消えたメイド
メルディの依頼から三日後、昼食を済ませると約束の時間ちょうどにニーベルグ伯の屋敷を訪ねた。
快く出迎えてくれたフレッドは、アランに先日の夜会での事を詫び、礼をした。
「体調もあれから随分よくなったよ。わざわざ来てくれてありがとう」
フレッドはアランが体調を心配して訪ねてきたと思ったらしく、実はそれ以外にも用があるのだと伝える。
「ここにマリアという使用人がいると思うんだが、知人から彼女の大事なものを預かっているんだ。呼んでもらえるだろうか」
「マリア? そんな使用人いたかなあ……。少し待っていて」
フレッドはメイド頭を呼び寄せ、使用人マリアを呼んでくるよう命じた。
「マリア……ですか? あの、そのような名の使用人はこちらでは雇ってはおりません」
「そうなのかい?」
なんと、マリアがいないという。困惑する三人。
「そのマリアという女性は、本当に僕の屋敷で働いているのかい?」
これは困ったと口元に手を持っていきメルディの言葉を思い出す。
「確かに、君の屋敷で働いていると言っていた。マリアは孤児で、伯爵が彼女を引き取り、屋敷で雇ったのだと……」
「孤児?」
あからさまに嫌そうな顔をするフレッドを横目に、アランはメイド頭に直接聞く。
「そういう少女はいなかったかい?」
「はい。マリアという名ではなくとも、旦那様からの直接の御紹介でしたら忘れるはずもございませんし、まして孤児などという出自のはっきりしない人間は、この屋敷では採用いたしません」
はっきりとした答えにアランも「そうか」と引き下がるしかなかった。
「力になれずに申し訳ない」
「いや、こちらこそ時間を作ってもらい感謝する」
二人は席を立ち、握手してその場を収めた。
帰り際にマリアが持っていたという本の事がやはり気にかかり、フレッドに書斎を見せてほしいとお願いをした。フレッドは戸惑いながらも快諾し、帰りに寄らせてもらう。
「ここにあるのはほとんどが父の物だ。好きに見てもらってかまわないよ。だけど、どうして書斎を?」
「マリアに渡したいというのが、おそらく伯爵から譲られた本の様なんだ。確認しても?」
「……ああ」
フレッドの厚意にもう一度礼をし、アランは早速メルディから預かった本の背表紙を探す。マリアが所持していた血痕のついた本は、時代小説で、第三巻と書かれている。続き物ならば、同じ本がここにあるのではないかと考えたのだ。
「!」
青色の背表紙に、第一、第二と続いて、第六巻までがあった。ただし、三巻だけは奇麗に抜き取られている。
他の巻を取り出して背表紙の裏まで確認する。そこには同じ、『モリソン=ニーベルグ』のサイン。
「……フレッド、伯爵にも話を聞きたいんだが」
「今さっき出かけたばかりでいないんだ」
それは残念だと本をもとの場所に戻し、アランは今度こそ玄関へと向かった。
馬車に揺られながら、口元に手を置いて考えにふけった。手元にはメルディから託され、持ち主の元へ帰れず残された血痕のついたマリアの本。
伯爵の本棚にはこの第三巻だけがきれいに抜き取られていた。この本が伯爵の物なのは確かだろうし、マリアが大事にしていたならば、伯爵とマリアは顔見知りの可能性は高い。
しかしマリアは伯爵家にはいなかった。ニーベルグ伯爵家では身元のはっきりしない者は雇わないと、はっきり言いきっていた。一体マリアはどこに行ったのだろうか?
