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第四十五話 自己修復

 敗北と書くと、どうして「北」という字が入るのだろう。北は敗者に相応しい方角だとでもいうのか。ある日ふとそんなことを考えて調べたところ、この場合の「北」は方角のことを言ってるのではなく、人が背中合わせに立っていることを表しているらしいと分かった。このことから相手に背を向ける、逃げるという意味を持つらしい。

 強敵を前に敗北を意識したこれぞうは、その漢字の成り立ちについて回顧していた。何でも調べて学んでおけば役に立つというものだ。

 だが、自分はまだ背を向けていない、逃げていない。強敵とはこうして面と向かいあっている。敗北にはまだ早い。これぞうは頭に浮かんだ「貝」の字を消しにかかった。黒板同様、彼の脳内も消したり書いたりを自由に行える。

 これぞうは再びバットを握って父に向かった。これぞうの手は震えていた。

 これぞうの最も近くにいる捕手の久松はその変化に気づいていた。普通の試合であれば、投手である水野の父と自分がコンビなわけだが、この場合は事情が違う。久松はこれぞうの味方だった。何か声をかけようか、一旦中断してしばしの休憩を与えようか、友人想いの彼なりに色々考えた。しかし久松は敢えて何もしないことにした。これはこれぞうの人生をかけた挑戦である。安易な助力をするべきではないと判断した。

 水野の父は右手に球を握ると投球フォームに入った。この時、太陽は一日の内で最も高い位置にあった。父は日光に照らされ、そこから太陽エネルギーでも吸収したかのように、自らの指先からも光線を放った。それは久松の構えたミットに向かう。

 内角に自分の腰の高さくらいの球。全体的に鍛えたこれぞうだが、その中でも一番苦手とするコースだった。

 スパン!

 またもや気持ち良い音が響く。球は捕手にまで到達し、前には飛ばなかった。これぞうは痛恨の連続空振りをしてしまった。

 まずい、半分を切った。5回のチャンスで結果を出せなかったこれぞうは一気に焦りを感じた。

 ここでこれぞうは自己申告でタイムを取った。しばしの間バッターボックスから外れると、立ち止まったまま30秒は動かなかった。その間、これぞうの心臓はうるさかった。

 外野右方向にいるみさきはこの状況を静観している。逆方向を守る妹は心配そうに姉を見つめている。姉はなぜ激励の一つも飛ばしてやらないのだ。応援があれば男は、中でもバッターボックスのあの男は特に士気を上げるはず。それが分からない姉ではないはずだ。そうまで思ってもみすずは姉には何も言えなかった。それは夫婦の問題である。

 

「どうしたのよこれぞう、何で前に飛ばせないの。このまま全部空振りなんてしたら承知しないわよ」あかりは両手に握り拳を作って言った。

「ああ、これぞう。信じてるわよ、これぞうはもう負けない」祈る想いで桂子は言った。

 ベンチに座するこれぞうの身内達はそわそわしていた。そんな中、父ごうぞうは静観していた。

 息子が苦しんでいる様はよく分かる。頑張っているのも分かる。今さら応援の言葉などもいるまい。これぞうは誰の助力なくとも全力を出している。今更なにをしても実力に変わりはない。一対一のこの勝負に外野の助力は意味のないことだと父は割り切っていた。そしてこれぞうの勝利を信じていた。


「五所瓦、そろそろ……」

 これぞうの休憩が長い。だから久松は声をかけた。

「ああ……もういいだろう」そう返すとこれぞうは再びバッターボックスに戻った。

 久松には、その時のこれぞうの顔が何かスッキリしているように見えた。これぞうはまだ戦えるから大丈夫、久松はそう思った。

 割りと長い中断の間、水野の父は何も言葉を発しなかった。集中力を切らさず常に戦闘態勢だった。外野からそれを見ていた娘たちは、いつになく真剣な父の発するオーラに圧倒されていた。今の父には、いつものだらけた中年感は全く見られなかった。


 僕はここで勝利することが簡単なことだとは思っていない。でも負けることは考えずに決闘を申し込んだ。追い込まれた今だからこそ心から思う。本気で勝ちたい。

 これがこれぞうの心の回答だった。答えが出た時、父の第六球は目の前に迫っていた。ど真ん中やや低めのコースを突いている。

「来た!」と思ったこれぞうは、父の投球に負けず高速なスイングをお見舞いしてやった。振り抜いた時には「カキン」という打球音が響いていた。

 スポーツ公園に集まった皆が空を向く。今回は地を這う打球ではない。白球は大空に羽ばたく。それは父の頭を越え、二塁ベースも越えて距離を伸ばす。この勝負で初めて外野手に仕事が回ってきた。打球はセンター方向に飛ぶ。水野姉妹は打球音が響いた時には反応して走り出していた。みすずは「お姉ちゃん!」と声を発すると、右手を開いて前に出した。自分が行くから来なくて良いという合図である。

 速い。とにかくみすずの仕事は速い。反応から声掛けのタイミング、そして着地点までの移動速度。全てが玄人の瞬間力だった。ラインマーカーでも引いてるのが見えているかのごとく、みすずは何の印もない砂地に見出した落下点を目指して駆ける。

 これぞうの打ち上げた球は、落下点に楽々潜り込んだみすずのグローブに吸い込まれた。これによってこの球が安打になる可能性が死滅した。投手一人で十分苦戦するのに、その後ろに控える者達もまた強敵だった。これでこれぞうに残るチャンスはあと三球のみ。

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