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時止まりの令嬢と女嫌い侯爵  作者: 千山芽佳


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23/33

ラオネルとルディ

 

 物心ついたころには自分の周りには兄妹と呼ばれる血の繋がらない子供がたくさんいて、先生と呼ばれる世話をしてくれる大人がたくさんいて、自分だけに愛情を注いでくれる親はいないのが当たり前になっていた。


 ルディは生まれた時からロースリ通りにある孤児院で育った。

 孤児院には両親を亡くした者や、捨てられた者がたくさんおり、ルディはその後者であった。

 木枯らし吹き荒れる冬が迫った早朝に、毛布に包まれてロースリ孤児院の玄関前に捨てられていたそうだ。

 暮らしは貧しく規律も厳しく、大人達の中には暴力を振るう人もいた。

 だからこそ、同じ境遇で暮らす子供達の結束は強く、ルディを家族のように受け入れてくれた。

 それだけが、ここで暮らしていくには十分な存在意義であった。


「ルディ、お待たせ。例の本の続きよー」

「やったぁ! ありがとうマリア大好き!」


 ルディよりも五つ年上のマリアは、子供の頃のルディの世話係で、彼女から読み書きも教わった。

 マリアは美しく、皆に平等で先生からの信頼も厚い。

 そんな彼女が世話係で、ルディは鼻が高かった。


「ルディ! 俺とかくれんぼするって言っただろ!?」


 ルディの裾を引っ張って口を真一文字に引き結ぶのは、逆に成長したルディが世話をするはめになったジャンだ。


「あー、そうだったね。でもね、この本はあたしがすっっっごく楽しみにしてた本なわけ。だからさ、ジャンが隠れている間は本を読んでるから。隠れたと思ったら探しに行くわ」

「なにが『だからさ』だよ! 結局本読んでんじゃん! それでこの間は一時間も探しに来なかっただろう!?」

「そうだっけ?」

「それで俺がもう食事の時間だぞって探しに行ったんだよ!」


 年下に叱られるルディに、マリアは「どっちが世話係か分からないね」と声を立てて笑った。


「だってマリアが持ってきてくれる本はぜーんぶ面白いんだもん。かくれんぼも忘れてつい夢中になっちゃうの。ジャンにも今度読み書きを教えてあげるからね? そしたら一緒に読書も出来るでしょう?」