『鮮血が飛び散ったような――』
メルディの言葉を思い出し、随分と具体的で恐ろしい表現に、マリアの行方がわからず血痕の残る本を目の当たりにしては、恐ろしい想像をしてしまいそうだ。伯爵がマリアの行方を知っていてくれればよかったのだが、事はそう簡単に運ばないようだ。
どのみち中途半端な報告をしたところで逆にメルディが気を揉んでしまうだろう。
「行き先を変える。ロースリ通りの孤児院に向かってくれ」
それならば、もう少しマリアの消息を探してみようと、もう一つの関係先へと向かうアランだった。
馬車に揺られる事数分。途中菓子店で孤児院の子供たちにお土産のおやつを買った。
マリアの暮らしていたという孤児院は存外ニーベルグ伯爵家からは近くて助かった。馬車を降り、孤児院の玄関前で足を止める。
「……」
さて、どう切り出してマリアの事を聞き出そうか……。
「アラン」
悩んでいると聞きなれた声に呼ばれ、意外な人物の登場に驚く。
「レオン、何故ここに?」
目深に帽子を被り、銀フレームの色眼鏡をかけた友人がそこに立っていた。だが身に纏う服はいつもと違う格好で、上から下を不審に眺める。
「何故はこちらの台詞だよ」
同じ質問を投げ返され、アランは肩をすくめる。
「まあいい。君、確かローチェスタークラブの会員だよね。ちょうどいいから君にも付き合ってもらうよ」
レオンはアランを追い越し、玄関ベルを鳴らした。
何の説明もないまま、レオンと共に応接室へと案内される。孤児院といっても中流階級の家位の広さだ。中庭からは子供達の声が聞こえてくる。敷地は広いようで、外で伸び伸び遊べる環境は子供たちにも適しているだろう。
アランはレオンに小声で問いかけた。
「それで、君はどういった用件でここに?」
レオンの本日の服装は何故か警備隊の格好で、訳ありなのは見た目で分かっている。話を合わせるためにも少しでも意図を聞きたかったのだが、レオンは人差し指を立てて、扉が開く音と共に立ち上がった。
「クレア院長、お時間を作っていただきありがとうございます。先日お伺いを立てました警備隊のレオン=ハルトと申します。本日はどうぞよろしくお願いいたします」
もちろんレオンは正式に警備隊には所属していないのだが、それらしく敬礼して本物らしくみせた。クレア院長はというと、ただ頷いただけで、至極迷惑そうにレオンを冷たい目で見ていた。それだけで彼女がレオンを歓迎していないのだと分かる。壮年のふくよかな院長は、孤児院で働いているというのに身につけている宝飾品が随分と高価なもので、あまりに不釣り合いである。自分の存在感をこれでもかと示すような真っ赤な口紅と香水のきつい匂いにむせ返るようだ。片側だけ身につけたエメラルドのイヤリングは、意匠が若者向きで彼女にはどうも違和感がある。不躾に見ていたせいか、クレア院長はアランにも嫌そうに視線を向けた。
「はじめまして。アラン=ブライトンと申します」
アランは立ち上がると敬礼ではなく、紳士の礼で丁寧に挨拶をする。おそらく、レオンがアランに求めているのはこういう事だろうと考えたのだが、やはりと言うか、クレア院長の先程までの気だるげな態度は一変し、目を見開いてこちらを凝視しながら値踏みしている。
「ブライトンとは、もしや侯爵家と縁のある方?」
アランが気圧されて答えるのが数拍開いた間にレオンが説明する。
「ええ。アラン様はブライトン侯爵家の嫡男にあらせられます」
「まあ! 侯爵様ですか!」
そこでやっと院長は立ち上がってアランに挨拶をした。その態度の急変にいかに彼女が人を肩書で見る人間かが分かり内心辟易する。
「アラン様はこの孤児院の大支援者であるローチェスタークラブの会員でもあります。ゆくゆくは侯爵から爵位を受け継ぐ故、慈善事業に大変興味をお持ちですので、私とは別件で孤児院の様子を見学しに参られたようです。二時間ほど、我々だけで自由に院内を歩かせていただきますが、よろしいでしょうか」
レオンの調子のいい紹介に、アランは微笑むだけにしておく。
「侯爵様がいらっしゃるならば、こちらも子供達にきちんと用意させましたものを……」
戸惑うクレアは、うまくいけば侯爵家の支援を勝ち取ることが出来る好機に喜んでいるようだが、レオンの言う当初の用件に関してはやはりいい顔をしないようで、「ですが勝手に歩かれましても……」と二人だけでうろつかれることに迷っているようだった。
アランは優しく微笑んで「急にお邪魔して申し訳ありません」と謝罪する。
「普段の子供達の様子が見たかったもので、どうかいつも通りに過ごしていただければと思います。お仕事の妨げになるのはいけませんから、どうかお構いなく」と丁寧に言葉をかける。
「あ、はい」
