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知らぬがスサノオ

作者: くまごろー

 (一)


 娘の(はる)()から一週間先の水曜日に意中の男を連れて来ると言われて、田所(たどころ)(せつ)()は何かと落着けない。春香が相手のことを教えないので人物の見当がつかないのだ。医者をしてるというのとモッ君という愛称はたまたま春香が口を滑らせて知れたことだ。

「悪く思わないでね。詳しく言えないのは意地悪でも占いでもないのよ。挨拶するまで口止めされてるのよ。彼、お父さんを驚かせたいことがあるらしいわ、ふふッ」

 ……早くも夫唱婦随か……。

 摂夫は娘の結婚に反対するつもりはないが、式を挙げる前から春香が隷属を強いられているようで面白くない。何より情報がないので気がもめる。興信所に頼めばいっぺんに片付くが、娘が望まないことはしたくない。医者というからには馬の骨ということはないだろうし人物も会えばわかることだ、そう自分を納得させる。

 医者の婿さんを自力で探し当てた娘を大したものだと思う一方で、摂夫には娘が凝っている占いが少々気になる。タロットカードも高島易断も自分でやるなら、それはそれでひとつの見識かも知れないが、春香は毎朝のテレビ占いを鵜呑みにする。そんな娘が医者だという男とうまくやって行けるのか心配にならなくもない。ついこの間も一騒ぎあった。


「ねえ、母さんが使ってたムラサキ色のガマグチはどこだったかしらねぇ。お父さん、知らない? 牡羊座のラッキーアイテムがパープルのお財布だって言うのよォ。もう少しありふれたものにしてほしいわァ、まったく……」

「朝の忙しい時にまたそんなこと。どうかしてるぞ」

 摂夫は呆れながら娘のガマグチ探しにつきあった。タンスの奥にしまいこんだ妻の遺品のなかから時代物のガマグチを引っぱりだして春香に渡した。

「これか?」

「これこれ。ありがと。ひゃあ、危なかったなァ」

「おまえ、テレビ占いを本気で信じてるのか?」

「さァ、どうでしょうね、ふふ。人がいいって言うことならやっぱりやっといたほうが安心でしょ?」 

 父娘二人暮しの彼女は朝のテレビでその日の運勢を知り、ラッキーカラーの服を選んで家を出る。終日身につけて過ごすラッキーアイテムが手元になければコンビニをハシゴしてでも手に入れる。彼女の徹底した凝りように父親ばかりか同じテレビ占いを見て出勤してくる同僚たちも呆れている。

 その日も「パープルのお財布は?」と聞いてきた仲間に母親のガマグチを見せて「ダサいッ!」と笑われた。それを春香は仲間といっしょになって笑い、これでいいと思う。美人で、仕事ができて、人づきあいが悪いとなれば職場は敵だらけになる。春香は父親ゆずりで少々理屈っぽい。人づきあいが悪いのではなく下手なのだ。それを自覚している彼女は、自分から弱みを作って生意気に思われないように、浮かないように占いを役立てているに過ぎない。『人がよいと言うことには耳を傾けるものよ』という生前の母親の教訓とも述懐とも取れる言葉を守って、今日の一日、母親を身近に偲べたのもラッキーアイテムのおかげだと解釈する。

 薬剤師になって六年、春香は年が明けて二十九才になる。摂夫はこれまでうわさ一つなかった娘が結婚しようというのだからよろこぶべきなのだ。摂夫が春香の幼さをバカにできないのは、春香の結婚は二十九才だという死んだ妻の予言がどうやら的中しそうな気配だからだ。

 春香が薬科大に入った年の夏に他界した(せい)()は高校の化学教師の摂夫と結婚して一人娘の春香を産んだ。家庭には波風ひとつ立たず三人は平凡に暮らした。斉子はミッション系大学を出たがキリスト教信者というわけではなかった。死ぬ前の何年かを神社に通っても、娘に神社参りを強制することはなかった。

 実の娘でも両親の過去を知っているわけではないし、実の娘だから知らされないこともある。


 (二)


 二十年前──。

 春香は小学三年生のとき盲腸で入院した。母の斉子は、盲腸など手術のうちに入らないとタカをくくっていたが、摘出された娘の盲腸を目の前に突きだされて狼狽した。腎臓の形をした膿盆の上のそれは、ピンポン玉ほどに腫れ上がって、青黒い部分と赤黒い部分の入りまじった不気味な肉の固まりだった。 