「いやだよ。俺はルディみたいに院長に叱られたくないもん」


 それから走って行くジャンは、早々にルディを諦めて他の友達を捕まえて遊び始めた。


「あいつ最近生意気ー。昔はもっと素直で可愛かったのになぁー」

「今だって可愛いくせに。私だってあなたに対しては特段かわいいと思うもの」


 愚痴るルディを宥める様にマリアが肩に手を添える。

 ルディはくすぐったい気持ちになりながら、肩から伝わるマリアの手の温もりを感じていた。


「早く読んで返すね」

「伯爵様は気になさらないから、ゆっくりでいいのよ」


 ルディが背表紙を開くと『モリソン=ニーベルグ』とサインがしてあった。

 マリアは貴族の支援を受けていた。

 その相手がこのニーベルグ伯爵である。

 その支援の裏に隠された本当の意味を、理解するようになってもルディはまだ子供で、無力で、どんな反応をしていいか分からなかった。

 マリアもそれが分かっているから、困ったように微笑むのだ。

 マリアにそんな顔をさせてしまうのが申し訳なかった。


 ここロースリ通りの孤児院は、その生活資金のほとんどを貴族からの支援で賄っていた。

 その最たるものが慈善事業団体『ローチェスタークラブ』である。

 院には資金の他にも、度々お菓子や洋服などの物資が届き、クラブの会員が子供たちの様子を見に訪問することもあった。

 そこで目をかけてもらうと、使用人として引き取られたり、優秀な子供は学業の支援を受けたりする。

 実際はマリアのように、それ以外での事で見初められるのがほとんどだった。


「ルディ」


 大事に持っていた本を落としそうになったのは、突然声をかけられたからだけではなく、それが院長の声だったからだ。

 振り返るとふくよかな壮年の女性が満面の笑みでルディに近づいてきた。

 そのむせ返るような香水の匂いがルディは苦手だった。


「あなたに会いたいとおっしゃる子爵様がいるの」

「え……」

「おめでとう、ルディ!」


 その唐突な宣告は、遠くで楽しそうに笑うジャンの声や、院長の笑顔とは裏腹に、ルディをどん底へと突き落とした。


 ルディに会いたいという子爵。

 ここでの何故? という疑念は抱いても意味が無い。


「今からあなたは、何をされても抵抗してはいけないの。されるがまま、いうことを聞いていればいいのよ」


 拒絶の言葉もここでは意味の無いもの。口答えをすることは許されない。

 ろくでもない自分の人生を呪いながら、あの『ベッドのある部屋』へと入って行った。


 背後で扉が開く音がしたが、ルディは振り返って挨拶をすることが出来なかった。


「話がしたいと言っただけだが……?」


 低い、大人の男性の声はルディとの面会を望んだ子爵だろうか。

 ベッドが用意された部屋を見回し、不快そうな声を発した。

 そして佇むルディの横を通り過ぎ、自分はとっとと椅子に腰をかけた。


「座らないのか?」

「……」


 早く挨拶をしなければいけないのに、十歳の娘はこれから起こるであろう事がただただ怖くて、震えるだけだ。


「チッ。どこもかしこも、やることはろくでもないな」


 舌打ちをする子爵にびくりと肩が跳ねあがる。


「別に取って食べようなんてしない。いいからここに座れ」


 それでもルディは動けない。


「話をするだけだ」

「……」

「俺はーー、お前の母を知っている」

「!」


 ルディが顔を上げる。そこで初めて子爵と目が合った。

 子爵はとても若い男だった。

 上等の服を着こなし、黒い髪から覗く更に深い黒の瞳が印象的で、その美しさに吸い込まれそうだ。


「きれい……宝石みたい」


 子爵は驚いて目を見開き、ルディは慌てて口を塞いだ。

 そのまま子爵は黙ってしまう。

 ルディは名も知らぬ母の知り合いの子爵に興味を抱き、椅子に腰かけた。

 座れと言われたから座ったのに、反応のない子爵に怯えながら上目遣いで様子を窺う。


「あの、子爵様は、私のお母さんの知り合いですか?」

「まだ子爵じゃない」

「名前を知りません」

「ラオネル=クライシスだ」

「クライシス様?」

「様はいらない。それと、ラオネルでいい」

「え、でもそれは……」


 子爵家の、年上の男性にいきなりファーストネームで呼び捨てするのは、さすがのルディでもいけないことだと知っていた。


「この部屋で二人きりの時だけでいい。俺は敬われるのが好きじゃない」


 貴族のくせに、おかしなことを言う。


「……」


 ちらりと子爵を盗み見る。

 眉間に皺を寄せた不機嫌そうな顔。ぶっきらぼうな物言い。出会って数分だが、彼が気難しい人間なのは分かる。

 この人はあのベッドを使う人じゃない。

 その証拠に、ルディには興味無いのか初めの一度きりで目を合わせようともしなかった。


「ラオ……ネル?」


 怖れ知らずの十歳の子供が、十以上も年上の青年貴族の名を呼び捨てる。

 戸惑いながらも名前を口にしたルディに、ラオネルは怒るでもなく俯いて瞳を揺らした。


「……ラオネル」


 もう一度確かめる様に呼ぶと、ラオネルは目を閉じ薄く微笑んだ。

 笑った顔に、ルディのお腹の下あたりがくすぐったくなる。

 ところが、じろじろ見ていると気を悪くしたのか、ラオネルは顔を背けたまま腕を伸ばし、ルディの顔を下に向けさせた。

 それから、大きな手でルディの頭をぐしゃぐしゃにした。



 ラオネルとの面会を終えたルディが、自室(といっても二段ベッドが三つも置かれた六人部屋)へ戻ると、マリアが廊下に連れ出して突然抱きしめた。

 その行動に思い当たる節があるルディはそっと呟く。


「……マリア、心配しないで。私は何もなかったの」

「いいの。何も言わないで……!」


 マリアは勘違いをしていた。ルディは本当に子爵様に何も無体な事はされなかったのだ。

 ラオネルは持ってきたお菓子をルディに与え、お菓子を頬張るルディを眺めていた。何かを言うでもなく、一時間もすると席を立った。

 慌てて呼び止める。

 母のことを訊ねたが、ラオネルは気だるげに懐中時計を開き、眉間に皺を寄せた。

 時間が無いのだろうか。「また来る」と、次の約束だけ残して去っていった。 

 子爵は実母の知り合いで、ただ話をしに来ただけだとマリアに伝えると、胸を撫で下ろしていた。

 マリアはそれでも子爵の話を全て信じるには危険だと忠告し、中での事は院長に決して話してはいけないと教えられた。


 ルディはマリアの言いつけを守り、院長には何も言わなかった。

 だからきっと院長は、ルディも子爵の支援を受けたと勘違いしていただろう。

 だがマリアはそれでいいのだという。それがこれから自分を守ってくれる盾となるのだと、よくわからなかったがマリアの言う事を聞くことにした。


 あの日からラオネルは、何をするでもなくルディにお菓子を持参して、何度も会いに来てくれた。


「ラオネルは、なんでお母さんを知ってるの?」

「お母さんはどこで何をしているの?」

「生きてるよね?」


 どんなに質問を投げかけても、ラオネルが答えることはなかった。

 それでもしつこくするものだから、ラオネルが観念して答えた。


「お前の母親はロックベル伯爵家で働いている」


 うんざりした顔のラオネル。

 生死も分からなかった母が、同じ街で貴族の屋敷で働いていた。


「ねぇラオネルとはどんな関係なの?」


『もしかしてラオネルが私のお父さん?』と聞くには、ルディと年が近すぎる。


「……その前は、クライシス家で働いていた」

「ふーん。だからラオネルとも知り合いなんだね。お母さんの名前は?」

「……」


 再び沈黙するラオネルに、畳みかける様に父親のことも聞いてみた。


「知らん! うるさいガキは嫌いだ」


 ラオネルは席を立ち、部屋を出ていってしまう。

 一人取り残されたルディは口を膨らませた。

 だけど、ルディの母親はロックベル家で働いていると知れた。ルディの根気勝ちである。

 出自が分からないというのは、自分の存在を肯定する土台が無いようなもの。母親の素性を知れたのは、例え自分を捨てた相手であってもうれしいものだった。


「お母さんは何か病気だったのかな。それでやむなく私を捨てたのかも。それとも貧しくて育てられなかったのかな? 住込みの仕事だから手放すしかなかった? お父さんと喧嘩別れして、もしかしたら私がその嫌いになったお父さんに似ているのかも!」


