ロックベル家の事情
メルディは、庭で部屋に飾る花を摘んでいた。
季節は秋になり、風も冷たくなってきた。外は肌寒く帯同する侍女が部屋へ戻りましょうと音を上げていた。
しかしメルディにとってこんなものは寒いうちには入らない。
肌を突き刺すような寒さ、かじかんだ手、霜焼けで痛む足。
つい二年前まで、それが当たり前の生活をしていた。今では真逆の暮らしをしていることに未だ不思議でならない。
屋敷の応接室の窓から見える人影を眺めて、父の来客がいる内は外にいると侍女に伝えた。
侍女は応接室にいる人物とメルディを交互に見た。主人の意を酌むどころか嬉しそうに顔を綻ばせた。
メルディが恥ずかしがってわざと外にいると勘違いしたらしい。それなら温かいお茶とブランケットを持ってくると言って弾む足取りで屋敷の方へ戻って行った。
ロックベル家を訪問しているのは、アラン=ブライトン。
先日彼から観劇の誘いがあった。
二人で出かけるとあって、アランはメルディの父親に許可を取りに来たのだ。
外出するのにも親の許しがいるとは貴族というものは面倒臭いものだ。
貴族の世界は、外から見ると華やかで羨ましいが、内からみるとしがらみが多くて息が詰まった。
あの頃は毎日が生きていくのに必死で、だけど自由だった。
しんしんと降り積もる雪。身を寄せ合い、一枚の毛布で温め合ったあの日々――。
「……」
冬ごもりの準備を始めた寂しげな庭園を眺めながら、亡き友人を想った。
「フレッド=ニーベルグが死んだらしいな」
庭に突如あらわれたのは、今日も黒い服に身を包んだラオネル=クライシス。
「……父と仕事の話をしに来たのならうろつかず屋敷で大人しく待っていればいいでしょうに」
「相変わらず生意気だな」
ラオネルはそのままメルディの側に居座った。
ガーデンパーティーの翌日、若きニーベルグ伯爵の不幸な事故死は社交界を震撼させた。
メルディの父は葬儀に参列しなかったが、ここ一週間はフレッドの話題で持ちきりだった。
ラオネルの登場に心底迷惑そうにするメルディ。
彼のせいでアランと先日喧嘩をしたばかりだ。いま屋敷にはアランがいる。またいらぬ騒ぎを起こしたくはなかった。
ところが、ラオネルは立ち去るどころか腰を屈め、寂しげな庭を眺めていた。
「こんなに寒い中、わざわざ花摘みなんかする必要があるか?」
「……」
「それとも、ブライトンの息子を避けているのか?」
「あなたには関係ないでしょう」
図星を突かれ、声が上ずってしまう。
避けている。
そう、メルディはアランを避けていた。
「フレッド=ニーベルグの死は我々にも関係しているからな……」
「こんなところでよして」
応接室の方へ視線を動かす。人影が二つ、こちらを一瞬見たような気がするが、遠くてはっきりと確認できない。
「それにしても、ブライトンの子息と随分親しいんだな」
「アラン様は祖父同士が勝手に決めた許嫁よ」
友人、と言ってもラオネルは納得しないだろう。
許嫁も半分冗談のようなもので、当事者以外には知られていないのだが、言い訳に使わせてもらった。
「元婚約者候補に許嫁か……。メルディ様は随分と人気がおありのようだ。あの馬鹿従兄に比べればいくらかマシだが、ああいう優男は気に入らない」
リックとアランを比べるのも失礼な話で、気難しいラオネルにしたら誰だって気に入らない相手だろうに。
「お前が後ろめたさで避けても、あちらは会う気満々だぞ」
「え?」
振り返ると、屋敷の方からアランが足早にこちらにやって来る所だった。
思わず後ずさりするメルディに、ラオネルは意地悪そうに笑い、そのままアランの方へ向かっていった。
「待って、やめてよ?」
小声で注意したが無視して行ってしまう。
またこの前のように不穏な空気になるのではと握った拳に力が入る。
しかしアランとラオネルは、何も言葉を交わすことなくすれ違った。
「ア、アラン様……」
真っすぐにこちらにやって来たアランは、笑顔でメルディに挨拶した。
「本当は会わずに帰ろうかとも思ったのですが、シーズンが終わって中々会う機会もないものですから、挨拶だけでもと思いまして」
「……そうですか」
それから小さな箱に入ったプレゼントをメルディに渡す。
