罪は許してはくれない
ルディことメルディは、誘拐から四年後の十七歳に、遅い社交界デビューを華々しく果たした。
王都の屋敷で令嬢教育を受け、なんとかダンス以外は形になったと安堵していたメルディ。
しかし貴族から見ると及第点でしかなく、メルディの所作に眉を寄せる者も多かった。
メルディに対して儚いイメージを持つ人も多く、声を立てて笑っただけで驚かれ、怪訝な顔を向けられた。
周りから見れば、数奇な運命に翻弄された悲劇の主人公に映るのだろう。あながち間違いではないが。
「お前のどこが主人公だよ」
夜会の合間に休憩していると、隣にやって来たラオネルが軽口を叩くので睨んで黙らせた。
ラオネルは父と共同で事業を手掛けているので、顔を合わせることも多く、その度にメルディにちょっかいをかけてくるのだ。
『お前……何を考えている』
ラオネルは、メルディが伯爵家に入り込んだことを不審に思っていた。
メルディは二人の動向を探る必要があった。ここで下手に嘘をついても誤魔化しきれないだろう。
『私、知ってしまったの。あなたの目的を。私だって妹と母を死に追いやった犯人を許せないわ。だから伯爵家の令嬢という身近な場所で、あなたの復讐を見届けたいの。だけど伯爵には言わないで。私はあの男を信用していないから』
真実に嘘を織り混ぜる。
ラオネルの疑うような黒曜石の瞳から目を逸らさずにいると、彼は納得したのか、薄く微笑んで頷いた。
「ラオネルと一緒だったな」
「ええ。あの人死神みたいだからダンスの魔除けになるのよね」
帰りの馬車でぐったりするメルディに、父が訊ねた。
「初めての夜会はどうだった?」
「目がちかちかして疲れた」
素直に感想を伝えると、父は「フッ」と俯いて笑った。
珍しいものをみるようにその顔を覗こうとしたが、顔を上げたらもう真顔になって、そのまま黙ってしまった。
元々寡黙な方なのかもしれない。父は普段からメルディと無駄話を一切しない。
それでも、一年も一緒にいれば側にいる時間も増え、この沈黙が苦にはならなくなっていた。
むしろ、心地いいとさえ感じる。
慣れない貴族社会の中で、父の側にいれば守られている安心感は確かに感じていた。
「お母様、もう寝たかしら……」
「お前の初めての夜会だ。きっと起きて帰りを待っているだろう」
そうだったなら、今日の出来事をたくさん話そう。
母は外へ出かけない分、メルディの話をいつも楽しそうに聞いてくれるから。
メルディも揺られる馬車の中で、眠気と闘いながら窓の外を眺めた。
メルディは父が出かけると、屋敷の者たちの目を盗み私室に忍び込んだ。
伯爵に何か変わった動きはないか。仕事関係の書類や報告書、私物まで調べ上げる。
それから父と参加する夜会や晩餐会の招待客リストに目を通して見比べた。
ひとつ、気になる点を見つける。
どのパーティーにも、必ずニーベルグ伯が参加していた。
モリソン=ニーベルグ。
ラオネルと父は頻繁に、ニーベルグ伯に接触していた。
「やっぱりメルを手にかけたのはあの鬼畜なのかしら?」
こんな悲しい偶然があるのだろうか。
メルディの中に過去の苦い記憶が蘇る。
マリアを亡き者にした男。あの男の凶暴性ならば、メルをも手にかけていたとしても頷ける。
今思えば、マリア以外にも同胞が命を奪われた可能性も捨てきれない。
怒りで書類がシワになってしまったのを慌てて伸ばす。
「だけどニーベルグが復讐の相手なら、メルの事件を明かさずに捕らえることも出来る」
ニーベルグ伯が犯人ならば、メルディが二人よりも先に別件で、つまりマリアと不明孤児の件で捕らえてしまえばいい。
牢獄に入った男を殺すことはできないのだから。
だが相手は貴族。メルディ一人の力で事を成すのは難しい。