 ラオネルがルディの膨らむ妄想を止めないので、自分の都合のいいように母親像を作り上げていく。


「きっと私と同じ美人で器量よしよ。……何よ」

「お気楽な妄想だ」


 止まらないルディの妄想にラオネルが薄く微笑む。


「だってラオネルが全然教えてくれないんだもん」


 情報を得る作戦はあれ以来うまくいっていない。

 ラオネルはテーブルに向かい合って持参した新聞を読んでいた。


「それでさ、いつかお母さんは私に会いに来て謝るの。『今まで寂しい想いさせてごめんね』って。私は『いいよ。これから一緒に暮らせば平気よ』って、答えてあげるの」


 叶わぬ願いだろうか。そんな想像を口に出して自らを傷つけた。

 視線を感じてふと顔を上げた。

 あの吸い込まれるような黒曜石の瞳がルディを寂しげに見つめていた。


「ねぇ、お母さんはどんな人? なんでお母さんは私を捨てたの? お父さんは誰?」


 何度も繰り返した質問に、この日のラオネルは突き放しはしなかった。


「会いたいか?」

「わかんない」


 ラオネルの眉間に皺が刻まれる。しつこく質問して妄想までしておいて、そんな答えが返って来るとは思わなかったのだろう。

 会いたいけど、捨てたということはルディがいらないということで、今まで一度も会いに来ないということは、今もルディを必要としていないということ。

 会いに行っても拒絶されるくらいなら、わざわざ傷つきたいとは思わない。


「けど、知りたいの」


 自分を捨てた親が一体どんな人なのか。

 どんな理由があってルディを捨てたのか。

 目の前に母を知る人がいるのなら自分は聞くべきであり、知る権利がある。

 幼いながらも心がそうするべきと叫んでいた。

 ラオネルはルディの覚悟を受け取ったのか、言葉少なめに重い口を開いた。


「……お前の母親は、お前よりも伯爵家を愛した。だからお前を手放した」


 だからそんな夢みたいな事にはならない。

 会いに来て、謝ってくれて、一緒に暮らす未来は、来はしないのだ。

 覚悟が無かった訳ではない。

 だが母が自らの意志で自分を捨てたのだという事実を聞かされて、平気なほど大人ではなかった。


「どんな人かって? 血の繋がった家族よりも、他人の家族を選んだ馬鹿な女だ」


 母はルディを育てる道を選んではくれなかった。

 その事実に、自然と涙が零れ落ちてる。


「……泣くなよ。俺が泣かせたみたいだろう」


 歪んだ顔でルディの頭に手を伸ばす。


「……ラオネルも捨てられたの?」


 驚いた顔のラオネルの手が宙で止まった。

 ルディはふいにこの人も自分と同じように傷ついていると感じた。

 その深い黒曜石のような瞳の奥に、揺蕩う悲しみを、ルディは忘れることが出来なかった。




 孤児院で十一歳の誕生日を迎えたルディ。

 待ちに待ったプレゼントは、クリームがのったケーキでも、奇麗なドレスを着せられた人形でもなく、月に一度許し得た自由だ。

 孤児院では十一歳になると、月に一度の外出を許される。

 ルディはある決意を胸に、初めての外出の許可を取った。


 ルディが向かったのは、大きな庭を高い柵で囲まれたロックベル伯爵家のお屋敷だった。

 玄関へ続く門から、人の出入りを確認できる場所を探して身を潜めてた。

 馬車が通るたびに顔を出して確認する。

 目的の人物ではないとわかると、がっくりと肩を落とした。

 一目、母の姿を見たかった。

 吐き出される息は白く染まり、季節は秋から冬に変わろうとしていた。

 長時間、薄手で外にいたものだから、ルディの体は芯から凍えはじめた。

 赤くなったむき出しの手に息を何度も吐き出し暖を取る。

 朝から待ち続けて陽は一番高い場所から下へと落ちてゆく。次第にちらちらと雪が降りだしてきた。


「初雪だー」


 毎年初雪が降るとちびっ子たちが窓に張り付き大喜びする。

 戻ろうか。

 孤児院の皆を想いながら、ルディは落ちては消える雪を眺めていた。

 再び玄関前が騒がしくなったので、ルディは身を乗り出した。

 出てきた女性は空を見上げ、外の気温を確認すると再び屋敷の中へと入っていった。


「あ……」


 無意識に伸ばした手。戻した手を握って見つめていると、玄関の扉が勢いよく開けられた。そこから、一人の少女が駆けてくる。


「ディア! 雪よ!」


 〝ディア〟と呼ばれた女性は、先程一度外に出た女性で、慌てて少女のコートを持って追いかけていた。


「メルディ様、お風邪を引きますよ」


 〝メルディ〟と呼ばれた少女は、顔を綻ばせてディアの腕に抱きついた。

 恐らくロックベル家のお嬢様だろう。モスグリーンの厚手のドレスに、艶のある金の髪にはリボンが結われ、ふわりと風になびいていた。

 ディアはメルディにケープを羽織らせ、前に屈んでリボンを結んでいた。

 そして二人は手を繋ぎ、ルディが身を潜める前を通り過ぎていった。

 ラオネルの言葉を思い出す。


 『お前よりも伯爵家を愛した』


 ルディは立ち上がり、雪の中を一人歩いて帰った。



「ルディ、どこまで行っていたの! 子爵様がお待ちよ!」


 院長に叱責され、促されるままベッドのある部屋へ向かった。