「先日のお詫びに」というアラン。女嫌いというが、こういう女性が喜びそうな細やかな事を平気でするのが、容姿だけではない皆が惹かれる部分なのだと思う。
「ありがとうございます」
このプレゼントも、何も特別なものではないはず。
だが、異性からもらったプレゼントとあっては鼓動が高鳴ってしまうのも仕方あるまい。
メルディは両手で受け取り、大事そうに胸に抱えた。
彼の魅力が容姿や気遣いだけではないと、メルディには分かっていた。それはもちろん、アランと話して感じた事でもあるが、それ以前から、彼はメルディに優しかった――。
「……」
昔を思い出し、微笑む。
アランは覚えていないだろう。メルディがアランから贈り物をもらったのがこれで二度目であるということを。
メルディは侍女がティーセットを持ってきたのを見て、アランもお茶に誘った。
「私はこれで失礼します。この後友人と会う約束をしていまして……。先日亡くなったフレッドと仲の良かったキースという男です」
「そう、ですか」
「キースはレントン商会の子息ですが、彼に会ったことは?」
「……そうですね。一度夜会で挨拶をしたかもしれません」
「まさかフレッドがあんな事になるとは思いませんでした。あなたも驚いたでしょう」
「アラン様。お時間がまだおありのようですから、庭でも散策いたしませんか?」
侍女の聞き耳を気にしたメルディは、アランに二人きりになろうと誘った。彼も微笑んで、それを待っていたかのように頷いて歩き出す。
「ニーベルグ様のことは正直驚きましたし、残念で仕方ありません。ですが父にも侍女にも、マリアの件は話しておりません。あんな凶悪な事件に少しでも関わっていたかもしれないなんて、余計な心配はさせたくはありませんから」
「なるほど」
侍女と離れた所でメルディは令嬢らしく話し出す。二人きりだというのにその口調は二人とも固いままだ。
アランが明らかにメルディの表情を窺っていたが、淡々と答えた。
「アラン様、私に何か聞きたい事でも?」
今度はメルディがアランに切り込んだ。
「『裏ローチェ』というクラブをご存知ですか?」
「いいえ。知りません」
正直に答える。
アランの今までとは違う、はっきりと自分を疑う態度にメルディは警戒を強めた。
自分を疑えとけしかけたのはメルディ自身だ。
「それならばローチェスタークラブの中に、非人道的な行いをする連中がいることは知っていましたか?」
「……」
アランにはなるべく嘘はつかないと、はじめから決めていた。沈黙が答えである。
「あなたは、何が目的で伯爵家にやって来たのですか?」
メルディは足を止め、ゆっくりとアランに対峙した。
***
アランはメルディとの外出の許可を得るため、ロックベル伯爵家を訪問していた。
執事に応接室に通され、伯爵を待つ。
ソファに座る前に、花瓶に生けられたアマリアの花が目に入った。
「こちらは今朝方、メルディお嬢様が庭から摘んできたものです」
老齢の執事は柔らかい口調でそう教えてくれた。飾り立てられた花に、墓地でも手際よく花を活けていた姿を思い出す。自然と顔が綻んだ。
扉が開かれ、伯爵かと思い振り返ると、そこに現れたのはロックベル夫人だった。
「あらあら、ブライトン様ではありませんか。随分ご無沙汰しておりますわね」
ふっくらとした体形の優しい雰囲気の夫人に、アランは挨拶をしようと立ち上がった。
ところが、「奥様!」と声を張り上げて焦る執事。急にどうしたのかとアランが首を傾げた。
「お孫さんにメルディをお嫁に欲しいとお願いに来たのですか? ふふ、あの子はまだ五歳だというのに、気が早すぎますわよブライトン様」
一瞬、何を言われているのか分からなかった。執事に説明を求めるが戸惑った顔をしているだけだ。
「ブライトン様がお待ちだとお義父様を呼んできて」
執事に命令した夫人を見て、そこで初めて自分が祖父と間違われているのだと気づいた。
「……夫人、私はイヴァン様に用があって訪ねました。お心づかいはありがたいのですが、イヴァン様を呼んでいただければ尚うれしいです」
ロックベル夫人はきょとんと狐に抓まれたような顔をし、それからはっきりとした顔でアランに微笑んだ。
「あらあら、ブライトン侯爵家のアラン様ではありませんか。大きくなられて!」
アランはなるべく表情に出さず、夫人に丁寧に挨拶をした。