アランに微笑まれ、クレアは頬を赤らめてそれ以上は言わない。「では、何かございましたら、私に声をおかけください」と、最後にはアランの素性で無体な事はしないだろうと判断したのか、そそくさと応接室を出ていった。
「さすが! 社交界一の麗しの貴公子殿の微笑みはマダムにも効果覿面だ!」
「何だ、それは……」
自分一人では怪しまれることこの上なかったが、アランの登場のおかげで事がスムーズにいったとレオンは大仰に腕を広げて礼を言った。
「褒められている気がしないな。それに、ああいう権力に媚びる女性は苦手だ」
「はは。孤児院経営は慈善事業の寄付金で賄われている。仕方がないさと擁護したいところだが、それにもかかわらずあの院長の宝飾品は不釣り合いだったな」
レオンもクレアの容姿に賛同する。
「それが関係しているのかい? 君の用件とは何だ。警備隊の格好までして、まずは説明してくれよ」
「わかっているよ。しかしこの制服、格好いいだろう? 僕は変装の名人だからね。さて、時間も惜しいのでまずは歩きながら話そうか」
二人は扉を開け、早速孤児たちの声がする方へと向かった。
「実はここに警備隊として来たのは二度目なんだ。一度目は、経営と経理、主に運営の抜き打ちテストという形でお邪魔した。まあ、案の定快く受け入れてはもらえないよね」
子供たちは楽しそうに中庭で遊んでいた。土で盛られた小高い丘を、歌を歌いながら足踏みしたり、追いかけっこやおままごと、少し大きめの子供は木の陰で読書やおしゃべりに夢中だ。
院長も中庭におり、軽く会釈してその場を後にし、長い廊下を進み、はじめに食堂を見学した。昼食の片付けも済ませた食堂は綺麗にされていて人はいない。
「諸々突っ込むべきところはたくさんあるけども、僕の本来の目的はずさんな経営でも運営でもない。不明孤児の行方だ」
「不明孤児?」
レオンは食堂の扉を閉め、二人きりになったところでやっと話を始めた。
「『孤児が消える』という噂があるのを知っているかい?」
アランは首を振る。
「怪談話みたいに城下では流れている噂だが、あながち嘘でもないんだ。僕宛に、孤児だという少女から匿名で密告があった。その内容が、どうにも鮮明すぎて気になってね」
「君宛に? 『レオン』宛てに?」
まずは引っかかる箇所を指摘する。レオンはアランを見て真面目に頷いた。
レオンの正体は国の秘密事項の内に入る。軍と警備隊の両方を行き来し、夜会や貴族の屋敷に出入りしているが、それら全てはブライトン家の遠縁という仮の身分に過ぎず、ましてレオンが諜報活動をしている事はアラン以外に知る者はいない。
「僕の存在を知っているなんて、それだけで相手が、ただの孤児ではないと分かるよね」
レオンは送られてきたという手紙をアランに見せた。
そこには、誰の字とも読み取れない角張った字で、孤児院の内情が鮮明に書かれていた。
「院長や職員の特徴、孤児院の間取りに不明瞭な慈善金や粗悪な運営の告発。一度目の調査では手紙の通りの内容で驚いたよ。だからこそ、そこに書かれている孤児たちの置かれている悲惨な現状も、あるいは真実ではないかと無視できなくなった」
――院には子供達が決して出入りしてはいけない場所があります。二階のエントランスホールから左に入った西の廊下の先、金のノブのついた部屋が一つ。そこでは、ある一定の子供たちだけが出入りを許されているのです。私達は、その部屋を『ベッドのある部屋』と呼んでいました。孤児院の支援者である男性が訪れた時だけ、選ばれた少女はその部屋に案内されます。この中で何が行われていたか、言葉にするのも忌々しい。ですがこれがこの孤児院の実態です。勿論、体を張って支援を受け、自由になる娘達もいました。支援を求めて自らの意志で身を捧げた者もおります。ですが、中にはその部屋に入ったきり、別れも告げられずに引き取られていったという娘もいるのです。その娘達だけは、何故かその後の行方が分からずにおります。どうか、レオン様のお力でお調べください――
「……」
「前回、その部屋に向かったら真っ先に院長に見つかって追い出された。まるで何かを隠したいような態度で、手紙にあるように、そこで行われていたことに僕も疑いから確信に変わり始めている」
アランは事態を飲み込むために一度大きく息を吐きだした。
「レオン、実は私も、ここの孤児院出身で行方不明のマリアという少女を探している」
メルディから頼まれた、本を返す相手のマリアという少女――ニーベルグ伯から行方が分からない彼女も、もしかしたら無関係ではないかもしれないと、アランはここまでの顛末をレオンに話して聞かせた。
「メルディが、君に頼んだのか……」
「ああ。そしてこれが、マリアが大切にしていたという血痕の付いた本だ」
「……」