 そこにはいつものように本を読み、気だるげに椅子に掛けるラオネルがいた。


「孤児のくせに外出なんか許されるのか。知っていたら来なかった」


 散々待たされ、文句を垂れるラオネル。

 いつものようにテーブルの上に甘いお菓子を置いた。


「座らないのか?」


 ルディは佇んだまま、あの美しい黒曜石に映る自分を眺めていた。


「鼻、真っ赤だな。ずっと外にいたのか」

「ラオネル。私のお父さんはロックベル伯爵なの?」

「……お前、どこに行ってた」


 一瞬で鋭い光を宿した瞳。その中に映るルディの顔が歪んでいった。


「伯爵家のお嬢様、私と同じ顔だったよ……?」


 自分と瓜二つの、上等のドレスに身を包んだ令嬢。


「同じ顔で……幸せそうにお母さんと手を繋いでた」


 あれは母だった。顔なんて見たことないのに、本能がそうだと言っていた。


「違う……。メルディはロックベル夫人の子だ」

「じゃあ私は!? あのディアっていう女と伯爵との子なんでしょう? お母さんは不貞を犯したんでしょう? だからラオネルは教えてくれなかったんだね!」

「……」

「それなのに、どうしてお母さんは、メルディの手を握っているたの……!」


 戸惑いが怒りへと変わり、怒りが悲しみに変わっていく。

 わっと堰を切ったように泣いた。

 こんなに感情が揺さぶられるのは初めてで、こんなに泣いたのも初めてなほど、大声で泣いた。

 どうして母は伯爵との子供を産もうと思ったのか。

 どうせ捨てるのなら初めから産まなければよかったのだ。

 どうしてメルディは家族といられるのに、自分はこんな所で一人、泣いているのだろう。


「なんでぇ? なんでなのよぉー!」


 以前は頭を撫で、泣くなと言ってくれたのに、ラオネルは泣き続けるルディを止めなかった。だからルディは泣いた。泣いて、涙が枯れるまで泣き叫んだ。


 扉が開く音を聞きながら鼻をすする。

 どれ位の時間が経っただろう。

 ラオネルは一度部屋を出ていったが、すぐにまた戻って来た。

 窓の外は日が暮れていた。院長に長く滞在しているのを話しに行ったのだろう。


「どう、わた、私じゃ……なくあの子を、選んだ、の」


 嗚咽交じりの声で目を擦りながら、戻って来たラオネルに訊ねた。


「おし……えて。し、しりたい」

「……」


 ラオネルは話すのを躊躇っていた。

 出会った時からずっと、ラオネルはルディに母親の話をするのを躊躇っていた。


「ラオネル、お願い」

「聞いてもお前が傷つくだけだ」

「もう、傷ついてる。だから知りたいの。知って、決める。私だって、お母さんを捨ててやりたいから……!」


 ルディの泣き腫らした顔を正面から見たラオネルは、眉尻を下げて、一度目を閉じてからゆっくりと口を開いた。


「お前の父親は、ロックベル伯爵だ。お前はディアンヌと伯爵の一夜の過ちで生まれた子供だ」


 夕闇がラオネルの背中を照らし、テーブルに長い影を落とす。


「ディアンヌも、お前と同じ貴族の婚外子だった」

「……え?」


 ルディの母ディアンヌは、貴族の婚外子として生まれた。

 子爵の愛人だった母親と、ディアンヌは別邸で暮らしていたのだが、ディアンヌが十歳の時に母が死に、父である子爵家に引き取られた。

 その屋敷には正妻と、年の離れた腹違いの弟がいたのだが、憎い愛人の娘が、望まれぬ命が、貴族の屋敷で受け入れられるはずもなく、ディアンヌにとっては幸福とは程遠い辛く苦しい暮らしであった。


「ディアンヌが十五の時、当時はまだ爵位を継いでいなかったロックベル伯爵が、ディアンヌを自分の屋敷の使用人として雇い入れた。ディアンヌにとって伯爵は、地獄のような暮らしから救い出してくれた恩人だった」


 その後ロックベル伯爵は結婚し、爵位を継いだ。


「仲の良い伯爵夫妻のお側で仕えるのが、本当に幸せなんだと、ディアンヌは言っていた。だが――」


 過ちは起きてしまった。

 伯爵夫妻は結婚してから中々子供が出来なかった。跡取りが出来ないプレッシャーは夫人に重くのしかかり、ロックベル夫人は医者に調べてもらった。

 その結果、夫人は子供が出来にくい体だと分かった。

 正妻として嫁いだ以上、跡取りが出来ないのは貴族の令嬢として死活問題である。

 自分は欠陥品だと、夫人の口から聞かされた伯爵は、その日いつもより深酒をした。

 その晩、酩酊状態の伯爵を介抱に来たのはディアンヌだった。

 伯爵は意識混濁のまま彼女を押し倒し、二人は一夜だけ結ばれてしまったのだった。

 翌朝、伯爵はその日の事を覚えていなかった。

 ディアンヌも、無かったことにしていつも通り努めようとした。

 だがその時には、ディアンヌのお腹に新しい命が宿っていた。

 自分が妊娠していることに気付いたディアンヌは、悩んだ。伯爵に言うべきか、言わないべきか。

 伯爵家の血を受け継いだ子供を、勝手に堕ろしていいものか。悩んでいる間もお腹は膨らんでいく。

 ディアンヌが判断できるものではなかった。何故なら伯爵家には子供がいない。夫妻はその事を一番に思い悩んでおり、それならば自分が、産んだ子供を伯爵家に引き取ってもらってはどうか。

