過去は変えられない
アランが席を外し、玄関にラオネルとルディが二人きりになるとラオネルは屋敷の中へと勝手に入っていった。
次々に部屋の扉を開けて行き、応接室を見つけると、おもむろに長年使われないために駆けられた白い布を外し、ソファに腰かけた。
「……座らないのか?」
部屋の入り口で立ったままのルディに、ぶっきらぼうに声をかける。
初めて会った時、怯えていたルディにラオネルは同じ言葉をかけた。
テーブルには紅茶もお菓子もないけれど、あの時の記憶が蘇り、不思議な感覚に陥る。
「話があるんだろう?」
「……」
ルディは中に入ると、椅子には掛けずテーブルを挟み立ったままでラオネルに対峙した。
「まさかお前達に裏切られるとはな……」
そう呟くラオネルは、遠くを見つめていた。
伯爵は最後の最後で復讐を諦め、ルディは最初からラオネルの復讐を止めたかった。
「お前だけは……分かってくれると思っていたのに……」
珍しいラオネルの弱気な発言に、ルディの心が揺れる。
それでも、やるべきこと、やらなければならないことがあると顔を上げた。
「リックたちは捕まった。これでラオネルの復讐は果たされたんだよ」
これで終わりだというルディの言葉に、ラオネルは攻撃的な危うさを瞳に浮かべ鼻で笑った。
「まだだ。まだ、あいつが残っている」
やはり、ラオネルの復讐はまだ終わっていなかった。
ルディは拳を握って訴えた。
「伯爵を殺すのはやめて! 伯爵は初めから私の存在を知らなかった! お母さんは、伯爵に黙って私を産んだ。そう教えてくれたのはラオネルだよ」
「だからなんだ」
「お母さんが死んだのはメルを誘拐した奴らのせいだし、拷問した軍のせいだし、お母さん自身のせいでもある!」
「なんだと!?」
「それから私のせいだし、ラオネルのせいでもある」
「!」
――もし、あの時私が孤児院を飛び出していなかったら
――もし、あの時俺がルディを引き留めていたら
言葉にしなくとも、そんな後悔が私達の中にずっとある。
「だけど伯爵は違うでしょう? お母さんが死んだのは伯爵のせいじゃない」
「……違う」
「私を産んだのだって隠したのだって、全部お母さんの意思だった。お母さんは伯爵を愛し、伯爵家を愛していたから陰ながら支えることをお母さん自身が自分で決めたの」
「違う!」
「違わない! ラオネルだって分かってるくせに!」
「ディアは、姉さんはあいつと出会ったせいで人生が狂った! ずっと父や母から辛い仕打ちを受け耐えてきた。俺が爵位を継いだらそんな生活から救ってやるはずだった!」
だけどその前に伯爵に恋をし、辛い日々から救われた。
ラオネルは何度もディアンヌに伝えた。
伯爵にはすでに家同士が決めた婚約者がいて、結婚は出来ない。このまま側に仕えても辛くなるだけだと。
「一度の過ちで子供を身籠って、日陰の様な暮らしを強いられ、挙句の果てに正妻の子供を拐した犯人に仕立て上げられ拷問の末に自殺した? ふざけるな!! 姉さんの苦しみを、母親の死をお前は許せるのか!?」
「許せないよ。お母さんやメルの日常を奪ったあいつらは、同じ目に合わせてやりたいほど憎んでいるし一生許せるわけがない。でも、伯爵は違う……!」
「まだ言うか! あいつに出会ったせいで姉さんは――」
「過ちで私を産んだ!」
「!」
「私は生まれてくるべきじゃなかった。誰からも望まれず、愛されず、捨てられ、皆を不幸にした!」
ラオネルは黒曜石の瞳を大きく開き、言葉を失った。
「ラオネルがそう言ったんだよ! 私は過ちの子供だ! 憎むなら、私を憎みなよ! 私を殺せばいい!」
言い返す代わりに『ばん!』とテーブルを叩き、ラオネルは立ちあがった。
怒り、戸惑い、傷ついているような顔でルディを見ている。
「……伯爵を殺したら、ラオネルも死ぬ気でしょう?」
「……」
その沈黙が肯定を示す。
私にはこの人を救えない。
どんなに願っても、私の声はこの人には届かないんだ。
「目を閉じて」
「……?」
「お願い、目を閉じて」
だからお母さん、私に力を貸して?
