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第八話 若くあることは恥ずかしくあることでもある

 その日、昼飯と呼ぶには少々遅すぎる時間にこれぞうとみさきは二人並んで冷凍牛丼を食っていた。二人が腰を据えるテーブルを挟んだ向こう側席には、ニコニコしながらこちらを見つめる水野家の母の姿があった。

「いつも思うけど、これぞうちゃんって本当に美味しそうに食べるよね」母はテーブルに肘をついて言った。

「そりゃ、事実美味しいですからね。お母さんのお米の炊き具合がまた良いですね。僕の実家ではもう少し柔らかめに炊くのですが、こうして上に具をのせるのであれば、硬めにするほうが良いですね」これぞうはご機嫌にリポートし始めた。彼はやや硬めに炊いた米を好む男だった。

 デパートであんな騒動があってすっかり腹が減ったみさきも勢いよく飯をかきこんだ。

「それにしてもこれぞうちゃん、外から帰ってくると頭にはこぶを作っているし、頬にも傷があるじゃない。どうしたの?」

 これはエレベーターの中で凶行めいた行為に走ったためにみさきからもらった痛い代償だったのだが、これぞうはその事情をすぐに話そうとはせず、隣のみさきに目を向けた。みさきは彼と目を合わすと首を横に振った。これは「エレベーターの中で起きたことは何も言うな」というみさきからこれぞうへの言葉なき指示であった。

 そこへ父が登場した。台所から居間に移動した彼はまたカステラを齧っていた。

「おいおい、まさか二人は外で喧嘩したのか?みさきちゃんいかんよ、お前が本気を出したらこれぞう君が敵うはずがないだろう」

「え、いやお父さん、それは確かにそうですが……僕も一応は男児ですからそう言われると何とも……それに喧嘩などしてませんよ」

 戦闘力で言えばみさきの方が圧倒的に強い。しかし彼女を守りたい男の心理から、そこを強く突くのは止して欲しいというのがこれぞうの素直な意見だった。

「じゃあその傷は一体どうしたって言うんだい?」言葉を発して父はこれぞうを向く。母もまた気になってこれぞうを見た。

「ふぅ……」これぞうは一息吐くと話し始める。この時、丼の中は空になっていた。「僕はまず他でもない自分に嘘を付きたくない。それはお父さんに対しても同じこと。お父さんの問いに対しては適当な嘘でも言えば良いのでしょうが、夫婦のことにおいてもそういうことはしたくないのです。かと言って、事の真実はお話できません。これは夫婦のことで、他言したくないのです。ただ一つ言えることは、僕たち夫婦は仲良しで、僕はみさきさんを幸せにすることしか考えていないということです。そういう訳で、言葉が足りませんがこのことについてはこれで納得してもらいたい」

「……そうか、夫婦ってのは色々あるものだ。それで良い。何があったか知らんが、君達の仲が安泰なら後のことは追求しないさ。私はそんなに野暮なおじさんではない」父はカステラのカスをボロボロと畳の上に落としながら真剣な顔で返した。

 一見真面目なやり取りに見えても、その根本にあるのがあんな珍騒動なものだからみさきは「何だこれ?」と想いながら事を眺めていた。

 

 その後二人は台所に仲良く並んで食器を洗う。

「へへっ、こうして夫婦の思い出を隠し通したこともまた一つの思い出だね」これぞうは前向きだった。

「もう、調子いいなぁ。あっ、これぞう君、箸はこっちにしまって」

「ああ、ごめんよ。水野家のルールも勉強しなきゃな」

 これぞうは幸せの中にあった。

 そこへ父が後ろから声をかけた。

「さぁ、こいつは余計なことかもしれんがな、それでも気になるのが、君たちはいつまで『くん』や『さん』でやり取りをするのかってことだ。もう夫婦だろ?」父はまだカステラをもぐもぐしていた。

 指摘を受けた夫婦は目を見合わせる。二人共呼び方については何も想っていなかった。

 元々はこれぞうの担任教師をしていたみさきが、これぞうの呼び方を「五所瓦君」から「これぞう君」に変えるのにはかなり時間がかかった。付き合い出してもそれが恥ずかしかったからだ。対してこれぞうは「先生」から「みさきさん」と呼べることに大変満足を覚え、あっさりと呼び方を変えることが出来た。


「別に、どうだっていいでしょそんなこと」みさきは頬をやや赤くして父に言った。

「みさき……」たいした準備もなく、これぞうの口からはごく自然にその名前が発せられた。彼女に対して人生初めての呼び捨てだった。

「……ちょっと何?生意気、年下でしょ」

「ややっ、これは失礼。……でも、たまには……ね?みさきさんも一つどうぞ、『これぞう』と……」

 みさきはこれぞうを見つめる。そして小さく呟いた。「……これぞう……」

「おおぅ……」これは案外いいかも。そう想ってこれぞうは小さな歓声を上げた。

 二人は顔を赤くして見つめ合った。普段の呼び方をちょっと変えるだけでも随分な違和感が発生する。そこに良さを見出すこともしばしばあるものだ。

 父は居間の柱に凭れて夫婦のやり取りを眺めていた。「お~い、水道、出っぱなし」

 これを聞いて夫婦はあたふたしながらまた台所仕事に戻った。


「まったく、見てられないよ。恥ずかしいったらありゃしない。若いってのはいいものだな。しかし、どうしてこうも年寄りを切ない思いにするのかね……」

 父は過ぎ去りし昔には自分にもあったあの幸せな時間を目の前に見ていた。

「まぁ、私は今でも十分幸せだがね」と言うと父はまたカステラを齧り、そのカスを床に落とした。

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