 しかし夫人がこの事実を知ったらどう思うだろう。

 伯爵の不貞を、自分は子供が出来ないのにと恨むだろうか。伯爵家の妻として跡取りが出来たことを喜ぶだろうか。

 分からない。ディアンヌには何が正解か分からなかった。

 ディアンヌは悩んだ末に、伯爵にだけは妊娠の事実を打ち明けて判断を仰ぐことにした。

 どんな結果になろうとも、伯爵の意向に沿うつもりだった。

 だが、結果はそのどれでもない予想外のものとなった。

 伯爵夫人が奇跡的に懐妊した。

 ディアンヌの妊娠は、まだ伯爵には伝える前だった。



「ディアンヌは沈黙を選んだ。しかしその時、子供を堕ろすには遅すぎた。伯爵夫妻が出産で領地に戻る機に、ディアンヌは王都に残り、俺を頼った。そして俺以外誰に知られることもなく一人、ひっそりとお前を産み落とした。そしてあいつは、俺にも黙って生まれたばかりの赤ん坊をどこかにやった」


『望まれぬ妾腹の子は、その存在だけで幸せだった家庭を壊してしまう。私がそうであったように、この子に伯爵家を壊させる気はない』


 ディアンヌは初めから決めていたのだ。恩人であるロックベル伯爵を、夫人の名誉を、生まれてくる伯爵家の子の幸せを守るため、お前の存在を隠し続けると。


「だから父親である伯爵は、お前の存在を知らない」

「……」


 ラオネルの伸びた影は、ルディにまでその暗い影を落とした。


「ひどい女だ。最低な母親だよ。だがあいつも同じ婚外子として、苦労してきたんだ。孤児になったとしても、何も知らないまま育った方がお前のためだと思ったのかもしれない。……それでも、お前を捨てていい理由にはならないがな」


 ラオネルはそう言って目を閉じた。

 過去を思い出しているのだろうか、ラオネルが席を立つまで、ルディも黙ってただ伸びる影を見ていた。



 ルディが部屋へ戻ると、マリアが待っていた。


「ルディ、遅かったわね。新刊よ」


 ルディの事情を知らないマリアは、いつも通り笑顔で語りかけた。

 あんなに楽しみにしていた本を前にしても、心が弾むことは無かった。

 ただ心配をかけないよう、腫れた瞼を見られないよう俯いて笑うので精一杯だ。


「実は私ね、もう少ししたらここを出ていくと思う」

「え」


 俯いていた顔を上げた。


「伯爵様が、私をここから出してくれるって、約束してくれたの」


 マリアは嬉しそうに顔を綻ばせていた。

 彼女が、心から伯爵家に貰われていくことを望んでいるのが分かる。


「おめでとう、マリア。でも、少し寂しい……」

「私もよ、ルディ」


 マリアはルディを抱きしめ、「でもやっと、私にも帰る場所が出来たの」と言った。

 孤児にとって特別な帰る場所があるというのは何よりも幸せな事だとルディも分かっていた。


「ルディも子爵様にお願いしてみたら? 家族になって、ここから救い出してくれるかもしれないわよ」


 マリアの考えにルディは驚いた。

 ラオネルが家族になる? そんなことが可能なのだろうか。

 ルディはその日の晩、何度もベッドで寝返りを打っていた。

 同室の子供たちの寝息を聞きながら、ルディの胸の中はマリアから言われた言葉でいっぱいだった。

 仏頂面で口の悪いラオネルは、だけどルディにわざわざ会いに足を運んでくれる。

 もしラオネルがルディを引き取ってくれたなら――。

 想像しただけで気恥ずかしくなり、布団を頭からかぶった。


 翌月、ルディは外出の許可を貰い、再びロックベル邸に足を運んだ。

 そこで、メルディとその母親であるロックベル夫人、そしてルディの父親である伯爵を陰から眺めた。

 ロックベル家はルディから見ても羨ましくなるほどの仲睦まじい家族だった。

 母は、そんな三人を毎日目の当たりにして辛くはないのだろうか。

 幼い考えでは計り知れない想いがあるのかもしれない。

 もう、両親に期待をするのはやめよう。

 その日、母であるディアンヌには会えなかったが、父の顔を見ることができて、自分の中で一区切りつけられた気がした。

 ルディは孤児院へ踵を返した。

 生誕祭も近く、街はいつもより華やかで煌びやかな飾りが付けられていた。

 すれ違う人々も実に楽し気だ。手を繋いで歩く家族、寄り添うようにベンチに座る恋人達、友人と酒を飲んでバカ騒ぎをしている者、プレゼントを片手にスキップする青年。毎年この時期になると王都全体が浮足立つ。