それから執事の方に目配せする。執事は慌てて部屋を出て行った。
「メルディがね、よくあなたのお話を聞かせてくれるの。ミサにもご一緒して、愉快なお姉様方ともお話したと楽しそうに言っていたわ」
「楽しかったのは私の方です。迷惑ではないようでなによりです」
「ふふ、もちろんよ。見た目に反して謙虚なのね」
しっかりと会話が成り立つ事にアランが安堵していると、扉が大きく開かれ、息を切らしたロックベル伯爵が入ってきた。
「マリー!」
慌てて駆け寄ってくる夫に、夫人は驚いて口に手を当てた後、ゆっくりと周囲を見回し、額に手を当てて項垂れた。
「私ったら……」
夫人は伏し目がちになって、申し訳なさそうにアランに訊ねた。
「ごめんなさい……私、また変な事をしてしまったようね」
「いいえ。とても楽しくお話してくださいました」
アランはにこりと微笑んで夫人に快く出迎えてくれたことを感謝した。
「マリー、私は彼と話があるから、君は部屋へ戻っていなさい」
ロックベル夫人は急に不安そうな表情を浮かべ、伯爵に縋った。
「あの子がいないの! メルディ……、私のメルディがいない!」
取り乱す夫人に伯爵は窓の外を指さし、「メルディは花を摘んでいるよ」と優しく声をかけた。
ロックベル夫人がメルディの姿を確認しようと窓辺に向かう。庭園にはメルディが侍女と一緒にいた。
夫人は安堵し、にこにこと笑顔で部屋を後にした。
ブライトン伯爵は扉が閉まるとソファに腰かけ、アランにも座るよう勧めた。
「……」
挨拶をするタイミングを逃してしまったアランは、取り敢えずこの沈黙を受け入れ、伯爵が何を話し出すか待つことにした。
「アラン。妻に紳士な対応をしてくれたこと感謝する」
ファーストネームで呼んでくれた伯爵に、そこでアランはきちんと挨拶をした。
ロックベル夫人の状況は、伯爵の方から説明してくれた。
ロックベル夫人は精神を病んでいた。
夫人の心は、メルディを誘拐されてから少しずつ不安定になっていったという。
「周囲には病を患い表に出られないと誤魔化していたが、実際はああやって過去と現実を彷徨い、酷い時は一日中錯乱状態になることもある」
それでも、メルディが戻ってきてだいぶ良くなったという。
時々過去に戻ったりもするが、自我を保つことも長くなり、暴れることはなくなった。
伯爵は娘との生活で夫人の精神が安定してきたように思うという。
「だが、自我が保てると今度はおかしな言動を取っている自分を理解できるようになった。……どちらが妻にとって良かったのか、分からなくなる時もある。妻は自分の状況に大変ショックを受け、落ち込んでね。相手の反応によっては傷ついてしまうから、君の対応には助けられたよ」
「気を使わせてすまない」と伯爵は頭を下げた。
噂通り、伯爵は夫人を大切に思っているのだと感じた。
話を戻そうと、メルディの話題へと移った。
「ブライトン侯爵から私に、娘のナイト役に君を推薦すると申し出があった。その後すぐに君からメルディを観劇に誘いたいと連絡が来た。君たち親子はどうやら私から可愛い娘を奪い去りたいようだ」
冗談だと思っていたナイト役の話を、父が本当に伯爵に通していたことに驚くと同時に、夫人の件を聞かされた後、メルディを誘い連れ出すことに罪悪感を抱いてしまった。
「くく。君はどうやら至極真面目な性格らしい」
「どうでしょう」
「〝女嫌い〟と聞いていたが、やはりあれはデマだったらしい」
「ははは」
そこは笑って誤魔化しておく。
「君が誠実な青年だというのは分かった。顔には出さないが、娘も君を信頼しているようだ。私は妻の事もあって中々屋敷を空けられない。娘を娯楽に連れ出したこともない。初めて見る物、珍しい物には大変興味を抱く子だ。きっと君との外出は喜んでいるはず。よろしく頼むよ」
「はい!」
一通りの話を終えると、執事が部屋に入ってきた。
「メルディを呼んできてくれ」
「あの、庭にいたようなので私が伺います」
アランは席を立ち、窓からもう一度メルディの姿を確認しようと視線を向けた。
そのまま立ち尽くすアランの横に、伯爵も席を立ってやって来た。
「おや、ラオネルじゃないか」
「……」
こちらを背に、庭の中で佇む二人の姿に心がざわつく。
