魔女の「世界」⑦
「ううん……」
蒸し暑い。ここはどこだろう。一番最後の記憶は吾我の攻撃にふっとばされてエックスに助けられて──そこで意識を失ったのだと思う。身体はところどころまだ鈍く痛む。だけど傷は殆ど治っていた。ダメージは残っているが順調に回復に向かっているようである。ところでここはどこだろう。暗いしジメジメしてるし暑苦しい。それにどうして自分は裸なのだろう……。
「あ!まさか!」
試しに魔法を使ってみるが発動前に掻き消える。これは、知っている場所だ。エックスの口の中だ。寝ている間に口に閉じ込めたのか。なんで?
諦めて二度寝するのも悪くはないが、別に眠くないのだ。悪あがき気味に地面、というかエックスの舌を叩いてみる。
彼女の舌がぐおっと動いた。ぽかぽか叩かれたのが嫌だったらしい。公平だってお嫁さんとは言え口に入れられるのも十分嫌なのだが体の大きさが違うのでお構いなしだ。彼女の舌は口の中の異物を口の奥へと運んでいく。
「お?お?」
ころころと転がって口の奥へ奥へ。その先は。
「待て!おい!のみ、飲み込まれちゃうよ!消化されちゃうって!」
んん……。彼女の声が空間全体に響く。これは……死ぬ。こくりと口の中に溜まった唾ごと公平を飲み込み──。公平だけ口の中に戻された。公平がのどに落ちたら自動的に口の中に戻るようにしかけられているようである。公平は安堵し、そして叫んだ。
「起きろおおおお!デカ女あああああ!」
「もー。そんなに怒らなくったっていいじゃんか。飲み込んでないんだからさー」
エックスが公平を洗いながら謝る。それでも公平は納得しない。
「旦那さんを食べちゃいそうになるお嫁さんってどうかと思うよ!」
「食べないよ!」
「なんでそっちが怒るんだよ!」
こうしてエックスに洗われるのは二度目であるが、前回で抵抗しても無意味であるという事を学んだのでされるがままである。ただし別に納得しているわけではない。
公平は自分の身体が傷跡とあざだらけなことを外に出てから気づいた。どうしてこういう事になったか思い返すと吾我の顔が思い出される。
傷は既に塞がっていた。つまりそれなりの時間が経過している。
「俺どれくらい寝てたの」
「一週間?」
「一週間!そりゃ全然眠くないわけだよ!その間ワールド来なかったのか?」
「来たよ一回。公平動けないし、延期してもらおうとしたら吾我クンが来てさ。代わりに相手してくれたよ」
「ご、吾我!?アイツに任せたのかよ!?相手殺してないよな?」
「うーん、大丈夫だった」
以前脅かしたのと、戦闘中ずっと殺気を込めて吾我を睨みつけていたのが良かったのだろうとエックスは思う。やりすぎて後悔はしていたが利用できるなら利用する。
「まあいいじゃない。結果相手を気絶させた程度で済んで、十人助けられたしさ」
「よかった……。ううん……よかったんだよな……」
心の中がモヤモヤだ。結果だけ見ればよかったんだろうが、何かが納得できない。
最近は大学を休みがちだ。幸いほとんどの必修科目テスト一発勝負で出席は必要最低限出ていればいいのだが、だからこそ日々の授業を休むとじわじわと付いていけなくなってしまう。大学の授業はスピードが早い。誰かのノートを見せてもらっても話を聞いていないと何をやっているのか分からなくなってしまう。
公平は大学への坂を上りながら憂鬱だった。テストも近い。ワールドに攫われた人たちも助けないといけない。そんな状況を無視して襲い掛かって来て一週間寝込む怪我を負わせてくる吾我レイジ。一つでいいから消えてくれ。どれか一つなくなればもうちょっとのんびり出来るのだが。
道中、見知った後ろ姿とリュックを見かけた。あれは田中である。だが彼はバス通学のはずだ。わざわざ徒歩で大学に来るとは思えない。そんなことが出来る通学距離でもないはずなのに。公平は彼の元に駆け寄る。坂のせいできつい。「珍しいな。お前バスじゃなかったっけ」
「ん?ああおはようサボリ魔。昨日彼女ンちに泊ったんでさ。せっかくだから歩いて」
「……数学科のお前に彼女なんかいたのか?」
「いるよ。ふつーにいる。お前だってお嫁さんいるんだろ」
「ああ、そうか」
暫く無言で坂を上る。そういえば、と田中が口を開いた。