 お金なんてないのに、ショーウィンドウに並べられた品々を横目で眺め、そんな喧騒の中を一人、自分で編んだマフラーに顔を埋め歩いた。


「……」


 ラオネルにもマフラーを編んであげたら、彼は受け取ってくれるだろうか。


「『なんだそれ、いらん』とか言われそう」


 でもラオネルなら文句を言いながらも受け取ってくれる。

 彼は今王都を離れ、一度領地に戻るのだと言っていた。

 若いながらも事業をいくつか手掛けているのだと、院長が嬉々として話していたのを聞いたこともある。

 そんな忙しい合間を縫って会いに来てくれるラオネルとの時間が、ルディにとってかけがえのないものになっていた。

 そして、日に日に膨らむ期待。

 いつかラオネルが、孤独なルディを迎えに来て、一緒に暮らそうと言ってくれる日を、心のどこかで期待している。まるでどこかのお伽話の様に。


「……でも、白馬の王子様っていうより、あの人死神みたいなんだよなー」


 独り言のように呟いて、その例えがしっくりし過ぎて笑ってしまう。

 雪の上を闊歩しながら、吐き出す白い息と共に母親への未練は空の中へと溶けていった。

 無性にラオネルに会いたくなった。



 ルディは借りていた本を返すため、マリアを探していた。

 マリアの同室の子に聞くと、伯爵が会いに来ているという。

 本を持って二階の廊下を歩いていると、階下の玄関ホールが騒がしい。手摺から顔を出す。気配に気づいたのか、院長と話していたニーベルグ伯爵がこちらを見上げた。


「!」


 驚いたルディは会釈だけして駆け出した。

 闇雲に駆け出した先にはベッドのある部屋。

 伯爵が帰ったのなら、マリアは部屋にいるかもしれない。

 ルディは自室へは戻らず、そのまま金のノブを握った。


「マリアー?」


 部屋へ入り、マリアを探す。


「あ」


 マリアは乱れた衣服のまま、ベッドで横になっていた。だからルディは顔を赤らめ踵を返した。


「……?」


 だけど、何か違和感がある。

 恐る恐る振り返り、もう一度名前を呼ぶが、返事はない。


「マリア、マリア!」


 微動だにしないマリアに、具合でも悪いのだろうかと慌てて駆け寄った。

 その途中でベッドの周囲に飛び散った血の痕を見つける。

 視線を上へと動かすと、ベッドに仰向けで横たわるマリアの首からは、噴水のように血が噴き出していた。


「――っ」


 マリアは目を見開いて息絶えていた。

 悲鳴を上げそうになって両手で口を抑えた。

 拍子に本を落としてしまう。

 腰が砕けて絨毯の上に座り込んだ。

 マリアが死んでいるのは一目瞭然だった。

 悲鳴を上げなかったのは、玄関ホールに伯爵と院長がいたからで、本能的に騒いではまずいと口を抑えた。


 直ぐにここから逃げなければ――。


 マリアの死にニーベルグ伯爵が関わっているのは明白だ。

 先程玄関ホールで会った伯爵を思い出す。

 とにかくここにいては危険だと、慌てて落とした本を拾い上げた。

 鮮血が飛び散った絨毯の上に落ちた本は、血を吸い込んで汚れてしまった。

 廊下に誰もいないのを確認し、一目散に自室へと走った。


 トイレに籠り、震える体と涙が収まるまでじっと息を殺して耐えた。

 夕食の時間になると自室の布団に籠り、体調が悪いと嘘をついて眠った振りをした。

 食べ物なんて喉を通るわけがない。先程から吐き気が収まらないというのに。

 マリアは殺された。

 マリアは死んだ。

 マリアにはもう会えない。

 その事実が辛くて苦しくて、心が張り裂けそうだ。

 マリアはあの伯爵に殺され、そしてルディはその殺人現場を目撃してしまった。


「ごめん……! マリア」


 ルディはこの先きっと、沈黙を選ばなければならないだろう。

 幼く、無力で、孤児の自分が、伯爵に立ち向かえるはずもなく、打ちひしがれた現実に涙した。



 翌朝、いつまでも布団の中で隠れているわけにもいかず、ルディは真っ青な顔で食堂へと向かった。

 その手にはマリアの本を携えていた。

 毎朝のミサを終え、食事が運ばれる。

 一向に口を付けないルディは周囲に違和感を覚えた。

 それは、いつもと変わらない朝。

 食事中の私語は慎まなければならないが、それにしても様子がおかしい。

 何がおかしいか。皆のいつもと変わらない日常に驚く。

 ルディは祈りの中で本を抱き、亡きマリアを想った。 

 しかしみんなの祈りはいつもと変わらない、神に祈りを捧げるものだった。マリアが死んだというのに――。

 食事を終えたルディは、駆け足でマリアの同室の子に声をかけた。


「マリアなら、昨日伯爵様が迎えにいらして院を出ていったわよ」

「……は?」

「前からそんな話は聞いていたけど、決まってしまうと急だったわね。別れの挨拶もさせてもらえなかった。ジャンなんて昨日はずっと拗ねちゃって大変だったのよ? でも院長が落ち着いたら院にも遊びに来るって、マリアが言っていたって。きっとまた会えるわ――、ルディ? あなたまだ具合が悪いんじゃない? 真っ青よ」


 ルディは込み上げた胃液を、口に手を当てて抑えた。顔面蒼白で頭ががんがんと割れる様に痛い。

 伯爵が迎えに来た? また会える?