「少し前に旦那様に御用があるとお部屋でお待ちいただいておりましたが……」
「あいつはじっとしていられない性格だからな」
親しそうな伯爵に、アランはロックベル家との関係が気になりさりげなく訊ねた。
「ラオネルは知人の弟で今は共同で事業をしている。そのためよく屋敷にも顔を出すのだ」
だからメルディとも親しいと言う。
確かラオネルとメルディは年が十以上も離れている。
しかし彼は確か独身のはずだ。あまりメルディと二人きりは良くないのではという不満は心の中に留めておい
た。
「メルディ嬢に挨拶して失礼します」
アランは足早に庭へと急いだ。
***
『あなたは、何が目的で伯爵家にやって来たのですか?』
二人は対峙したまま暫く黙り込んだ。
一度瞼を閉じ、言葉を選ぶように口を動かしたのはメルディだった。
「……おかしなことを仰いますね。何故娘である私が、“やって来た”などと言われなければならないのでしょう。ああ……そうでした。これがアラン様のお仕事ですものね。それにしても、目的とはいったい何のことでしょう?」
アランも言葉を選びながら続ける。
「ではあなたは本当に伯爵家の娘だと?」
「ええ。私の父はロックベル伯爵です」
「あなたは下町で暮らしていた時、記憶を失くしてなんかいなかった。メルの死が近づき、実家である伯爵家に救いを求めた。なぜ記憶喪失の振りを? そこまでして戻らなかった伯爵家に、戻ってきた理由は?」
「メルを一人にしておけなかったからです。アラン様もメルの状態を教会で聞いてらしたでしょう? メルが天に召されたので戻って来た。それだけ。それから、記憶は戻っていましたが馬車から落ちたのも、一度記憶を失ったのも事実です」
真っすぐ向けた瞳は、アランに嘘をついているようには思えない。
「……伯爵はそれを知っていますか?」
「ええ。父は私が記憶を失っていたことも、元に戻ったことも知っています。ですが下町で育った癖は残り、社交界に出るための令嬢教育を理由として、記憶を失ったままにしたのです。お恥ずかしい話ですが、ダンスも踊れず作法もままならない私に、父の提案は世間への言い訳となり助けられました」
「では、あなたを誘拐した犯人のことも覚えているのですか?」
「……」
メルディは真っすぐ視線は逸らさないが沈黙する。
「あなたの目的は……」
ふいに頭に浮かんだ言葉を口にする。
「〝復讐〟ですか?」
メルディは目を大きく見開き、一瞬傷ついたような表情を見せた。
「……観劇、楽しみにしています」
墓地での時とは逆に、今度はアランがメルディを置いて振り返らずに去った。
アランが外に出ると、馬車の近くでロックベル夫人が待っていた。
周りに侍女や使用人はいない。
「夫人、どうかなさいましたか?」
アランは駆け寄って声をかけた。もしかしたら誰にも知らせず抜け出してきてしまったのかもしれない。
両手を結んで不安そうに周囲を見回す夫人に、アランは使用人を呼ぼうと顔を上げた。それを引き留められ、裾を掴んで夫人が縋りついた。
「あの子を助けてっ! 私が悪いのよ!」
「夫人?」
また過去に戻り、メルディが誘拐されたことを思い出しているのだろうか。
「メルディは庭で花を摘んでいますよ」
アランは夫人を落ち着かせるため優しく語りかけた。それを遮るように夫人は腕に力を込めた。
「そうじゃないの! あの子を、ルディを助けてほしいの!」
「!」
「私が、優しいあの子を縛り付けた――」
「奥様!」
ロックベル夫人を探しに来た侍女が慌てて駆け寄る。話の続きを聞きたかったが、夫人はアランから離れると「ブライトン侯爵、もうお帰りになられるの?」と柔らかく微笑んでいた。
「……」
その変わりように、さすがのアランも言葉を失ってしまった。
侍女は「申し訳ございません」と頭を下げ、夫人を連れて行った。
「……“ルディ”を助けて?」
夫人は確かにルディと言った。先程はメルディと呼んでいたのに……。
アランは頭を抱えた。
先程のメルディの傷ついた顔を思い出す。
あれ以上は彼女を問い詰められず、逃げる様に去った。
情が移ったのとは違う気がする。メルディが抱えているものが何なのか、アランには分からない。分からないがどうしてもアランにはメルディが嘘をついているとは、悪い人間には思えないのだった。




