第零話 やはりその物語を読み始める前に知っておいた方が良い物語
あの男が再び私の元を訪れた。前回同様、飄々とし、間抜け面を下げてのことだ。
「やぁ、久しいね。結婚式が終わって一息ついているところなんだよ」
もう会うことはないと想っていたのに、男はまるで昨日まで私に会っていたかのように気安く私の時間に上がり込む。現在私は他所で頼まれた原稿を仕上げている最中だ。暇ではない。
我が家の来客の応対をする母には、もしも私を訪ねてくる者がいれば「いない」と言って追い返すよう頼んでいたのだが、この母が案外おっちょこちょいなのだ。
階段の下から「お客さんが来たらいないって言えば良かったけ?」と母が大声で聞く。玄関のすぐ横に二階へ通じる階段があり、私の自室は階段を上がってすぐのところにある。客を玄関に待たせてそんなやり取りをすれば、客には私がいることがバレバレではないか。こうして私は前回同様居留守に失敗し、客室にまで降りて行くことになった。そして、この男ののろけ話を聞かされている。
「いや~本当に良い式だったんだよね。と言っても、誰だって自分たちの式は良きものだと言いがちなんだけどね。でもね、僕たちの式は贔屓なしの客観的視点から言っても確実に良きものだったんだ」
うるさい。そう思わずにはいられない。この男はここに来れば、毎度毎度一体何語、何文話すのだろうと想うくらいたくさん喋る。無論、ここ以外でもよく喋っているのだろうが。
「ははっ、おのろけが過ぎたね。なんだろうか、人生で君と共にした時間はわずかばかりのはずなのだが、まるで姉さんとでもいるみたいに君には親近感がわくんだよね。不思議なものだよ。だからついつい饒舌になってしまうんだ。それよりもこれ、君の好きな羊羹」
おおっ!くそうるさいおしゃべりを聞いたお駄賃がこの素晴らしい羊羹なら全てを許そう。彼がここにこれを持ってくるのはこれで三回目。母がこの羊羹を欲しがるのだが、過去二回は私がその場で食ってしまった。そして今回も、もらったこと自体を母に黙ってその場で齧ることした。すまない母よ、こいつは分けてやれない。だってとても美味しいのだもの。
「ははっ、君ってば毎度包丁も入れずに一本丸々かい。逞しいね。それでだが君、また相談なんだよね。あっ、そいつは相談料の前払いさ」
しまった。はめられた。私は交渉事はフェアに行う男。こうして報酬を先にもらったからには、それに見合った働きをしなければならない。あれ?これって果たしてフェアなのか?
「実はね、こないだ君と別れてから今日までの間にも、僕と彼女の間に色々とあってさ、個人的にそれらは椿事だと想うのだよ。そう、君の筆で原稿に書いても問題ないくらにね」
奴の要望はこうだ。こないだたっぷり時間をかけて50万字も書いてやった奴の物語のその後を、忙しいスケジュールの間を縫ってちょろちょろっと書いて欲しいということだった。全く私を何だと想っているのだろうか。仮にも筆で金を稼いでる物書きに、いくらものが良いとは言え羊羹一本で仕事をさせようなどとはなんて非常識な奴。
しかし、この交渉は成立した。男から聞いたネタだが、書いても良いと想うくらいには興味が湧いた。そして私のポリシーに反しない内容だとも想った。彼は私の、いや物書きの性分を分かっている。彼は読みたい読書家で、私は書きたくて仕方ない物書き。二人の利害が一致する「物語」がそこにあった。ならば書こう。
私の意志を読み取った筆は原稿に次のような物語を描いた。ゆるりとお楽しみあれ。