二人は同時に、最悪の結末を想像したことだろう。
「僕はここへ来るまでに、その『ベッドのある部屋』で会っていたという支援者を調べることにした。その支援者たちには、どうにもきな臭い話がある」
レオンは手紙を丁寧に畳み、懐にしまった。
「孤児や貧困の子供達を救う事を主に活動している奉仕・慈善活動『ローチェスタークラブ』」
孤児不明にかかわった可能性のある支援者の名を聞いて、アランは思わず声を荒げる。
「ローチェスタークラブなんて、ほとんどの貴族が会員じゃないか!」
創始者であるローチェスター卿が今から五十年も前に設立した慈善活動クラブ。
当時戦争遺児が国中に溢れ、遺児たちを支援することから始まった活動は平和な現在、貧困の子供を救うことに形を変え、その意志は受け継がれ崇高な活動をステータスにする貴族も多く、会員数は国内最大規模のクラブである。
アランも父も会員の一人で、そんなクラブが不明孤児に関わっているとは信じがたい。
「もちろん君のように、本来の目的で活動している人間がほとんどさ。問題はその中の一部に『裏ローチェ』と呼ばれるものがある。そこでは保護した子供達に虐待や身売り、売春への斡旋をさせて、己の欲望を満たすためだけに相当えげつない事をしているという」
「それは……初めて聞いた」
アランは自分が籍を置くクラブでそんな悲惨な事がおこっていた事にショックを隠し切れない。
「正規の会員ですら知らない裏クラブだ。会員名も人数も、全てが仲間内で伏せられていて、今回僕が情報を得たのもそのクラブが関わった孤児で、うまく逃げ出せた労働者だ。彼の証言では中には不審な死を遂げた者や、行方不明者が多数いるという」
「なぜ……そんな犯罪者たちが野放しにされているんだ……!」
関わっているのが本来は保護をすべき立場の貴族であるという事実に、怒りと憤りを隠しきれない。
「被害者も孤児とあって、行方が分からなくなっても熱心に探す者はいない。軍や警備隊が把握できていないのも仕方ないだろう。しかも貴族の大多数が所属するクラブ内を隠れ蓑にされているから、犯人を見極めるのも容易ではない」
姿を消しても探してくれる者もいないなんて、悲しい理由に胸が締め付けられる。
「アラン、実はその本のモリソン=ニーベルグ伯爵はよくこの孤児院に足を運んでいたんだ。僕は息子であるフレッドに軽く探りを入れてみることにした。彼は直ぐに青ざめて、走って逃げ帰ってしまったよ。もしかしたらフレッドか、父親の伯爵が『裏ローチェ』の人間かもしれないと、僕は思っている。ほら、君が『時止まりの令嬢』に接触したあの日さ」
あの日、帰りがけのフレッドに出くわしたアランは、確かにフレッドの尋常じゃない様子に驚いたものだ。
「……」
メルディから頼まれた簡単なお願いが、まさかこんな大事になるとは想像もしていなかった。だが孤児たちの現状を聞き、このまま見過ごせるはずもない。アランは今一度気を引き締めた。
「行こうレオン。その忌々しい部屋を調べる必要がある」
「君なら協力してくれると信じていたよ。それじゃあどちらかは院長の目を他に逸らす足止めをしないとね。この場合は君の方が適任だとは思うんだけど――ああそう、あんなのでもやっぱり女性は苦手なのかい? まあ、見つかった時に迷ったと言って君の方がごまかしは効くか」
レオンは使途不明な寄付金の事を聞く振りをしてクレア院長の元へ足止めに、アランは直ぐに例の部屋へと急いだ。
遠くに子供たちの声を聞きながら、人影のない玄関ホールへと戻り、周囲を確認しながら二階の階段を上がっていく。そして左へ、西の廊下の先に――金ノブの扉が一枚。手紙の内容と全く相違ない事に、レオン同様悪戯ではなく現実味が増してくる。
辺りを見回し、誰もいないことを確認してドアノブを回した。
中はこれといっておかしなものはない、ごく普通の部屋だった。
丸テーブルに椅子が二脚、ボードには簡単な応接セットに花が生けられ、その奥には大きめのベッドがあった。もしここが誰かの部屋だと言うのなら別段驚くことはなかっただろう。しかし、ここが支援者の男と、少女が面会のために使われていたというならば、この部屋にベッドがあるのは異質である。
ベッドを怪訝な顔で見ながら、アランは一通り部屋の中を漁った。入った時にこじんまりとした作りだと思った。だから調べるのも時間はかからず、特に怪しいものも見当たらない。レオンが受け取った手紙をもう一度思い出す。
――体を張って支援を受け、自由になる娘達もいました。支援を求めて自らの意志で身を捧げた者もおります。ですが、中にはその部屋に入ったきり、別れも告げられずに引き取られていったという娘もいるのです。
「……この部屋へ入ったきり……」