「うそだ!」


 マリアの友人は驚いた顔をし、ルディの様子に戸惑いながら去っていった。

 マリアの死因と伯爵の犯行は相手が貴族だから恐らく隠蔽されるだろうと思っていた。

 だけど、彼女の死、それ自体が無かったことにされるなんて――あんまりだ。

 今まで笑顔で旅立っていった兄姉達は、本当に命あってここを出て行ったのだろうか?

 疑わずにはいられない。


「ルディ」


 背後からかけられた声に背筋が凍る。

 振り返られないでいると、声の主は大股でルディに近づいてきた。そのむせ返るような香りで分かる。


「ルディ。聞こえているの?」


 返事をしないルディに、院長の声には苛立ちが宿ったが、話を進めた。


「あなた、明日の午後は開けておいてちょうだい」


 午後の活動に参加しなくていいという。そういう時は決まってラオネルが面会にやって来た。


「伯爵様があなたを気に入ったそうなの」

「え?」


 今、院長は子爵ではなく伯爵と言ったのか?


「明日は伯爵様のお相手をしなさい」

「あの、でも、私にはクライシス子爵様が――」


 いつもなら少しでも口答えをすれば叱られるのに、優しく微笑む院長は逆に不気味で怖かった。 


「ええ。クライシス様も我が院の大支援者ですよ。このまま引き続き、失礼の無い様にお相手なさい? でもね、伯爵様も院にとっては大切な方なの。昨日偶然あなたを見かけて気に入ったと言っていたわ。院の妹弟たちが暮らしていくためにも、どちらの相手もするなんて、簡単な事でしょう? だけどね、子爵様には伯爵様のことを話してはだめよ」


 ルディの心臓の鼓動は恐怖心からどんどん速さを増していく。

 昨日? ルディを見た?