もっと、強い権力を持った者が調べ上げれば、あるいは――。
「メルディ?」
扉が開く音と共に振り返る。
そこに佇んでいたのが母だったことに胸を撫で下ろした。
「あなたの姿が見えないから探していたのよ」
「ごめんなさい。今日は一緒にアクセサリーを選ぶ日よね。いま戻るわ」
母と部屋を出ると執事がやって来て、レントン商会の者が到着したと知らせを受けた。
応接室に向かうと、商人が目の前に煌びやかな宝石やアクセサリーを並べた。
「これが気に入ったわ」
選ぶまでもない、メルディが買うものは決まっていた。
腕に飾り付けるブレスレットを手にする。
細やかな宝石が散りばめられた中心で輝くブラックオパールをじっと見つめた。
「お嬢様はお目が高くていらっしゃる。こちらは最近流行のデザインを、長くお使いできるようレントンがアレンジした品でございます。お嬢様の白い肌にぴったりでございますね」
食い入るように宝石を見るメルディ。宝石の美しさに見惚れていると商人は勘違いをしたのだろう。
しかしメルディは全く別のことを考えていた。
これが偽物なんてねえ……。
このブレスレットは、ラオネルの協力を得て偽物をレントンに紛れ込ませたものだった。
彼のいくつかある事業の一つに、王家から国宝のイミテーションを請け負う職人がいた。
これは、あらかじめその職人に精巧に作らせたものだった。
まぁ本物の宝石だとしても孤児の私には見分けがつかないのだけど。
「メルディ、気に入ったの?」
食い入るように見続けるメルディに、母が声をかける。
本物そっくりの偽物……。まるで自分のようね。
「ええ。とても気に入りましたわ」
そのまま腕に馴染んだブレスレットを付けて、後はどうでもいいアクセサリーを何点か選び、買い物を終えた。
メルディが復讐を食い止めるためには、協力者が必要だった。
直接警備隊や軍に頼ればすぐに解決できることではあったが、それだけは死んでも出来ない理由が、メルディにはあった。
軍や警備隊に駆け込めば、まずメルが既に死んでいることを説明しなければならない。
メルの死が公になれば、メルに起こった悲劇も白日の下に晒される。
『伯爵家の令嬢として生きた矜持が私にはある』
彼女が死んでも守りたかった矜持。
それが公になってメルの名に傷がつくことだけは、どんなことがあっても避けねばならないと決めていた。
それに、復讐が未遂に終わったとしても、父やラオネルの醜聞になってしまうだろう。
だから、誰にも知られることなく、あの二人を止めなければならなかった。
一人で彼らの復讐を諦めさせなければいけない。
そう、復讐を果たす前に犯人らには正当な理由で罰を与えるのだ。
そうすれば彼らは復讐を果たせず、尚且つ犯人達は報いを受ける。そして、絶対にメルの矜持を守り抜く。
それがメルディのやるべきこと。
だからメルディは、王太子とレオンに匿名で封書を送ることにした。
果たして彼らは、メルディの求める様に動いてくれるだろうか……。
社交シーズンが始まったことで、父とラオネルの計画は加速していった。
二人は頻繁に会い、裏ルートで猟銃の購入まで済ませた。
だから焦ったメルディが、彼らに接触したのは苦渋の策だった。
フレッド=ニーベルグとキース=レントン。
パーティーで彼らがメルディに異様に怯え、避けているのは気付いていた。
メルディは、メルを誘拐した犯人ならば、例え記憶を失っているといっても何らかの行動を起こすだろうと思っていた。
だから、社交界に出た瞬間から周囲に目を配った。
ところが、見当を付けていたニーベルグ伯と協力関係にあった可能性の高いレントンは、メルディが直接挨拶したにも関わらず顔色を変えなかった。
その近くで、異常に反応を示したのは息子たちの方だ。
もしかしたら、犯人は息子の方?