「『もういいの、ラオネル』」
この声で、ラオネルを救ってあげて。
「『過去を憎めば今を否定することになる。もう過去に捕らわれないで、あなたの今を生きてほしいの』」
私もラオネルも、この痛みと後悔を背負って前に進み生きるんだ。
「『あなたはちゃんと私を救ってくれた。私の家族を救ってくれた。今度はあなたが、自分を救い、救われる番よ』」
***
『目を閉じ』
ルディが突然ラオネルにそう言葉をかけた。
訳が分からなかった。分からなかったが、直前のルディの叫びに動揺したラオネルは、戸惑いながらもゆっくりと目を閉じた。
〝生まれてくるべきじゃなかった〟
まさかルディがそんなことを思っていたなんて、ずっと自分を責めていたなんて考えもしなかった。
胸が痛み、動揺したまま目を閉じていた。
すると、不思議なことが起こった。
目の前にディアが立っている。
その姿は、初めて出会った頃の、少女のままの姿だった。
『もういいの、ラオネル』
「!」
自分に語りかける声……。
もちろんディアはもう死んでいて、この声はルディだと分かっている。
だけど、目の前のディアは穏やかな顔でラオネルに微笑んでいた。そして、別れを告げた。
ああ、
俺はディアのそんな笑顔が見たかったんだ。
ゆっくりと目を開ける。
目の前にはルディの姿。それは不思議な感覚だった。
手を伸ばすとルディは肩をびくりと跳ね、不安な顔をしていた。
初めて会った時、イヴァンにそっくりなルディに訝しんだ。
だけどその声は、ラオネルの大切な姉の声だった。
『ラオネルの瞳は宝石みたいに奇麗ね』
『宝石みたい……』
ディアと同じ声で同じことを言うルディに、あの時、思わず手が伸びた。
同じくルディは怯えたように不安な顔をしていた。
「……大きくなったな」
その頭に手を乗せ、子供にするように撫でてやる。
そうか。過去を否定すればお前の存在まで否定することになるのか……。
やっとその事に気付くと、憑き物が落ちたように心が軽くなった。
ルディを否定する?
ならば俺はもう過去を憎めない。
ルディが生まれた時、俺は嬉しかった。
十歳に成長したお前と再会した時、嬉しかった。
行方が分からなくなって屋敷を訪ねてくれた時、嬉しかったんだ。
伯爵家で過ごすルディに会いに行くたび、俺は、嬉しかったんだ……。
「お前が生まれた時、俺は、嬉しかった」
俺は間違っていた。
ディアに代わってこの子を守るべきだた。
ごめんな。
時間はかかってしまったが、これからは俺がこの子を支えていこう。
だからディア、安心してくれ――。
今度こそ、俺は間違えない。
***
ルディは椅子に掛け、何をするでも考えるでもなくぼんやりしていた。
ラオネルは馬でここまで駆けてきたので、帰りはルディのために馬車を向かわせると言っていた。
外にはアランが付けた監視、ではなく護衛がいるので、ラオネルは安心してルディを一人置いていけると考えた。
そんな彼は、憑き物が落ちたように穏やかな表情で去って行った。
ルディのいる部屋の窓からは、橙色の光が差し込み、ぼんやり眺めていたテーブルに影を落としていく。
ラオネルが用意した馬車はもう到着していて、ルディが出てくるのを待ちわびているだろう。
立ち上がり、一歩を踏み出すとその足は実に重く、随分疲れていると気づく。
それだけ今日は色々あった。
ルディが外へ出ると、一台の馬車が玄関前で待っていた。
その側に佇む男性がやっと出てきたルディに振り返る。
「アラン様!?」
馬車はラオネルが用意したものではなかった。侯爵家の馬車の横で、アランが後ろ手に組んで立っていた。
ラオネルと二人きりにしてくれた時から、アランはずっとルディを待っていたのだ。
その姿に昔を思い出し、胸が熱くなる。
それは以前、下町で暮らしていた頃、雪の日にクライシス邸まで送ってもらった時のことだ。
もう帰っていたと思っていたのに、あの時もアランは優しい笑顔でルディを待っていてくれた。
「前にもこうして君を待っていたね」
「!」
「ごめんね。あの時は小さなタブロスが女の子だなんて気付かなかったんだ」
笑顔を崩して謝るアランに、ルディは切ない愛おしさが胸に詰まる。
「アラン様……」
「うん?」
「少しだけ……背中を借りてもいいですか?」
「ああ、もちろんだよ」
組手を外し、振り返った背中にルディは手を添え、額をつけた。
安心するその背で、少しだけ泣いた。