「あの……それは、マリアの……?」

「ええ! そうよルディ。ニーベルグ伯爵様は勿論、マリアを大事になさっているわ。でもね、殿方というのは同時に何人もの女性を愛してしまう生き物なのよ」


 院長はルディの耳元で囁いた。

 ルディは院長の顔色を窺った。あまりにも自然に、マリアの話をする院長が、彼女が死んでしまった事を知らないのではないかと思ったからだ。


「……」

「……」


 ルディの疑いを孕んだ視線を受け止めた院長の瞳に、逆にきらりと鋭い光が宿った。瞬間、ルディは自分の過ちに気付き視線を外したが遅かった。


「お前、何か知っているのかい?」

「!」


 院長の笑顔はすっと消え、逆にルディを疑い、様子を探ってくる。

 とにかくその場から逃げ出したくて後退りしてしまう。


「……昨日、伯爵様はどこでお前を見初めたんだい?」


 獲物を捕らえるような地声に足が竦んでしまう。

 ルディは院長を前に歪んだ顔と体の震えを抑えることが出来なかった。

 院長の手が伸び、ルディの腕を掴んだ。


「いっ!」


 爪を食い込ませ、捻るように強く掴まれた腕が悲鳴を上げる。

 ルディは必死にもがいてその腕を引き剥がし、玄関に向かって一目散に逃げた。


「お待ち! 誰かその子を捕まえて!」


 外は暗くなり、雪が降っていた。

 向かってくる風が体を強く打ち付けて痛い。後方で自分の名を呼ぶ声が追いかけてくる。

 振り返るのも怖く、とにかく脇目もふらずにひたすら走った。

 駄目だ。もう院には戻れない。いや、逃げなければ今度はルディが殺される。

 院長が知らないわけがなかった。

 玄関ホールで騒いでいた二人。伯爵はマリアを殺し、その遺体の始末をしたのが他でもない、院長だったのだろう。

 あの二人はマリアの死を隠蔽し、今度はルディをマリアの代わりに差し出そうとしている。


「たす、助けて――!」


 大人達はルディを、簡単に道具として使う。そこに意志は、命は何でも無いかのように――。


「ラオネル!」


 ルディはやっとの想いでクライシス子爵邸に辿り着いた。

 門番の制止を振りほどき、門扉を飛び越える。

 重厚な玄関扉を何度も叩くと、驚いた顔の使用人が開けてくれた。その隙間を縫って中に入った。


「ラオネルラオネルラオネル!」


 追い付いてきた守衛、使用人に腕を掴まれながら、大声で彼の名前を叫んだ。


「若様はいない! 出て行け!」


 いない? まさか領地からまだ戻ってきていないのだろうか。

 彼はこの時期になると一度領地へ戻る。


「何の騒ぎだ」


 その時、階段から降りてくる聞き覚えのある声に、押さえつけられた顔を必死に上げた。

 黒曜石の瞳が見開かれる。ラオネルの姿に安堵すると同時に、その背後からもう一人、ルディの姿に目を見開いた者がいた。


 ロックベル伯爵

 なぜ、ここに……。


 ルディは想定外の人物に、一瞬言葉を失ったが、それでも再び子爵に顔を戻して助けを求めた。


「助けて! 私、私――」

「その子供をつまみ出せ」

「!?」


 低い、冷たい声に、雪で濡れた体が急激に寒さを感じた。

 その声は、瞳は、いつもとは違う、ルディを心底迷惑そうに突き放していた。


「ラオ――」


 ブランケットを手にしたラオネルは、ルディの顔が隠れる様に上から被せた。


「身寄りのない孤児に同情し、菓子を与えたら勘違いされたな」

「……」 


 ブランケットのせいで、声はくぐもって遠くなる。

 ラオネルの顔も、ロックベル伯爵の顔も、何も見えない。


「その毛布はくれてやろう。もう二度とここへは来るな」


 ラオネルの言葉を合図に、使用人達が一斉にルディを引きずり出した。

 先程までの抵抗が嘘のように、簡単に外へ投げ出される。

 重い扉が閉まる直前、「待ってくれ、その子は――」という伯爵の声がしたが、一度閉じた扉は再び開くことは無かった。



 ルディは当てもなく雪の中を彷徨い歩いた。

 行き先なんてどこにもない。目的なんて何もない。帰る場所もない。

 空っぽのルディ。どれだけ歩き続けたのだろう。

 馬の蹄の音と嘶く声にゆっくりと振り返る。

 目の前には前足を大きく振り上げた馬が、ルディを轢く寸前で止まった。


「馬鹿野郎! 死にたいのか!」


 御者が叫ぶと同時に急停車に驚いた馬がルディの髪に僅かに当たる。その風圧で尻もちをついてしまった。

 髪が乱れ、俯いた顔には後ろ髪がかかり、その隙間からは真っ白な雪が映る。

 御者は何かルディに叫んでいたが、その声は随分と遠くに聞こえて、立ち上がることも出来ないほど疲れ果てていた。


「メルディ様!」


 その名と、聞き覚えのある声に、遠くにあった意識が戻ってきた。

 雪の上に真っ赤なブーツが映り、ルディは顔を上げた。

 乱れた髪の隙間から自分を見下ろす人物。


「大丈夫? けがはない?」


 金の髪に紫の瞳。一瞬、鏡に映る自分かと勘違いしそうになったが、その姿は実物とは程遠い、身なりがよく眩しい姿に泣きそうになった。


「メルディ様、いけません」


 少女を心配して馬車から降り立ったのは、ルディの実母であるディアンヌ。


「メル」


 母親であるロックベル夫人は心配そうに窓から外の様子を窺っていた。

 メルディは、大人達の制止も気にすることなくルディに手を差し出した。


「……」


 今、一番会いたくない人物に、一番惨めな自分で対峙するこの不運に、泣きたいほど恨んだ。

 ルディはその手を取ることなく一人で立ち上がった。俯いて、会釈すると顔が見られないよう気を付けながら去ろうとした。


「待って」


 その背をメルディが引き留めた。


「これをしていって。このままじゃ、寒くて凍えてしまうわ」


 メルディは自分の首から外した上等のミンクのマフラーを、ルディにかけてくれた。

 そしてこちらを見て、天使の様な愛らしい顔で微笑む。

 もう、その全てが、何もかもが……。

 そのマフラーを掴み、思い切りメルディに叩き捨ててやった。


「きゃあ!」

「メルディ様!」


 メルディを庇う大人達。ディアンヌの腕の中で、傷つき驚くメルディの顔。

 その何もかも全てが、悔しくて、憎らしい。

 その時、一陣の風がルディの髪を掻き上げた。

 ルディはこの時、生まれて初めて母ディアンヌと目が合った。

 愛する家族に囲まれて、幸せいっぱいに暮らしてきたメルディ。

 これが私を捨ててでもあなたが守りたかったもの?

 怒りと虚しさで見開いた目からは大粒の涙が零れていた。


「あなた――」


 ルディは踵を返して逃げだした。

 再び雪の中を一心不乱に走る。

 走って、走って。

 そのままのスピードで下り坂に気付かず、雪に足を取られると一直線に転げ落ちた。


「……」


 寒さで体が麻痺しているからか、痛みは感じない。

 外はもう人影はなく、街灯だけがぽつりと立ってルディを照らしていた。

 仰向けになり、大の字になって夜空を見上げた。


「ごみみたい……」


 街灯に照らされ落ちてくる雪を眺めながら、ルディも塵のように捨てられて路上に転がっていた。

 何度捨てられれば、居場所ができるのだろう。

 いいや、そんなもの、初めから無かったのかもしれない。


「期待なんて、するんじゃなかったーーっ」


 生も、死も、初めから存在していなかったかのように扱われる。

 それがルディの生きる世界だというのなら、もういっそ死んでしまってもいいのではないか?

 この命は初めから誰にも望まれず、祝福されてはいないのだから……。

 どんなに手を伸ばしても、この手を掴む者はいない。

 ベッドの上で横たわり、無残に死んでいったマリア。

 孤児院で今も、孤独に寄り添いながら未来を夢見る弟妹達。

 あの頃の、唯一の癒しはもう取り戻せない。

 両腕で顔を覆い、押し止めようとも涙は後から後から溢れ出し、ルディの頬を温める。

 死んだ方がと思うのに、凍えた頬につたう涙は温かい。

 寂しいと、悲しいと叫ぶ心は生きている。

 ここに、ルディは生きていた。

 だから――。

 私は、私だけは簡単に命を捨ててはいけない。命の虚しさを、世界の理不尽さを知っているなら、この世に生を受けた私を、私が捨てたら皆と同じになる。

 自分で命を投げ捨ててはいけない。どんな命も、等しくかけがえのないものと信じたいから――。

 一人ででも生きていく。


 そうしてルディは再び立ち上がった。



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