いいや、マリアを殺したのはたしかにモリソン=ニーベルグで、メルを乗せていた馬車はレイトン商会のものだった。
メルは平民の格好をさせられていた。
レントンに売られる前からその身分を隠されていたのなら、ニーベルグ伯とレントンは自分達がメルディ誘拐事件に関わっている自覚がないのではないか?
ならば息子たちは?
そうだ。あの日、メルが荷馬車から落ちたあの日、一体誰がメルを連れ出したのだろう。
それこそ父親たちの犯行をもみ消そうとした息子達ではないのか。
「……」
メルディはかまをかけることにした。
案の定、呼び出された二人は青ざめ、当事者しか知り得ない火傷の痕にまで口を滑らせた。
メルディはこの二人を脅す振りをして、目的のために利用することにした。
やましいことがある彼らなら、メルディの身に起こった悲劇を公にはしないだろう。
「ニーベルグとレントンには然るべき罰を受けてもらう。だけど、それは復讐という形ではいけない。父親たちの行動には気を付けて」
夜会の会場を見回すと、キースとフレッドは戻っていなかった。
もしかしたらもう、帰ってしまったのかもしれない。メルディの話に怯え、震えていたから。
フレッドは父親が殺されても仕方がないと叫んだ。
その苦痛の叫びを聞いて、彼らはメルをニーベルグ伯の元から救い出すために連れ出したのだと知った。
彼らが怯えていたのは、父親たちのせいで家にまで被害が及ぶのを恐れたからだろうか。
そこに保身もあっただろうが、それだけではないようにも思えた。
ある意味で彼らもまた、父親達に翻弄された可哀そうな人達だ。そうだというのに、メルディはそれをも利用した。
「メルディ様? どうかなさいまして?」
「いえ……」
夜会の最中だというのに上の空になってしまったメルディ。慌てて笑顔を取り繕った。
「……?」
顔を上げると、不思議な現象が目に入った。
先程から会場中の令嬢たちが同じ方向を向いているのだ。
視線の先を追いかけると、視線は一人の青年に集まっている。
ライトブラウンの艶のある髪に長身のすらりとした体形。後ろ姿だけで特別な空気を纏う青年に、周囲が遠巻きに様子を窺っているのが分かる。
王子、とか? そんなわけないか。
青年が振り返り、顔が見えると、その透明な茶色の瞳に吸い込まれるように目が離せなくなった。
それは、決して他の令嬢と同じように、彼の整った容姿に惹かれたからではない。
「ブライトン侯爵家のアラン様よ」
「……アラン様」
アラン。
ああ、あの人だ。
忘れもしない。メルディを救ってくれた恩人に再び会えた喜びが、一気に胸の中に広がる。
アランはメルディの事を覚えてはいなかった。
それもそのはず、あんなみすぼらしい姿の子供が令嬢として目の前に再び現れたのだ。気付くはずがない。
それに、当時アランはメルディを男の子と勘違いしていた。
女嫌いだというアラン。あの時、メルディを男の子だと勘違いしたから助けてくれたのだろうか。
いいや、彼が優しく正義感のある人なのは疑いようがない。
今だって、メルディがリックから無体な事をされるだろうと勘違いして駆け付けてくれた。
変わらない。
アランに会えた喜びで、メルディはつい令嬢らしからぬ行動をとってしまった。
それだけ、メルディは浮かれていたのだ。
だけどアランはそんなメルディを気にする様子もなく、むしろ明るくていいとまで言ってくれた。
うれしかった。
今だけは、何もかもを忘れて本当の自分の姿でこの人と一緒にいたい。
私はあの時助けてもらった孤児だと。あなたに恩があると、感謝を伝えたい。
そんな欲求が、メルディの中に生まれる。
しかしメルディはわかっていた。
素性を明かした瞬間に、アランとの関係が終わってしまうということを。
孤児のままだったなら、二度と会うことのないお方に、再び出会えたのは令嬢メルディの姿だから。
もっと、もう少しだけ……。
アランとの繋がりを持っていたかった。
