力は兎に角高い。
手を開き、そこいる人たちに視線を落とす。状況を理解しきれていないようで周囲をきょろきょろと見回している。彼らは恐怖から解放された様子である。ウィッチがこの世界を離れた結果だとエックスは推理した。
ただ。ウィッチの恐怖を間近で直接受け続けた公平だけはまだ立ち上がれないでいる。身体中から汗を流し息も絶え絶えだ。その姿に胸が痛む。それでも今やるべきことをやらねばならない。
エックスは地上を消火し、辛うじて生存している人は病院まで運んでいった。彼女の治癒の魔法は自分の傷以外は治せない。医療で治ることを祈るしかない。
病院は一応機能していた。恐らく警察などの機関も動き出すはずだ。捕まっても面倒なので公平を連れて空に逃げる。
上空から見た地上の光景は凄惨であった。あらゆるものが燃え尽きた跡しか見えない。何もかも守り切れなかった結果だ。
「……俺のせいだ」
小さな声が聞こえる。全身の力を使ってようやく、振り絞ることのできた震え声だ。公平の姿にエックスは首を横に振る。
「守り切れなかったのはボクだよ。それに誰のせいだと言うのなら、悪いのは全部ウィッチで……」
ウィッチと名前を言っただけで公平の震えは大きくなる。こんな状態で最後の最後どうして攻撃できたのか不思議だ。エックスは手を伸ばし。彼の顔を人差し指で触れる。大きく震えたのが分かった。
「ち、違う。これは……。そんなつもりじゃ」
「分かってる。大丈夫だよ」
エックスは微笑んでみせた。ぽうと彼女の指が光る。公平の心から恐怖が消えた。それと一緒に公平の中から消えたものがある。彼の持っていた魔法のキャンバスだ。
「キャンバスがウィッチへの恐怖の象徴なら、なくなっちゃえば怖くなくなるだろう?」
「うん……。あ、でも、それじゃあエックスが」
「ふふん。ボクを誰だと思ってるんだ。あんな魔女恐くないよ」
エックスはポンと胸を叩く。ウィッチを恐れるのはこの世界の生き物だけだ。異世界の魔女であるエックスはたとえ公平のキャンバスを預かっていても恐怖に心を支配されることはない。
「ワールドのキャンバスだけはキミに預けておくよ」
公平はエックスを見上げた。彼女はキャンバスを預かってからずっと笑っている。だけどその笑顔が何だか悲しく見えた。
「帰ろうか」
公平には頷くことしかできなかった。
「出来る限り集めてきたぞ」
エックスは公平と一緒に図書館に来ていた。彼女に頼まれて対象の書籍を抱えてやってくる。魔女や巨人に関するありとあらゆる資料。エックスは人間世界におけるこうした話の原型はウィッチであると考えていた。
誰もがウィッチを、もっと言えば魔女を恐れていたはずだ。それ故歴史の中に何らかの痕跡が残っているはずである。伝説や言い伝え。そうしたものを片っ端から探していく。
「魔女狩り……。なんて物騒な響きなんだ」
魔女であるエックスはわざとらしく震えてみせた。だが間違ってもエックスは狩られるような存在ではない。公平も本を覗き込む。
「えーっと。……でもそれは14世紀以降の出来事だよ。ウィッチとは関係ないんじゃない」
「……14世紀っていつ?」
「……ちょっと待ってね」
公平はスマートフォンで調べてみる。すぐに出てこない自分が情けない。
「1301年から1400年の間だって。今から大体700年前だ」
「ふむふむ」
14世紀。ウィッチがこの世界を離れたのは1000年前。そこから300年後の出来事。
「やっぱ関係ないんじゃ」
「いや。関係あると思うよ?」
「え?」
「それくらいの時間がたてばウィッチの恐怖も薄れていった世代の子が生まれていてもおかしくはない。だけどそれ以前の世代は違う。魔女への恐怖が残っていて、狂乱的な魔女狩りなんて起きたのかも」
こじつけでは?公平はそう思ったものの口には出さなかった。多分怒られるから。
「でもこれウィッチを倒すのに使えるか?」
「うーん……。もっといろいろ見てみよう」
「よし」
図書館には公平とエックスの二人しかいない。無人でも開放されてはいたので助かった。ウィッチの影響はまだ残っている。外出する人は少なく、街は死んだように静かだ。
「本で調べものするのって久々だな」
「ボクこっちの方が好き」
「うん。たまにはいいかも」
そうは言いながら時々スマホで調べている公平である。現代人だ。
しばらく二人は本を読んでいた。静かな時間が流れていく。日の光が零れてきた。
「そういえばさ」
公平はふと思いついたことがある。エックスは顔を上げて彼を見た。
「どうしたの」
「魔女ってウィッチだけなのかな」
「うん?」
「ウィッチが現れたことで、この世界の人間も魔法を手にした。だったら一人くらい魔女になっててもおかしくないんじゃないか」
エックスは口元に手を当て考える。「ふうん」と何かに思い至ったらしい。
「もしかして。……いやけどそれじゃあな」
なにか困った様子だ。きっと自分の思い付きが何かの糸口になったのだと思った。
エックスはじいっと公平を見つめた。そのまま口を開かない。
「……どうした?」
「いや、ウィッチにも恐いものがあるのかもって思ったんだ」
「おっ!いいじゃないか。それなに?」
「……人間が魔女になっちゃうこと」
「ええ……」
ウィッチの恐怖が絶対的であるのは、彼女が唯一の生態系の頂点であるからだ。他の魔女が現れてはそれが崩れる。その新たな魔女に自分が倒されないとも言い切れない。
「魔女になる兆しのある子は全部殺していったはずだ。世界中どこにいたってね。そうすることで自分の存在の絶対性を守り続けたんだよ」
「じゃあこの世界にはウィッチ以外に魔女はいなかったってこと?……なるほど。筋は通る気がする。でも俺は男だから魔女になれないよなあ」
「男だと魔女になれないの?」
「だって字に”女“って書いてあるし……」
「分かんないよ。もしかしたら男の子でも魔女になれるかも」
「なんだか気持ち悪いなあ」
二人はそうやってクスクス笑った。そうやってまた時間が過ぎていく。調べものに戻って、時々ああじゃないかこうじゃないかと議論をしたり何でもないお喋りをしたり、そうするうちに夕方になった。
「そろそろ帰ろう。続きは明日にでも」
「そうだな」
二人は図書館を出る。赤い日差しが二人を突き刺す。エックスは、本当はもっと他の何か気付いたのではないかと公平は思った。だが、彼女が言わないことを無理に聞き出すことはできなかった。
スーパーに立ち寄った。営業はしているようだがやはり人は少ない。ヤキソバの材料になるものを買い物かごに入れていく。
「更に今日は……ジャガイモ!タマゴ!ハム!マヨネーズ!その他諸々!」
ポテトサラダの材料だ。公平の好物である。
「公平のお母さんに教えてもらったもんね!美味しいの作ってあげるから!」
「おおっ!楽しみ!」
エックスは自分の部屋に通じる裂け目を開いた。帰ってすぐに、二人は一緒に料理を始めた。談笑ながら外から見れば楽しそうに。だがエックスは心ここにあらずの状態だった。頭の中で、ある仮説がぐるぐると渦巻いている。──もしかしたらこの世界からウィッチの恐怖を完全に消し去ることができるかもしれない。だけど、それは自分ではできないこと。この世界の人間でなければできないことだ。だがそれは、今の公平には伝えられなかった。