つまり手紙の主はこの部屋で何かが起こったと思っている。それは決してただの失踪ではなく、命が奪われるような何か――
『まるで鮮血が飛び散ったような――』
ふいにメルディの言葉を思い出し、アランは膝をついてベッドの下まで覗き込んだ。
「ないか……」
そのまま床や壁伝いに四つん這いになって探す。チェストの下も覗き込む。特に何もない。
「……だめか」
諦め半分で軽くチェストを動かしてはっと息をのんだ。
壁の下に、血の跡が数滴残っていた。よく見るとチェストにも飛び散ったような血の跡がある。
「やはり……!」
この部屋で、残虐な事が起きていたのかもしれない。
立ち尽くすアランの背に、扉が開く音がして心臓が飛び跳ねた。
「……あ」
扉からこちらを覗き込むように立っていたのは、ぼろぼろの服を着た小さな少女。
「アン! ここには入るなって、院長に言われていただろう!」
後を追いかけてきたのは日に焼けた吊り目の少年。アンという少女は年上の少年に叱られていた。
「ごめんなさい……かくれんぼ、ここなら誰も来ないと思ったから」
少年はアランの姿をちらりと見て、睨むようにアンを背に隠した。その目には焦りと恐怖、怒りが混ざっている。アンを部屋から一刻も早く救い出そうとする姿に、もしかすると何か事情を知っているのかもしれないと思った。お辞儀をして立ち去ろうとするその背に声をかける。
「私もかくれんぼをしていたんだ。できればクレア院長に私がこの部屋へ入ったことは黙っていてくれないだろうか?」
警戒する子供たちに優しくゆっくりと語りかける。
「あんたは……この部屋を〝使い〟に来たんじゃないのか? 院長の味方じゃないのか?」
拳を握って勇気を振り絞りアランに問う少年に、誤魔化さず正直に答えた。
「私は違うよ。ここで姿を消した少女達を探しに来たんだ。何か知っているなら、教えてほしい」
少年は驚いた顔をし、それから口を開きかけ、しかし迷いの末口を閉ざした。
「貴族は……信用出来ない」
「わかった。それなら下に警備隊の男がいる。彼に知っていることを話してくれ。絶対君を守ってくれるから」
少年はアランをじっと見た後、ぐっと拳を握って返事は返さずに部屋を出ていった。
「……」
『貴族は信用できない』その言葉に胸が痛む。子供たちが、少年が何を知って見て来たか、アランを信用できない気持ちは痛いほど理解できた。
「あのね」
「!」
アンという少女がアランの元に戻って来て、「ジャンは乱暴だけど悪い子じゃないよ」と教えてくれた。
「うん。君を守るナイトだね」
目線を合わせ、頭を撫でるとアンは嬉しそうに顔を綻ばせ、駆けていく。
カツン、という何かが床に落ちる音がして、アンが落としたものを拾って慌てて呼び止めた。
「君、落ちたよ――」
アランの手には少女の持ち物にしては随分と高価な緑色の石。
「ありがとう。これ、中庭で拾ったの。奇麗でしょう?」
「アン! 早く来い!」
返事を返す少女の腕を掴んでアランは問いかけた。
「これを、どこで拾ったの!?」
強い口調のアランに急に腕を掴まれ、驚いたアンはジャンを不安そうに振り仰いだ。
「何するんだよ!」
二人の間に割り込んでその背にアンを庇いながらジャンが非難した。
「驚かせてごめんね。でも大事な事なんだ。これを、どこで拾ったのか教えてほしい」
手の中の緑の石を見せると答えはアンからではなく、ジャンから得られた。
「俺が拾った。中庭の、踏みつけ丘に俺、悪戯で落とし穴作ろうと思って掘ったんだ。途中で綺麗な石拾ったからあきらめたけど。それでアンにあげた」
「踏みつけ丘とは、さっき皆が歌いながら足踏みしていた丘?」
「そう。院長がよくあの丘を踏むといいことがあるって俺らに言ってやらせるんだ」
手の中の緑の石をみてぞくりと悪寒がした。
「……アン、この石を僕に譲ってくれる? ジャン、アンを連れて今すぐ警備隊のお兄さんの元へ行って。それで、軍を連れて来いと伝えてくれ」
「な、なんで――」
『軍』という物々しい馴染みのない言葉とアランの真剣な表情にジャンは戸惑う。
「行方不明の仲間を、見つけてあげよう。きちんと、眠らせてあげよう」
「!」
「ジャン?」
ジャンの目にはじわじわと涙が溜まっていき、アンが心配そうにその腕を引っ張る。
おそらくジャンは知っている。行方不明になった少女たちが、もうこの世にはいないということを――。知っていて、大切な人を、身を守るために黙っている。それしかこの子達には選択肢がなかった。それは罪ではないと、涙を堪える少年の頭を撫でて顔を上げさせた。
「こんな悲しい事は終わらせよう。君の助けが必要なんだ」
目を擦り、ジャンは今度こそはっきりとアランと目を合わせて頷いた。そして何もわからないアンの手を引いて階段を駆け下りていった。