だから以前父から聞いた前ブライトン侯爵の話を持ち出した。
アランと少しでも長く話していたいがために、名付け親の話を引き合いに出した。
自分がこんなにずる賢い人間だとは思わなかった。
だが、墓参りをしたいと提案するメルディに、アランは一瞬困った表情を見せた。
その時に芽生えた気持ちは、恐怖だった。
自分の中で膨らむ好意を、否定される恐怖。
それはメルディが、彼女の生い立ちの中で無意識に植え付けられたものだった。
勿論アランが困った顔をした理由は、メルディには関係のないものだ。
だが一度芽生えた気持ちは簡単に拭い去れない。
咄嗟に確信した想いがある。
私は、この人にだけは嫌われたくない。
アランに掴んでもらったあの手を、もし振り払われたら……、想像するだけで怖くて仕方がないのだ。
前侯爵の墓地は、領地まで足を運ばなければいけない事実に、メルディは目を覚ました。
ここで引くべきだと己を律する。
「あ、あの!」
去ろうとするメルディを呼び止めた、アランだった。
そこに再び期待が膨らんでしまうのは、抑えようのない感情だった。
彼の提案は、メルディの望んだものだった。
ミサでまた会える。アランと一緒にいられる。
喜ばしいはずなのに、同時にメルディは気付いてしまった。
ああ、
そうか。
彼は、私を調べるために近づいたのか。
メルディが出した封書は、きちんと王太子に届いていた。
王太子と親しいアランが、捜査のためにメルディに近づいたのだ。
彼はメルディの素性を調べるよう、命じられたのだろう。以前も新興宗教を調べていたのだから。
「……」
メルディの目的は復讐を止めることだ。
それならば、アランを利用すればいい。
彼らの姉達は社交界でも顔が広い。この偽物のブレスレットに気付いてくれるかもしれない。
メルディは、自分の気持ちに蓋をした。
「どこに行ってた。あまり一人でうろつくな」
アランと別れ、会場に戻る途中、ラオネルに声を掛けられた。
「リックが飽きて帰って行ったぞ……どうした? 泣きそうな顔して」
そんな顔をしているのかと頬に手を添えて自嘲する。
今度こそ笑顔を張り付けて、令嬢メルディの姿で会場に戻って行った。
教会で四華と呼ばれるアランの姉達に会った。
彼女達の牽制に思わず微笑んでしまう。
アランはお姉様方に愛されているようだ。
メルディははっきりとアランとの関係を否定した。
四華の一人が、『偽物も区別できない方は侯爵家にはふさわしくない』と言った。
さすがというか、誰も気づかなかった偽物のブレスレットに気付いてもらえたことに、内心安堵し喜んだ。
きっかけはもらえた。これでレントンの信頼を地に落としてやる。
遂に復讐の決行日が近づいていた。
父がモリソン=ニーベルグと狩りに出かける予定を立てていた。
早くアランをロースリ孤児院に向かわせなければ。
マリアとニーベルグを繋いでやれば、アランならマリアの居所を突き止めるために動いてくれるだろう。
そうでなくても、彼なら何か違和感を覚えてニーベルグを調べてくれるかもしれない。
そんな期待も込めて、ずっと持ち続けていたマリアの本をアランに託すことにした。
だからメルディはアランと二人きりになる機会を窺っていた。
その機会は存外直ぐにやってくる。
ブライトン侯爵夫妻はアランとメルディの関係を勘違いしている節があった。
最近になって急に接点が増えたからだろう。その理由は、一方は疑いをかけ、一方は利用しようという色恋沙汰とは程遠い、むしろ気分のいいものではないものなのだが。
「ピクニック、したいです」
それなのに、頭とは裏腹にアランとの時間を満喫しようとするメルディがいる。
疑う相手なのに、親切にするアランがいる。
「おいしい」
太陽の下でマナーも忘れてアランと共にサンドイッチを頬張る。
こんなに楽しいのは久々で、思わず目的を忘れてしまう所だった。
「実はアラン様にお願いがございまして……」