「大学なかなか休みにならねえよなあ。ここんところ毎週巨人が出てきてるってのに」
「あー……そうだね。まあ、そうだよなあ」
「ああ、そうだ。この前巨人に攫われた中学生助け出した人がいるって知ってる?」
「……知ってるよ。どうかしたかアイツが」
「やっぱ知ってるんだ。すげえよな。あの巨人相手にさ、十人も助けちゃったってよ。どうせならお前もああいう風になれよ」
「お前言っとくけど」
「ああ、いや。それより巨人との戦いは他の人に任せて、お前はこれからも俺のノートをとってくれ」
「……お前の為のノートじゃねえよ」
思えば。吾我がワールドと戦うのなら、それを完全に彼に任せるのなら、公平の日常は大分余裕あるものになる。テストにも集中できるし、痛い思いもしないで済む。それに吾我は強い。たった二回戦っただけだけど、それはよく分かっている。エックスもヴィクトリーも魔法の才能は向こうの方が上だと言っていた。もしかしたら。田中の言う通り、彼に任せた方が万事うまくいくのではないだろうか。その方がいいなと思った。思ったが、心のどこかにモヤモヤが残った。
「うん?アイツは?」
「がっこー」
エックスはベッドの上でぐだっとしている。ヴィクトリーが呆れた表情で聞いた。
「なんか元気ないね。目を覚ましたんならよかったじゃない。昨日までずっと心配してたでしょ」
「ボクっていうか……公平が元気なかったんだよねえ。多分吾我クンに助けてもらったからだと思うけど」
「なにそれ。別に気にすること無いじゃないの。うまくいったんだから」
「うーん。でも公平ってさ……」
その時身体に電気が走ったように力を感じた。ワールドと魔法使いが現れた。よりによって今か。頭が痛い。
「!」
授業開始から五十分くらいして、公平はそれを感じた。ワールドの気配。また戦いが始まる。
授業はまだ残っている。案の定内容にはもうついていけない。教科書を見返しながらどうにかこうにかこういうことを言っているんだろうなと感じるのが精いっぱいだ。
この状況で出ていったらもう追いつけないような気さえする。そんな時に限って。
公平の様子がおかしいのを隣の田中が見抜く。公平のノートに『どうした?』と書き込んだ。公平も筆談で答える。『また魔女が来た』
公平は顔を見上げて田中を見る。怪訝な表情である。『だから?』
公平のペンが止まる。確かに『だから?』だ。ワールドの事なんか、吾我に任せておけばいいのだ。あいつなら一人で解決させられるはずだ。『そうだな』とノートに書いて、そして公平はまた前を向く。
異質な魔法の気配。これは吾我のモノ。やはり現れた。ああ、よかった。公平は黒板の内容をノートにうつしていく。
吾我ならきっとどうにかしてしまうだろう。吾我には魔法を使う才能がある。自分とは違い自力で力を手に入れた魔法使いなのだから。なにより──。
「あいつは俺より強い……」
無意識に呟いて、同時に立ち上がる。
おい。なんて教授の声を無視して駆けだしていく。確かに、吾我に任せておけば全部解決するのだろう。それでも、一つ絶対に許せないことがある。
「俺より強いだと……」
授業中ではあるが誰も居ないわけではない。公平は人のいないところを探して走った。
吾我は安定して魔法使いたちを気絶させていく。ワールドは精神を操作する魔法が使える。だがこれは対象の意識を飛ばしてしまえば解除される。既に三人、彼女の魔の手から解放できたことになる。
そんな様子を見つめてヴィクトリーは言った。
「アイツ、来ないかもね」
こうも吾我が活躍するなら、公平の出る幕はない。
だがエックスは「どうかな」と返す。
「公平には、一つどうしても譲れない物がある。だから──」
言い終わる前にエックスは上空を見つめる。それにつられてヴィクトリーも顔を上げる。魔法の裂け目が開く。「なんだ」と言いながら、吾我もそれを見上げた。
上空より、それは勢いをつけて落ちてくる。ズドンという音がして煙が舞う。やがて、それが晴れた向こうには──。
「ほら」
そこには片膝立ちの人影がある。ゆっくりと立ち上がって、吾我を見つめる。
「吾我ぁ……!」公平が吾我を睨む。鋭い眼差しを彼は涼しく受け止めた。
「ほら。公平は来る」