アランは掌に緑の石を握りしめ、外で待機する従者に途中で買ったお菓子を持ってくるよう指示を出す。それから急いで中庭へと向かった。
中庭ではまだ子供たちが楽しそうに遊んでいて、踏みつけ丘にはたくさんの子供が土を踏み均していた。
怒りを抑え込みながら、平静を装って子供達に声をかけた。
「こんにちは、皆さん。私はアラン=ブライトンと申します。ローチェスタークラブから皆さんに、お菓子のプレゼントがあります。皆、食堂へ集まってくれるかい?」
〝お菓子〟という魅力的な言葉に、子供たちは脇目もふらず、我先にと食堂へ走って行った。
「ブライトン様!? これは一体……。おやつの時間は別に設けておりますので、規律を破られては困ります!」
近づいてくる院長に後ずさりしそうになる足を止める。こんな所で女性を怖がってはいけないと、自分に言い聞かせた。
アランは不愉快を隠すことなく院長に睨んで言った。
「規律を守るとは……人の道を外した不道徳者の言葉とは笑わせる」
「は?」
予想外の返答に院長は面食らって固まった。そのむせ返るような香水の香りが更にアランを苛立たせる。
「本来子供たちの母親代わりとなるあなたが、子供達にしてきた仕打ち。私は見過ごすことは出来ない」
明らかなアランの態度の急変に、院長は戸惑いながらも背筋を伸ばし、対峙した。
「何を――。……いいえ、分かりましたわ。誤解があるようですから、こちらでお話を伺いましょう」
アランの様子に周囲の職員たちも何事かと様子を見に集まって来ていた。院長とアランは場所を変え、初めに通された応接室へと向かった。
「ブライトン様、いくらあなた様が侯爵家の方でも、あのような侮辱は看過できませんわ」
院長は紅茶を用意する余裕を見せながら、アランに語りかけた。
「侮辱かどうかは、真実が明らかになれば分かる事でしょう」
「……」
院長は俯いて薄く笑んだ。紅茶が机に置かれる音を合図に、アランの攻撃が開始した。
「あなたのその豪華な宝飾品、そのイヤリングはエメラルドですか? 寄付金で賄う孤児院経営にしては贅沢すぎますね」
「ほほ。先日も警備隊の方に言われましたわ。ですがこれは、院のお金で買ったものではありません。私にもお金持ちの恋人がおります。その方からのプレゼントで、個人的なものです」
もっともらしい言い訳はあらかじめ用意されていたかのように雄弁である。さすがに簡単に尻尾を見せるような単純な女ではないようだ。
「では、不明孤児について伺っても?」
「不明孤児ですか? ああ、お恥ずかしい話ですが、ここでの暮らしが合わない子供達も中にはおります。その子らは、勝手に院を飛び出してしまいますので、私もその後を把握できないのです。こんな話はうちだけではなくて、どこの孤児院にもある話です」
「そうですか。だが不明孤児でも、あなたの孤児院では他所と違う点がありますよね。孤児のほとんどを貴族の元へと奉公に出している。一般家庭に里親として引き取られていく子供は他所でも多くいますが、あなたの所は随分と貴族と縁があるみたいだ」
「ええ……まあ……」
「〝マリア〟という孤児をご存知ですか?」
「……」
「マリアはこの孤児院出身でした。ある日、伯爵家に使用人として雇われるため、院を旅立っていったと聞きます。しかし、私がその伯爵家を訪ねましたが、マリアという少女も、孤児を雇ったという事実も一切なかった。これはどういうことでしょう」
「さあ……。伯爵様にお引き渡してからの事は一切存じません」
「これはマリアの持っていた本です。背表紙にはモリソン=ニーベルグ伯のサイン。そして中には血の跡」
「……」
「ベッドのある部屋、と呼ばれているチェストの裏の壁にも、同じような飛び散った血の跡がありました」
「あなた! 勝手にあそこに入ったの!?」
「あの部屋には支援者の男と、少女が二人きりで入るそうですね。大人の男といたいけな少女。それをベッドが置いてある部屋に一緒にするとは……反吐が出る」
「……それをわかって子供たちが求めることもあるわ!」
「真っ当な大人なら、判断を誤る子供に正しい事を教えて止めるべきでしょう!」
アランは思わず声を荒げる。
「……それで? 売春まがいの事をさせた私を捕らえると?」
クレアは開き直って腕を組み、アランを見下すように睨んだ。
「マリアはどこだ」
「さあ。知らないわ」
「マリアを殺したな」
「ほほほ! 馬鹿な事を! どこに証拠があるというの! 血の跡? そんなもので殺した事にはならない。それとも、死体でも上がったというの?」
「……」
言葉が続かないアランに院長は勝ち誇った顔を向けた。
「今掘り起こしている」
「レオン!」
そこへ息を切らしたレオンが登場し、アランはなんとか時間稼ぎに間に合ったと安堵する。