どうもアランと一緒にいると気が緩んでしまう。
彼を欺くため、元気な令嬢メルディを演じるのはいい。問題は、演技ではなく心から楽しんでしまっているということだ。
マリアの本をわざと落とし、中の血痕に気付かせる。
「……」
メルディはこうやってマリアの死さえも利用する。
少しずつ、空から降る雪のように、メルディの中に罪悪感が降り積もる。
それに気づかないふりをして、メルディは平然とまた誰かを利用し、嘘をつくのだ。
父がニーベルグ伯と狩りに出かける日が決まった。
二人きりの時にラオネルに聞くと、彼も同行するそうだ。
そこで猟銃の暴発事故に見せかけて、ニーベルグ伯を殺すという。
「あいつが最初のターゲットだ」
嬉々として告げるラオネルに心が痛む。
「最初ってことは、犯人はまだいるの?」
「……お前は知らなくていい。見守るだけでいいんだ」
「……わかった。失敗、しないでよ……」
ラオネルには応援している風を装っていたが、内心では焦っていた。
ニーベルグ伯はまだ捕まっていない。
このままでは復讐が成されてしまう。復讐が成功すれれば父とラオネルの死も近づく。
フレッドにも情報を伝え、父親を外出させないよう手紙を出そう。
メルディも当日は父が外出しないよう阻止しなければ。だがそれだけでは一時凌ぎに過ぎない。
父とラオネルに手を出させないためには、やはりニーベルグ伯を先に捕えなければならないのだ。
レオンは動いてくれるだろうか。
アランは間に合うだろうかーー。
しかし、ニーベルグ伯逮捕の知らせはなく、決行の日がやって来た。
メルディは風邪を引いたと嘯いて父を屋敷に留めることにした。
「お父様、今日はずっとここにいてね」
咳き込みながら自室で父に甘えた振りをした。
「あらあら、子供みたいなことを言って」
「風邪で不安になっているのだろう」
医師の診断でただの風邪だと分かると両親は安堵し、メルディを宥めた。
ただの風邪どころか元気そのものなのだが、屋敷に父を留めておかなければいけないので仮病を使う。
「すぐ……ニーベル……変更を……ラオネルに……」
父が廊下で執事に命じている。
所々聞こえてきた言葉に、ほっと胸を撫で下ろした。
「さあ、メルディ。目を瞑ってゆっくり休んでちょうだい」
母に促され、目を瞑ると本当に眠くなってきた。
ここ最近緊張と不安で中々寝付けなかった。
それでも、母の手前目を瞑っただけで、本気で眠るつもりはなかった。
しかし気の緩んだメルディは、母の子守唄を聞いてそのまま眠ってしまった。
メルディが目覚めると、母が隣で編み物をしていた。
「お父様は?」
「あらメルディ起きたのね。熱はないけれど、体の調子はどう?」
母の問いに目を擦りながら大丈夫だと答える。それからもう一度父の様子を訊ねた。
「お父様はお出かけよ」
「え?」
「予定を午後に変更してもらったそうよ。あなたも眠っていたからそのままお出かけになられたわ」
そんな……。
それならば父は、ラオネルは、予定通り猟に出かけてしまったのか。
父が外出してもう二時間は経つという。
未だ戻らないということは、ニーベルグ伯も予定通り狩場に到着したのだろう。
フレッドも妨害に失敗したの?
ニーベルグ伯はまだ逮捕されていないの?
今から急いで駆け付けて間に合う?
いいえ、あからさまに動いてはメルディの目的に気付かれてしまう。
どの道今から急いでも間に合わないだろう。
「メルディ?」
メルディは呆然とし、ふらりと自室を出て行った。
屋敷の庭でブランケットに包まり、膝を抱えて椅子に座る。
母や使用人が何度も部屋に戻るよう促すが聞き入れなかった。
夕日がゆっくりと隠れ、橙から紺に絵の具で塗りつぶされていく。
夜は嫌いだ。心が弱くなり心細くなる。
不安で震える体を抱える様に自身を抱きしめる。
どうか……。
無力な自分が都合よく願い、頼むのは決して神などという曖昧な存在ではない。
お願い……間に合って……!
