第九話 思い出した青春の忘れ物
明くる日の朝、これぞうは太陽の光を浴びに水野家一階の縁側に出てきた。
「ふぅ~変わらず良い朝、良い太陽だ。こいつでビタミンDをたっぷり生成しなきゃ」これぞうは背筋を伸ばした。朝の光を浴びながらの伸びはどうしようもなく気持ち良い。
そんな時、カチャカチャという音が聞こえた。何かと想ってこれぞうが縁側から首を伸ばすと、庭の端で自転車を前に水野家の父がなにやら作業に耽っている姿が確認できた。
これぞうは庭に降りて義父に話しかけた。
「おはようございますお父さん。朝からまた何をしておいでですか?」
「やぁこれぞう君、いい朝だね。なに、こいつはみすずの自転車でな、後輪の空気がすぐに抜けてしまうからちょっと様子を見てくれと言われたんだよ」
「ほぅ、お父さんは自転車の修理なんてことまで出来るのですか?」
「ああ、出来るよ。なにせその昔は自転車屋で働いていたからね。嫌でも仕事は覚えるし、体が覚えたことはなかなか忘れない。で、こうして様子を見ていればすぐに分かることがほら、虫ゴムがこんなにチビてしまっている」父は後ろを振り返ると後輪バルブをこれぞうに見せた。
「本当だ。こいつは剥き出し状態ですね。ゴムがチビりまくってますね」
「まぁこんなこったろうと想ったよ。スペアゴムを持って来ていて良かった」と言うと父は換えのゴムをバルブにはめ、後輪に空気をたっぷりと入れた。
「よしよし、こいつで万事解決」父はタイヤにさわって黒くなった手をパンパンと叩いた。
「お見事!これが家庭を支える父の姿ですね」
「まぁね。子供が自転車の一台くらい壊して帰ってきてもささっと直せないようじゃ一家の大黒柱は務まりはしないよ」
「じゃあ僕は力不足だな。そうして自転車を触ることなんてないもの」
これぞうは小中高、そして現在の大学までいつも徒歩通学だった。休日に行く場所と言えば地元の水族館、図書館、駅前の牛丼屋くらいのもので、いずれも近いので徒歩で通っていた。彼は自転車に乗る用事がほとんどない男だった。ほぼ乗らないのだから修理なんてしたことがない。
ここでみすずも外に出てきた。
「お父さん、もう直ったの?」
「ああ、とっくに直ったよ。さぁ乗ってごらん」
みずすは愛車に跨ると庭を軽く一周した。
「へへっ、いい感じ~」みすずはにこやかに微笑んで穏やかな2月の朝の風を切る。
男二人は並んで立ち、ご機嫌に微笑むみすずを眺めている。
そこでこれぞうはゆっくりと口を開いた。「お父さん、僕は今日実家に帰ります」
「そうか、君の両親と姉さんも君に会いたがっているだろうね」
「それでなんですがねお父さん……」
これぞうは次の言葉をなかなか続けない。
「なんだね、言いたまえよ」
「はい、では言わせてもらいます。先日のことですが、僕のお父さんがこんなことを言いました。大学を出て結婚する、ここに一つ青春のピリオドが打たれると……」
「ほほぅ、君のお父さんらしい、これまたポエミーな表現だね」
「同感です。そしてお父さんは、ピリオドを打つ前に今出来ること、片付けておくことがあるならさっさと思い出してやってしまえとも言ったのです」
「ふむ、すると君には青春の忘れ物があると?」
「そうです」
これぞうは体を父に向け、父の横顔をしっかりと見つめた。
「お父さん、ずばり僕の青春の忘れ物は、いつかの野球勝負でお父さんに敗れたことです」
ここで父もみすずからこれぞうの方へと体を向けた。
「君はあんな昔のことにまだ拘っているのかい?」
「ええ、負けた者はいつまでも負けを覚えているものですよ」
「で、どうしたい?」
