第四十二話 狼煙上がる時
「これぞう」
「はい、お父さん」
実の父ごうぞうはこれぞうの両肩に手を置いた。
「何だか知らんがすごいことになっているな。でもとにかく頑張れ。勝利することは難しいかもしれないが、勝利するまての方法というか過程は実に簡単だ。水野のお父さんから一発デカイのを打ってしまえば良いだけだ。僕は野球については門外漢だが、とにかく打った者が強く、打てなかった者は敗者なのだろう。ならば打ちなさい。みさきさんもみすずさんも向こう側に回っているが、なんのことはない。彼女達の背も越えてデカイのを打てば良い」
父は多くの言葉を送ったがその中身は極簡単なものだった。しかし、その単純化された戦術の伝授が息子にとっては何より強い励みになった。単純な勝負ゆえ、勝利も敗北もすぐそこにあった。ならば、どちらを掴むもそう難しくはなかろう。これぞうもまたそんな単純思考になり、それが自信に繋がった。彼を見るに、少なくとも勝負前から気持ちで負けているなんてことは全くなかった。
「まぁそういうことよこれぞう。お父さんの言ったことが全てよ。頑張りなさい」母のしずえも激励の言葉を送った。
「はい!では言ってまいります」
これぞうはバッターボックスへと歩く。
それを見ながら水野の父が言う。「これぞう君、君の応援をする者、私の応援をする者で比率がどうなっているかのは知らないが、私は君にこそ敬意を送るべきだと思っている。だからそこら変の事情に関係なく手は抜かん、一切抜かん」
「ははっ、そうでしょう。最初から負けてやるつもりなら、そんな体を作って来るものですか」
「そうだな。ここ半月は糖分、スイーツを食べていない。苦しかったよ。君を見事ねじ伏せたら、その後はまた堂島さんのところのカステラを一本食いしよう。君も付き合いたまえよ」父は製菓店「堂島」のカステラを食いたくて仕方なかった。
「ええ、いいですね。勝負が終われば、僕らはカステラを共に食うただの男同士ですよ」
これぞうはバッターボックス前で素振りを始めた。捕手の久松はそれを見つめている。
「皆さん、お願いします!」これぞうはその場の者全員に聞こえる声で言った。
マウンドはもちろん水野の父が占めている。そしてその左右、セカンドとショートがいて相応しい場所にサポート役がいた。セカンドにはひより、ショートには松野が守備についていた。外野は水野姉妹が守っている。右半分はみさき、左半分はみすずが担当することになった。
「私からヒットを取れたら良い。もちろん欲しけりゃホームランをかましたってかまわない。私が9球投げる。私はストライクゾーンにしか投げないから、それでしっかり三打席分だ。その間で君がヒットを一つでも打てたらその瞬間君の勝ちだ。一塁手はいないから走る必要はない。ヒットの当たりかどうかは、そうだな、私と君と、キャッチャーの彼とで判断で良いだろう。まぁそうそうバットに当たるとは思ってないけどね」水野の父はルール説明を終えた。
「良いですよそれで。誰がどう見ても安打でないと意味がない。ボテボテの内野ゴロをエラーしてセーフになってもそれは試合では勝ちだが、ピッチャーとの勝負ではちょっと違う」
「ははっ、良い心がけだ。しかしだねこれぞう君、勝負前に言っておきたいが、君は我が家の可愛い娘達で十分こと足りるだろうに、こうして内野を守ってくれている素敵なお嬢さん達を見るとだね……君って面食いの女たらしなのかい?」
「はっ!違いますよ。それぞれと誠実なお付き合いしかしていません。友人は友人、妻は妻としてです」
捕手の久松が声をかけた。「水野先生の親父さんもやっぱりただ者じゃないな。ああして自分が投げやすく、そして五所瓦が動揺してバットを振りにくくなるよう心理的駆け引きをしているんだよ。気をつけろよ。勝負は実力だけじゃないぜ。ルールの範囲で工夫して手を打った者がやはり有利だからな」
このように久松は深読みしたが、実際のところは父がただお喋りな特性を持っていただけだった。
「では、そろそろはじようか」水野の父が軽口を叩くのはここまでのことだった。この後、決着がつくまで彼が笑みを見せることはなかった。この段階で父は勝負師の顔になっていた。
これぞうは空気がピリつくのを感じた。父から本気の態度が見て取れたからだ。自分もここらでスイッチを入れないといけない。
「お願いします」
これぞうはバッターボックスに入った。この瞬間をもって世紀の大決戦の開幕である。