「お嬢様。旦那様がお帰りです」
メルディはブランケットを放り投げ、急いで玄関へと走った。
「おかえりなさい!」
メルディの出迎えに、ロックベル伯爵は微笑んで「ああ」答えた。
「帰り、遅かったですね。……何かあった?」
疲れた様子の父に、心配気に声をかける。
「狩りの途中でブライトンの息子が殿下の使いでやって来た。ニーベルグを連れて行ったが、慌ただしく何かあったのだろう」
「……そう」
安堵の息と共に緊張で強張った体の力が抜けて行く。
ニーベルグ伯は、アランに連行された。
ああ、
アランが間に合った。
父は、ラオネルは、その手を汚すことなく帰って来てくれた。
この喜びも、感謝の想いもアランに伝えることは出来ない。
出来ずともメルディは、何度も心の中でアランに礼を言う。
そして数日後、ニーベルグ伯爵の逮捕の知らせは瞬く間に世間を震撼させていった。
それと同じタイミングで、アランからの手紙が届く。
急いで部屋へと籠り机の上で手紙を開いた。
そこには、順を追って事の顛末がしたためられ、マリアの遺体が発見させたことが書かれていた。
胸が締め付けられたのは、悲しいからでも、恐怖からでもない。
うれしかった。
アランはマリアを見つけてくれた。彼女の死を、やっとあったことにしてもらえたのだ。
事の詳細が書かれた手紙に、メルディは知らずに頬を濡らしていた。
アランに対する言葉には出来ない想いは、どんどんと膨らんでいった。
メルディは、アランの姉であるルルリエが嫁いだリベロン邸で、ガーデンパーティに参加していた。
大好きなアマリアの花が咲き乱れる美しい庭園と聞いて楽しみにしていたのに、付き添いのリックが一緒に参加したことで気分は最悪だった。
距離感が近いリックは、メルディにぶつかりそうなほど近寄ってくる。
会話も内容など無いくせに、わざわざ耳元で囁こうとする、その気持ち悪さに鳥肌が立つ。
一番厄介なのは、周囲に対して自分がメルディのナイトだと吹聴していること。
仲の良さをアピールしようとするあざとさも、周囲の不快な表情に気付かぬ空気の読めなさにも、辟易していた。
リックは上機嫌で酒を煽り、挨拶に夢中でメルディが姿を消したことにも気づかない。
メルディはパーティー会場から抜けて、中庭を散策していた。
人気のない場所で息をつく。
やっと心落ち着けたと安堵していると、葉が擦れる音と土を踏む音に誰かが近づいていると警戒を強めた。
「キース?」
キース=レントンは偶然ここに現れたわけではないようだ。
メルディを睨みつける。
「どうやって偽物を紛れ込ませた?」
「……」
「分かってるんだよ。お前が仕向けたんだろう? お前のせいでうちの商会は終わりだ!」
「……」
「これで気が済んだだろう! もう俺達には関わらないでくれ!」
追い詰められ、憔悴したキースの激情がメルディにぶつけられる。
キースが逃げる様に立ち去ったのは、言いたい事を言い終えたからではなく、メルディの背後から新たな人物が登場したからだ。
慌てて立ち去るキースに、ラオネルが毒を吐く。
「あんな爵位なしがどうやって紛れ込んだ」
「……」
ラオネルは会場にメルディの姿が見当たらないので探しに来たらしい。
ラオネルはリベロン家の警備に悪態をついて、メルディの側にやって来た。
メルディはラオネルを避けて去ろうとするが、すぐにその腕を掴まれてしまう。
うまく顔が作れない。こんな表情をラオネルに見せるわけにはいかないのに。
「……大丈夫か?」
背を向けるメルディに、ラオネルの掠れた声がかかる。
「さわるな」
驚いて顔を上げると、アランがこちらを睨んでいた。
「アラン様?」