「あなた――」
顔面蒼白のクレア院長はレオンの登場に動揺し、立ち上がる。
「院長!軍の方々が、勝手に庭を――!」
「何ですって!」
職員の知らせに院長は慌てて部屋を出ようとするが、それより先に軍人の一人が報告に駆けてきた。
「中庭の丘から遺体を数体発見しました!」
「うそよ!」
軍人にかみつく院長を抑え、アランは身を乗り出して問うた。
「それで、探していたものは見つかったかい?」
アランの問いに、軍人は部屋へと入室し、ハンカチに包まれた土のついた意匠のイヤリングを差し出した。
「遺体の側で発見されたイヤリング……。おや? あなたの片方だけのイヤリングに似ていますね」
「……」
レオンの芝居がかった問いに立ち尽くすクレア院長。アランはもう片方の手で緑の石を見せた。
「これは、子供たちが踏みつけ丘で見つけた石です。おそらくエメラルドでしょう、このように、宝石が意匠にぴったりと合う」
クレア院長は真っすぐ前を向き、アランの手の上に乗るエメラルドとまだ土のついたイヤリングを見ようとはしなかった。
「孤児が持っているには豪華すぎる。あなたが殺す直前に、少女がイヤリングを掴んでいたことに気付かなかったのでしょう」
そこで初めて視線を落とし、こめかみに手を当てて目を瞑った。
「……違うわ」
「違わない。あなたの言う通り、証拠も遺体も見つかっている。遺体はこの孤児院で、証拠のイヤリングはあなたの持ち物と遺体から。もう言い逃れは出来ない」
「……」
院長はソファに崩れ落ち、観念したかのように語りだした。
「……私は殺していないわ。彼女たちを手にかけたのは、モリソン=ニーベルグ伯爵よ。彼は猟奇的な性的嗜好の持ち主で、よく行き過ぎて子供を手にかけてしまうの」
「最低だな」
レオンが吐き捨てる様に呟いた。
「私はその後始末を任されていただけ……。遺体を埋めて、子供たちに土を踏み均させ、部屋を片付けた。イヤリングは私ではなく、伯爵からプレゼントされたマリアが付けていたもの。彼女の遺体を埋め、部屋を片付けていた時にこのイヤリングを見つけた。高価なものだったから、つい身につけてしまった。馬鹿ね……」
項垂れるクレアにアランは怒りを覚える。
「あなたが後悔するところはそこではないでしょう。本来子供を守るべき立場の人間が、加害者である犯人を庇い、罪に加担した。そして仲間の身を案じる何も知らない子供たちに、遺体を踏みつけさせ、両者を傷つけ死者を冒涜した。あなたは、その死を隠すことで少女たちを二度殺したんだ。その罪は殺人同様重く、決して許されることではない!」
アランの断罪に観念したのか、クレア院長はもう一言も発することはなかった。
院の職員に子供たちには動揺がないようこの件は伏せるよう頼み、クレア院長は警備隊に捕らえられた。
「ニーベルグ伯爵を捕らえよう。院長の証言と証拠が揃っている」
レオンの言葉を耳に受けながら、中庭で掘り起こされる遺体を前に、アランとレオンは疲れ切っていた。
まさかこんな展開になろうとは、朝屋敷を出た時に想像できただろうか。気持ちが追い付かない。しかし急な展開だからこそ迅速に対応しなくてはいけないと己を叱責する。
「伯爵は屋敷にはいないとフレッドが言っていた。行方は私が聞きに行こう」
「そうだな。派手に軍を動かして使用人に感づかれ、伯爵に逃げられても困る。その分君なら違和感なく行方を探れるだろう。軍にはこのまま遺体を掘り起こし、子供たちの安全を確保させる。私は警備隊を連れて、アランと合流しよう」
互いに頷き合い、アランは再びニーベルグ伯爵家に向かった。
「フレッド。伯爵は、父親はどこにいる?」
「やあ、アラン。どうしたの、そんなに急いで……」
先程別れたばかりなのに、再び現れた旧友に驚くフレッドは、説明を求めた。
アランはフレッドに全てを話す事を選んだ。彼ならば、父親の罪を受け入れ協力してくれると思ったからだ。また、同じ貴族の子息として父親の罪を知らずにいるのも酷だと思った。彼にも責任の取り方を選ばせてやりたかった。
「気をしっかり持って聞いてほしい。もう間もなく君の父親が、警備隊に捕まる」
「え」
アランはフレッドに、事の顛末を説明した。
「ニーベルグ伯は何人もの孤児を亡き者にしてきた。私が尋ねたマリアもその一人だ。その罪は重く、許されるものではない。おそらくもう君達家族の元へは戻れないだろう。だから、もし父親と話があるならば一緒に――」
「いいんだ、アラン。あの悪魔に話すことは何もない」
「フレッド?」
フレッドはソファに深く腰かけ、両手を組んで項垂れた。
「父の凶行は知っていた。知っていたのに、僕は今まで口を閉ざしていたんだ」
アランは立ち尽くしたまま、フレッドの告白に愕然とした。
知っていた?