「僕は3月上旬にこっちに戻ってきます。その時に最後の勝負をしてもらいたい」
これぞうの顔は真剣そのものだった。父はこの話を軽く流すことが出来なかった。
「それで、勝つなり負けるなりして、どうなるというのだね?」
「ごめんなさい。負けることは考えずに言いました。でも、あなたに勝てたら、なんと言うか、とにかく僕はひっかかりなくこの先を進めると想うのです」
「なんだ、君は今もこうして十分前進しているじゃないか。まだ引っかかりがどうこう言うのかい?こないだの時にはみさきを賭けての……でもないが、まぁみさきに関することで熱くなったね。でも、既に君はみさきと籍を入れて勝利を勝ち得ているじゃないか」
「そうなのですが……なぜこうも引っかかるの自分でもしっかり話せないのですが、あの日負けた事は今でも忘れられないのです」これぞうは拳を握りしめると続きを話し始めた。「お父さん、僕は高校三年間で数人友を得ましたが、それ以前には友など持ったことがなかったのです。なので自然と何かを競う相手も持ったことがなかったのです。そこに来て僕が始めて本気で戦った相手があなたでした。見事に負けた後は連日再戦のためにバッティングセンターに通いました。思えば僕が他人に勝利するために努力したのはあれ一度きりだ」
「なるほど、このおじさんが初めてにして唯一五所瓦これぞうを下した男だと……ははっこいつは光栄だ」
父はひとしきり笑い飛ばすと表情を作り直してこう言った。「よかろう。君の青春にピリオドを打ってやろう」
「ありがとうございます!」
二人は握手した。
「しかしこれは勝負だ。無論、私は勝ちを譲る気はない。君はまた負けたとしても、胸を張って青春を終えれば良い。で、勝負をするなら何か賭けないとね、受けた私にメリットがあるようなことを」
「ああ、こいつは考えていなかったな~」
「じゃあ簡単だ。婚約破棄、いや、この場合はもう離婚か」
「はぁああ!!」これぞうはさすがに大きな声を出した。
「何を驚くことがある?亀の王様を倒さずして、桃の姫君を嫁に出来る道理がないだろう?もうすっかり忘れた設定を君が蒸し返したのだぞ。前にも言ったけど、私は君が好きだが、やはり可愛い娘をさらっていく敵なんだよ。私達の本来の関係はこうだ」
困ったことになったとこれぞうは想った。
「あの時からすると、君の未成熟な体は成熟し、君よりも強かった私は老いた。この時の流れが丁度良いハンディだね。はっは~」
笑う父の横でこれぞうは笑えなかった。
「ああ、負けた時に君が全てを失くすのは可哀想だ。その場合にはそうだな……みすずを嫁にやろう」
「な、なんですって?」
「どうだ~い、みすず~それで良いかね?」
みすずは自転車でこっちに向かって来る。「いいよ、何か面白そう」
聴力の良い彼女は運転しながらも男二人の会話を聞いていた。
「どれ、久しぶりにこの肩のご機嫌を見るかね」と言うと父はみすずに指示する。「みすず、ボールとグローブを、お父さんの球を受けてくれるね」
娘は「もちろん」と答えると自転車のまま倉庫に突っ込み、グローブをはめて返ってきた。
「じゃあいくぞ」
父は大きく振りかぶる。
「どうぞ!」
次の瞬間「パン!」と気持ち良い音を響かせてみすずは投球を処理した。
「速い……」これがこれぞうの感想だった。
「ははっ、私もまだ捨てたもんじゃないなぁ。これぞう君、私は負けるのが嫌いというよりも、人に勝つのが好きなんだ。これが我が家系の気質なんだよ」
父は第二球目を放った。これもまた気持ちよくみすずのグローブに吸い込まれた。第ニ球目は高校時代のこれぞうを見事空振りさせたシンカーだった。