その苛立った様子にメルディは焦る。
一体何に怒っているのか、こんなアランを見たことはない。
だけどその前に、ラオネルとの関係を誤魔化さなくては。メルディは咄嗟に嘘をついた。
ちくりと胸に針が刺さる音がした。
何度も、何度も嘘をつく度にこの胸に小さな針は増え、抜けることなくメルディの心を痛めつける。
「普通伯爵令嬢が一人で歩くものではないのです」
アランの何気ない言葉がメルディの心を抉る。
アランは直ぐに失言を撤回し謝ってくれた。
それなのに、メルディは子供のように拗ねてアランの謝罪を受け入れなかった。
どうせ私は孤児で下町育ちの卑しい身分だ。
別に間違ったことを言われたわけではない。
アランはこんなにも謝っている。また令嬢の顔をつくり、笑顔で振り向き、気にしていないと言えばいい。
それなのに、どうして素直に令嬢として接することができないのだろう。
いいや違う。
アランの前でだけは、素直になれるから、演技が出来なくなってしまうのだ。
困らせてはいけないと思うのに、我儘になってしまう。
自分でもうまく感情がコントロールできない。
「あなたは、私が初めて自分から追いかけた女性だ!」
「!?」
「私にとって君は他人などではなく、特別な、大切な――」
アランは一体何を言い出したのか。
メルディの鼓動が高鳴り、足が止まる。
待って……、
まさか、
そんなはずはーー。
「友人です!」
「!?」
友人!? その後に続く言葉は、友人!?
期待した自分が情けなく、恥ずかしく、だけどそれ以上におかしくて吹き出しそうになった。
「フフ」
アランは言葉の選び方がズレていて、天然なところがあると思う。
勘違いしたのが恥ずかしくて、情けなくて、うれしかった。
メルディを特別で大切だと言ってくれたアラン。
女嫌いのアランが、たとえ任務だとしてもメルディに接触し、友人だと思ってくれた。それが嬉しかった。
メルとの思い出の詰まったアマリアの花を、こんな風に心穏やかに眺める日が来るなんて思わなかった。
アランとの沈黙が心地よく、今だけはと、側にいられる喜びを噛みしめた。
社交シーズンも終わりが近づき、それでも誘いの絶えない『時止まりの令嬢』。
メルディは公爵家のお茶会に出かけていた。
上位の貴婦人を相手に、礼儀作法に一際気を付けていたはずのメルディ。
しかし持っていた茶器を手から落としてしまう。
中身を溢すことは無かったが、それでも受け皿とぶつかる陶器の音に皆が顔をしかめた。
「すみませ……」
「あらあら、いいのよ」
「若い方に聞かせる話ではなかったわ。ごめんなさいね」
「い、いいえ……」
そんな粗相を犯したメルディに、周囲は寛大だった。
むしろ優しくすらある。それもそのはず、今聞いた話にメルディだけではない、皆が驚き動揺していた。
フレッド=ニーベルグが死んだ。
その死は父親の凶行を悲観しての自殺であった。
「メルディ様? あの、本当にお顔の色が悪いわよ?」
主人である侯爵夫人から「無理をなさらない方がいいわ」という声をかけて頂いたので、メルディは途中で退席することにした。
馬車に揺られ窓の外をぼんやり眺める。
フレッドが死んだ。
リンザンパークで……自殺を……父親の凶行を悔いての、入水自殺……。
ニーベルグ伯は当然の報いで、レントンは同情の余地はない。
だけどキースは? フレッドは?
彼らは家族に振り回された被害者だ。
フレッドは死んだ。
彼を追い詰めたのは他でもない、私が彼を――。
「だめよ」
自身を抱きしめ馬車の中で蹲る。
考えてはいけない。これ以上は考えないようにしないと、身動きが取れなくなる。
私の目的は何?