「なぜ……」
「……はじめは信じたくなかったし、世間に知れれば伯爵家が終わってしまうと怖かった。父親が殺人鬼だと認めたくなくて、保身で自分達を守るために沈黙した」
「フレッド……! それで救えた命があったかもしれないんだぞ!」
いつから知っていたのかは分からない。だがもしフレッドが告白していたのなら、無駄に死なずに済んだ子供もいたはずだ。
「分かっている! 僕の罪は十分わかっているよ。許しを請うつもりはない」
「……」
「アラン、父は今ウィンザーパークの狩り場にいる。できれば急いで捕まえに行ってくれないか」
アランは拳を握って怒りを抑えた。そしてフレッドの様子を窺って少し躊躇したが、「一人になりたい」と言われると踵を返し部屋を後にした。
「……ありがとう」
アランに最後の言葉は聞き取れなかっただろう、もし聞こえていたならば、フレッドを一人にはしなかったかもしれない。彼は怒りの中にあっても自分を心配する素振りを見せていた。昔から、正義感のある優しい男だった。
一人になり、背もたれに深く腰掛け、目を閉じて数日前に自分に声をかけてきた少女の事を思い出した。フレッドの罪を知り、脅迫した少女が現れた時に、自分の未来はある程度予測できた。
「君の望み通りになりそうだ。本当は、このまま殺されてもいいと、思ったんだけどね……」
アランを見ていたら、真っすぐで誠実な彼に捕まった方がいいのかもしれないという気になった。
フレッドは立ち上がり、引き出しを開けて用意しておいた目的の物を大事に握る。
ゆっくりと椅子に座り、暫くは何をするでも考えるでもなく、手の中の拳銃を見つめていた。それからこめかみに押し付け、ゆっくりと目を瞑った。
アランは外で待つレオンと警備隊にフレッドから聞いたニーベルグ伯爵の居場所を伝えた。馬車に乗り込むレオンを手で静止して、他の警備隊に聞こえないよう小声で伝えた。
「レオン、君はここまでだ。後は私に任せてほしい」
レオンには王城に戻るよう伝える。捕らえられた伯爵を断罪するために王太子の力が必要だ。レオンは最後まで残りたいと納得のいかない顔をしつつも、適材適所だというのは彼も分かっているようで、ここからはアランと警備隊に任せて王城へと戻って行った。
アランも急いでウィンザーパークへ向かった。
ニーベルグ伯爵が銃を構え、狩りを楽しんでいるその背にアランは声をかけた。
アランの登場に驚いた鷹はそのまま飛び立ってしまう。振り返ったニーベルグ伯は当然のように不快な顔をし、一緒に狩りを楽しんでいたであろうロックベル伯爵は珍客に驚いた顔をしていた。まさかここでメルディの父親であるロックベル伯爵と会うとは思わず、アランも少し気まずさを感じながら平静を装い二人に挨拶をした。
「それで、私に用とは一体何だね。先ぶれもなくこんな所までやって来て、失礼じゃないか。いくら侯爵家だからといっても、大変礼を欠く行為だ」
アランはニーベルグ伯の怒りを宥めつつ、武器になり得そうな猟銃をまずは引き離そうと考えた。
「用があるのは私ではないのです。実は王太子殿下の使いで参りました」
「殿下の?」
ニーベルグ伯の怒りが嘘のように消えていくのが分かった。アランが王太子と友人だというのは社交界では知れた事なので、疑われることはない。
「殿下の配下の者がお待ちですので、その銃は私が預からせてもらいます」
「ううむ。殿下の火急の御用事ならば仕方あるまい。ロックベル伯、申し訳ないが、ここで失礼しますよ」
「ああ」
ロックベル伯も猟銃を背に担ぎ、陽も暮れそうな時間もあって帰り支度を始めた。
急いで去って行くニーベルグ伯の背を見送りながら、彼がもう二度と狩りを楽しむことはないと思った。
「……お邪魔をしてすみません」
「全くだな。邪魔をされてしまったよ」
言葉とは逆に声には冷たい感じはなく、アランは肩を窄めるだけに留まる。
ロックベル伯爵と並んで歩くアランは沈黙を選び、彼も自分を相手にする気はないようで、とっとと立ち去ってしまった。残されたアランは猟銃をニーベルグの従者に渡し、自分もゆっくりと歩き出す。
証拠も証言もある。後は警備隊と王太子に任せておけばいいだろう。
空は赤く染まりだし、怒涛の一日にやっと呼吸が出来る思いだった。
ふと視線を感じ顔を上げた。こちらを見ていた男は、何も言わず背を向けて去って行く。
「あれは……」
全身を黒で包む格好は遠目でも分かる。ラオネル=クライシス子爵――。
彼も二人と狩りを楽しんでいたのかもしれない。その肩には猟銃が構えられていた。