「パンクする寸前だった。これが中でハネたら腹膜炎。お嬢ちゃん、お腹痛がったでしょうにッ」

「え、ええ。まあ……」

 斉子は医者に短くあいまいに答えた。彼女は上手くいった手術にほっとしたいのが先で、母親の不注意を当てこする執刀医の言葉がわずらわしかった。

 ……後は治る一方だからね、もう少し頑張るのよ……。

 春香に母親の眼差しを向けて心のバランスを保とうとしたとき、勤務先の学校から駆けつけた摂夫が医者に会釈をするなり斉子を怒鳴りつけた。

「だいたいお前はのん気すぎるんだッ! 取り返しのつかないことになったらどうするんだッ。バカ!」

 ……何さ。夕べ、鎮痛剤を飲ませて早く寝かせてしまえと言って、茶碗を重ねたのはあなたのほうじゃないのッ……。

 摂夫が食器を重ねるのは、その晩をこの夫婦が同衾する合図だった。

 ……アタシだって久し振りだったんだもの、仕方ないじゃないの。それに春香がわめき出したのは今朝あなたが出勤した後のことよ。ご近所は騒がせたけれど、救急車を呼んでこうして間に合わせたのだから、私に落ち度はないでしょうに……。

 他人がそばにいると良い子ぶる夫は、斉子が思っているように年齢の割には幼いのかもしれない。

「春香がさびしがるから病院に泊まりますよ。家のことは自分でやってちょうだい」

「家事くらいなんだ。子供あつかいするなッ」

 ……家事を手伝わない夫だ。お皿の二、三枚ですめばいいけど……。

 摂夫は妻に労いの言葉一つかけずに帰っていった。


 翌る朝、春香に付き添っている斉子に警察から電話が入った。夫が交通事故を起こし、市立病院に担ぎ込まれたのだ。勤務校の生徒のよろけた自転車をよけて道路の反対側の電柱に激突したという。対向車があったら大惨事だったという声を受話器の底に聞いて、斉子の視界が暗くなった。

 ……何よ。アタシだけ悪者みたいじゃないッ……。

 斉子は病室の窓から、神さまか仏さまがいるらしい中空を見上げて腹の中で罵った。

「春香、看護婦さんの言うことをちゃんと聞いて良い子にしてるのよ」

 春香に言い含めて、斉子は市立病院にタクシーを飛ばしたが、駆けつけた夫のベッドは空だった。看護婦の一人が応急手術だからすぐに病室に戻りますと言った。

「応急手術?」

「折れた骨がズレたままくっつかないように足に重りをつけて牽引するんです。踵にドリルで穴を開けるだけの仮の手術です。すぐに済みますから病室でお待ちください」

 踵の骨にドリルと聞いて斉子は鳥肌が立った。

 やがてストレッチャに仰向けになった夫が運ばれて来た。斉子に気づくと摂夫は小さく右手を上げ「ヨウッ!」と言って笑った。……照れかくしか……。思いのほか元気な夫に斉子の緊張が一気に弛んで、ムカムカして来た。

「なにがヨウッなの。春香の病院を教えたのはあなたなんでしょ? あなた、しゃべれたのよねッ。どうして同じ病院にしてもらわなかったのよ。気がきかないんだから」

「ばかァ、そんなこと言ったって……」

「で、相手の生徒さんに怪我はないのねッ?」

「それは不幸中の幸いでな。あ、そのうち学校の連中もやって来るだろうから、応対をたのむぞ」

 ……不幸中の幸いも不幸はウチで幸いはヨソだ。厄払いしてもらわなきゃだわ……。

 複雑骨折した足は長くかかりそうだったが、他にもハンドルにぶつけて靭帯が切れた鎖骨の片端が摂夫の喉の下にポコリと盛り上がっていた。

「見た目はこんなでもな、ちっとも痛くないんだ、ははは」

 ……強がりなのか、ぬけているのか? 後遺症の心配はないと医者が言ってくれたのが幸いと言えば幸いかもしれない……。

 斉子はとにかく春香の退院までリポビタンDでがんばらなくてはならない。

 斉子はバスとタクシーで二つの病院を何度も往復した後にやっと、すえて粘るような臭いの正体が他でもない自分の体だと気づいた。家に寄って洗濯機をまわし、汗臭い身体にシャワーを浴びた。シャワーを浴びながら泣きたい気持ちになったから実際に泣いたかもしれない、口惜しくて。


 二人分の着替えを抱えて乗り込んだバスで、斉子はうつらうつらした。窓外を見ると、バスは神社を通り過ぎるところだった。

「神社……」

 斉子は反射的に降車ブザーを押してしまった。他に降りる客はなく、彼女は仕方なくバスを降りた。

 神社のあることは知っていたが、春香の七五三は主人の()()だったし、ここには初詣にも来たことがなかった。斉子が神社に〈立ち寄る〉気になったのは、たぶん大学生のときにキリスト教に熱心でなかったせいで、敷居の高い教会より神社のほうが気後れせずにすんだのかもしれない。

 群馬県沼田市──。須賀神社は()()()()を祀った古くて大きい神社だった。初詣、節分、八月の例大祭(おぎよん)はそれなりに賑わいを見せるが、行事のない平日はこんなものかというほど閑散としている。

