第七話 これが夫婦
これぞうは警備員に捕らわれ、警備員詰め所に連れてこられた。今はエレベーターの中で起きた事件の尋問を受けている。
「では、そちらのお嬢さんは本当に奥さんなのだな?」40代に見えるガタイの良い警備員がこれぞうに問う。
「ああ、そうですとも。紛うことなき、僕の人生のパートナーですとも」
これぞうは憤懣やるかたない想いをぐっと堪えて尋問に応じた。気絶したままこんな所に運ばれ、起きれば痴漢ではないか確認を取られているのだから腹も立つというもの。そして相手の物言いがやや高圧的なのも気に食わなかった。
みさきはトイレに用があったため一時姿をくらましたが、今では彼を擁護するために詰め所にやって来て彼の隣に座っている。
「だとしても、どうしてエレベーターの中であんな……痴漢のような行為を」
「何を言うのか!そもそもあれが痴漢行為ではないこと、その点を正さねば。いいか、僕らは夫婦なんだ。であれば、不特定多数の誰かを、それも時と場所を選ばず襲う痴漢者のような真似をせずとも、家に帰りさえすれば然るべき時にそこの欲求は叶うのだ。リスクある公共の場で事を起こす必要がない」
これぞうは痴漢者と正常者、それぞれの事情を交えた恥ずかしい説明をした。
「まぁそれは分かるが、じゃあなんであんなところで……つまりはその~妻のパンティをずらすことがある?いくら妻であっても、ああいうことはしてはいかんよ」
「だからそれは、彼女が漏らしても問題ないように僕がぁああああああ!」供述の途中でこれぞうは痛みのためにおかしな声を上げた。下を見ればみさきがこれぞうの足を踏んでいる。これ以上恥ずかしいおしゃべりはするなという意味を込めたボディコミュニケーションであった。
「警備員さん。そういうわけでこの人に悪気はないのです。私達、お昼からも用事があるので、もう引き上げて良いでしょうか」みさきは笑って言うが、心の中は平穏ではなかった。
「はぁ……まぁ奥さんがそういうのであれば……」警備員はこれぞうに向く。「君、まぁいろいろ事情があってのことだろうけど、気をつけたまえよ。こちらはすぐに警察を呼ぼうと想ったのだが、ここの主任がそれは事情を聞いてからでもいいだろうと言うからこうして穏やかに終わったのだからな」
「承知した。それからお茶のおかわりを。随分良いのを使っているんだね。少々無礼な扱いを受けたが、ここの職場環境は良いようだ。なにせ支給品が良いと来ている」これぞうは詰め所で使っているお茶を気に入った。
「もう!帰るよ、恥ずかしいなぁ」と言うとみさきはこれぞうの手を引っ張って立たせた。
「あっ、みさきさん。わかったから、それじゃお世話さま~」
こうして二人は詰め所を後にした。
思わぬ長丁場となった買い出しを終え、二人は再び朝にも通った土手を行く。昼前には家に着く予定だったのに、もうすっかり昼を過ぎていた。
「いや~まいったね、ホント」
これぞうはちょっと犬の糞でも踏んだくらいの軽いのりで喋った。
「もう、本当よ。あなたといると普通じゃないことばかりよ」みさきはぷんぷんして言うが、これぞうにはそれもまた可愛かった。
「ははっ、でも今日のは本当に普通じゃなかったね。もう少しで僕はまた警察沙汰に巻き込まれる所だった」
彼は高校時代にあらぬ誤解を受けて警察と事を構えたことがある。そのお話については前作参照。
「……あなたが言ったみたいに、これも笑える昔話になるの?」
「なるなる~。人生振り返れば皆懐かしく、愛しい思い出だらけさ」
「……いやでも、今回のことは……特にあなたの行動については笑えないから。これ、誰にも言っちゃだめよ」
「あ……うん。確かに、僕、ちょっとぶっ飛んだことを考えちゃったね。それは謝罪するよ。ごめんね」
漏らすか漏らさないか、緊迫したあの状況を思い返すと夫婦はやや気まずくなった。
二人は少しの間黙ったまま歩を進める。
昼時の爽やかな陽光を纏うみさきは大変美しく見えた。色々あった今日のことを想っても、やはり自分はこの女性を愛しているとこれぞうは改めて想った。彼女といればやはり楽しい。
これぞうは半歩先を歩くみさきの右手を見た。柔道でも剣道でもその他球技においても、この手が並み居る強敵を制した。そんな強者の手には似合わず、彼女の手は白く小さくか弱く、そして柔らかそうに見えた。これぞうは思わず手を伸ばした。これぞうの手がみさきの手を包み込む。みさきは2月の大気らしからぬ温もりを瞬時に感じた。
「ひゃっ!」と言うとみさきは手を引っ込めた。「え、ちょっと何?」
「ちょっと何って……もう結婚するって段まで愛を知った者なら、愛しい女性の手を握りたいっていう男の恋心くらい分からないものですかね?」とこれぞうは不満げに言った。
「……だめ、恥ずかしいから」と言うとみさきは早足で進む。
これぞうはそれを追いかけると「だめだめ、夫婦なんだから、何を恥じることがある?」と言って今度はしっかり手を握った。
「……夫婦だからじゃない?」
みさきは嬉しさと恥ずかしさ半々の中で頬を赤らめた。
「昼は牛丼にしようか。こないだ冷凍の具だけのやつ買ったでしょ。ご飯は炊いてたのが残ってたよね?」
これぞうは、みさきのときめきも半減する緩い会話を始めるのであった。