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第四十三話 冷凍と解凍

 水野の父はおおきく振りかぶり、球は今にも彼の手から離れそうだ。これぞうは力強くバットを握り、速球が繰り出されるであろうその瞬間を瞬きを堪えてじっと見ていた。その瞬間は待ち焦がれる暇なくその次の間には終わっていた。父の第一級は大気を切り裂いてこれぞうを追い抜き、その後ろに控える久松のミットに収まっていた。投球コースはというと、真ん中やや下と言ったところ、球種はストレート、第一球目にしてはサービスコースだった。

 なんということだろう。一人の人間が、こんなに老いに抗うことが可能なのか。半月前まで自分とバカ話に花を咲かせ、その間はボロボロと食べかすを落としながらカステラを食っていた中年が、ここまでの球を投げることができるのか。

 これぞうは、生命の構造上日々退化することが自然だという事情を見事跳ね除けて全盛期に近づけて来た義父の努力と進化に感動した。それと同時にたっぷり恐怖もした。

 一気に汗が出る。背中がジワリと濡れ、頬には冷や汗が伝う。これぞうの胸は高鳴っていた。みさきとの恋愛の時とは全く別の、強者を前にした危機的状況からの緊張がこれぞうを襲う。

 久松はもしや今のに臆したのではないかと心配に思ってこれぞうの顔を覗き込んだ。しかし、これぞうの闘志はまだ死んでいなかった。興奮と恐怖の中、これぞうは笑みを浮かべていた。余裕からではない、確実に彼は追い込まれつつある。それでも強者の現れを歓迎していた。これぞうにも、勝負自体を楽しむ勝負師の素質があった。これが分かってひとまず安心した久松は黙って父に球を返した。

 間もなく第二球がこれぞうを襲う。

 第一球があんなものだとは、その場の誰もにとって予想の範囲外だった。父が元々高校野球で投手をしていたことを知っていた娘達だって、これほど速いのを放るとは予想していなかった。ベンチに控える五所瓦ファミリーも凍りついた。我らがこれぞうはあと8回のチャンスであれを打ち返せるのかと思ってのことだった。

 先程のはさすがに驚いて手が出なかった。次は振る。相手は制球力抜群の歴戦の勇士だ。ストライクに入れてくると言った以上向こうが外すことはない。とにかく振らないと何もならない。

 父の振り上げた足が時を置いて地面に接地した。胴体が前に倒され、腕が振り抜かれる。そして、腕先から白いラインが伸び始める。その速度は荒野を行くチーターにだって劣らないとこれぞうには思えた。

 これぞうの視力は少なくとも2.0。学校ではそこまでしか測らない。目のことなら動体視力にだって自信があった。

 見える!

 外角低めに迫る白球目掛けてこれぞうはバットを振った。

 カンッ!

 この音にはかなりの聞き覚えがある。悔しい音、バットの芯を逃れた凡打の音だ。

 くそっ! 

 これぞうはその思いを口にはしない。だが、胸中ではその悔しい思いが膨らんで爆発しそうになっていた。

 結果はセカンド方向への内野ゴロだが、打ち返した球にはかなりのスピードが乗っていた。しかしそれは野球チームに所属してプレイした経験はなくとも、学校の体育とただの遊びのみで十分に人並み以上の技術を身に着けていた六平ひよりのグローブによって簡単に処理された。彼女のグローブ捌きから感じられる素人感は薄かった。


「ごくり!」

 ベンチから場を見つめる桂子は唾を飲み込んだ。早くも手に汗を握っている。

「ちょっとちょっとあかり、どういうことよ。これはただのアトラクションじゃなかったの?これぞうもあのオヤジもマジのマジじゃない!」

「そうよ。これは男の、いえもっと原子的に突き詰めて言えば、オスとオスの本能からの争いよ。マジなのは当然。手を抜けば殺されるって覚悟でやるものなの」

 戸惑う桂子に対して、あかりは落ち着いた調子で返した。しかしそんな彼女の手は震えていた。弟の緊張と興奮は姉にも伝染していたのだ。

「これぞう……そう、あなたはそこまでしてみさきが欲しい……。今は愛の獣なのね」桂子はこれぞうの覚悟を飲み込んだ。

 桂子は腰を上げると腹に力を入れて次の言葉を愛の獣に送った。「これぞう!打つの!勝つのよ!そのオヤジだけじゃない、この世にあるあなたに襲いかかる全てのもの、天変地異だって打ち砕いて進むの。いいこと?この龍王院桂子から男と認められ、黄色い声援を飛ばされる栄光を受けた者は全て勝利者でなければ許されない!それで結果を出せないようなら『男』であることを返上してこの先を生きなさい!」

「ププっ」これぞうは吹き出した。

 お嬢様らしく、上から下まで傲慢な内容の激励だ。だが、それが彼女らしい。彼女らしい中で最高の激励だった。これぞうの周りの凍りついたような空気に、一気に暖気が流れ込んだ。

 男であることを返上?冗談じゃない。これから自分は男に生まれたことを最も幸福だと感じるであろう世界に行く。夫として、次には父として愛する女と家庭を共にするのだ。ならばここで負けてやる訳にはいかない。彼女の言う通り、なんだって打ち砕いてみせよう。

 再びこれぞうの闘志が燃えた。その火力は増すばかりだ。

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