思い出せ。メルディとしての仮面を被り、いつも通り平静を装うのだ。
月命日には必ずメルの墓参りに来ていた。
その日は命日よりも数日早かったが、やっと時間が出来たのでマリアの墓参りに出かけ、帰り足にメルの元へ寄ることにした。
教会の子供たちにも冬用の衣類を届けるため、神父の元へ寄る。
「ああ、メルディ様。実は先程婚約者様が――」
「え?」
アランが、ここへ来た。
メルディの婚約者と名乗って、裏で私の事を調べて、ここまでたどり着いた。
アランは教会で私とメルの過去を知ったことだろう。
小高い丘に吹きすさぶ風は冷たくなってきた。
もうすぐ初雪が降るのだろうか。メルが死んで二度目の冬が近づいていた。
アランは、あれからもメルディを疑っていたのだ。
あの笑顔は、言葉は嘘だったのか。
結局は自分を調べるために近づいただけだったのか。
「……フ」
アランを責める資格がメルディにあるのか?
メルディだって、アランを偽り利用するために近づいた。
自分だけが被害者のように振る舞い、相手を責めるなんて……愚かで卑怯だ。
「ーーっ」
メルの墓に見覚えのある後ろ姿があった。
教会で話を終え、すでに帰ったと思っていたアラン。彼がメルの墓前で祈りを捧げている。
アランは私達の過去を知った。
知った上で、メルに会いに来てくれた。
彼の優しさに触れる度に、メルディの胸は締め付けられて苦しくなる。
「……」
いいや。アランが優しくても関係ない。彼はメルディを疑っていて、だからこそここまで来たのだ。
人間には二面性がある。メルディも、アランに偽りの姿で接しているだろう。
本当に?
アランの前でだけはありのままの姿でいられたでしょう?
いいえ。そうじゃない。そんな事は考えてもいけない。
だけど――、
だけどアラン様、
私は一体何者ですか?
時々、自分の名を忘れそうになるんです。
だから見極めて。私が偽者か、本物か。あなたに映る私は一体何者に見えるのか……。
「あなたは、何が目的で伯爵家にやって来たのですか?」
アランの、真っすぐな瞳はメルディに向けられていた。
その瞳に疑いを隠すことなく宿して――。
「あなたの目的は復讐ですか?」
復讐……。
いいえ。私は復讐を止めるために伯爵家にやって来た。
本当に?
犯人達に罰を下したのは誰?
心の底ではメルや母を死に追いやったあいつらを恨み、父やラオネルを庇う大義名分を掲げて復讐に興じていたんじゃないのか。
ニーベルグは捕らえられ、レントンは偽物事件でその地位と信頼は失墜した。
メルの事件は公にせず二人には罪に合った罰が下された。
その罰が下されるよう仕向け、刃を突き刺したのはメルディである。
ニーベルグのこれまでの罪を考えたのならば、死罪は免れないだろう。それこそ身から出た錆である。当然の報いだ。
レントン商会は軍からマークされ、ある意味で復讐の魔の手から守られる形になった。
元々人身売買に手を出した男の末路に同情の余地はない。
メルディは唇を噛みしめ、言い訳のように言い聞かせる。
だけど現実は、罪は、メルディを許してはくれない。
「お前の思い通りさ! だがあいつが何をした!」
ええ。彼は何もしていないわ。
「フレッドを殺したな……お前がフレッドを殺したんだ!」
ええ。私がフレッドを殺した。
目的のために、身分を偽りメルの居場所に居座って、周囲を騙し、善良なアランを利用した。
そして、フレッドを自殺に追い込んだ。
「メルディ?」
どんなに考えないようにしても、彼の死も、自分の罪も現実に起こったことなのだ。
心に刺さった無数の針は、抜けることなくメルディを痛めつける。
その痛みは全て自分で受けなければいけない痛みで、だけど苦しくて辛くて、罪の意識に圧し潰されそうになる。
たすけて
すんでのところで唇を噛み、言葉にはせずに済んだ。
耐えた言葉の代わりに涙がぽつぽつと零れ落ちた。
アランの胸にしがみつき、声を殺して泣いた。
こんなことはいけないのに、アランに寄りかかってはいけないのに……。
それでもアランの手は、遠慮がちにメルディの肩に添えられた。
アランは最後まで何も聞かなかった。何も聞かず、最後まで、ただただ優しかった。