 斉子は蝉しぐれの中を鳥居をくぐってツカツカと入って行った。……今日も暑くなるわ……。

 重たい綱に力をこめてワニグチを鳴らした。ゴワン、ゴワン。一礼二拍手、さらに一礼。斉子の拍手は大きな音で鳴りひびいた。……へえ、拍手がこんなに気持ちいいなんて。難しい話よりこうして気分がシャキッとするほうが大事だわよ。さ、スサノオさま、しっかり家内安全をたのみます……。斉子は思い切って賽銭箱に五百円玉を投げ入れた。 

 荷物を持って振り返ると、白の着物に浅葱色の袴をつけた男の子が箒の手を止めて斉子に目礼した。利発そうな端整な顔立ちの少年だった。

「きみ、ここの子?」

「はい……」

「そう。広い所を一人でたいへんねえ」

 少年は大人から声をかけられるのに慣れていないのか、俯いて顔を(あか)らめた。

 ……可愛いいッ! こういう男の子ならアタシも欲しかったわ。学区がちがうのでわからないけど、二中の子かしらね……。

 

 春香は術後の経過がよく四日目には退院した。母娘は病院からの帰りにバスを途中下車して須賀神社に寄り、娘が無事にもどれた礼をした。拍手は今度も気持ちよく鳴った。何を教えないでも場所柄がおごそかな気持ちにさせるのだろう、春香も小さな手を打って母を真似た。


 (三)


 そして六年後の冬──。

 ……アッという間だわね、春香が小学校の三年だったんだもの……。

 斉子はひとり須賀神社の鳥居に寄りかかってぼんやりと社殿を眺めていた。六年前を思い出せた彼女が、この日、自分がどうやって病院から帰ったのか覚えていない。彼女の心は鉛のようにずしりと重く、覚束ない足取りでここに辿りついたのだ。

 斉子は以前から身体がだるいと思うことがあった。

 ……あ、また……

 彼女は右眼の奥にパリッと静電気の弾けるような痛みを感じて、思わず両手を鳥居の柱に突っ張った。きつく眼をつぶって痛みをやりすごした。痛みは一瞬で次の瞬間には消えてしまう。必ずというわけではないが、この痛みがあると一日二日して身体がだるくなる。痛みと身体のだるさに直接関係があるとは思えなかった。月に一度ほどの眼底の痛みを彼女は生理に関係したものだろうと素人診断を下していたが、それでも眼の奥というのがやはり気になって、(ふた)(つき)前には眼科をたずねた。若い女性の眼科医は眼圧測定の後、特に異常は見当たらないがくすりを出しておきます、と斉子に処方箋を渡した。薬局で聞くと効き目のおだやかな血圧降下剤だということだったが、だるさとその前兆の眼底に走る痛みは相変わらず襲ってきて、くすりが効いているとも思えなかった。眼科医にその旨を告げると、心因性のものだろうからと心療内科の受診を勧められた。

 ……心因性? 便利な言葉ね……。

 身体がだるくて家事がおっくうになると夫に告げると「お前のはナマケ病だ。くよくよするなんてお前らしくもない。気にし過ぎだ」と言うだけで心配もしてくれない。斉子は夫の言うようにナマケ病かもしれないと思いながら、夫の愛情は確実に目減りしたと思わないわけにはいかない。

 心療内科ではうつ病の診断が下った。だるさは月に一度のことで、ふだんは何ともないから、今度も投与されるくすりが効いているのかいないのかわからない。担当医にそう言うと内科の精密検診を受けるように言われて、斉子はムッとした。……ウツじゃなかったの? 今までの抗ウツ剤はいったい何だったのよッ……。

 それが今度は下山病院で、先日の血液検査の結果とレントゲン写真をくどくどと説明され、斉子は乳癌だということになったのだった。左乳房のしこりは三年も前からできていたという。老齢の院長は事務的に、しかし、必要とも思えないほど長いこと斉子の形よい乳房を触診した。

 ……上外四分圏だとか何だとかむずかしそうなことを言いながら、やるわね、あの院長も、フン。それにしても医者の口から『気を落とさずにがんばりましょう』なんて聞くとは思わなかった。治る見込みが少ないようなことを言うのは不用意もいいとこ……。

 院長は、家族の協力があるとないとでは闘病中の気の持ち方がちがうと追討ちまでかけたのだから、斉子の癌は決定的で治療は長期戦になる。ご家族に協力してもらいましょう、という院長に斉子はやっとのこと小さくうなずいた。こらえていたはずの涙が頬を(すべ)り落ちた。

 病院からの帰り道、午後の三時だというのに彼女の目の前は黄昏どきのように暗かった。

 春香の同級生、武山真由ちゃんのお母さんの亜希子さん、木嶋省吾くんのお母さんの久枝さんもお宮参りから七五三までここでやって、今でも参拝に通っている。高校進学説明会のとき亜希子さんが、『須賀神社のご利益で癌が治った』なんて言ってたけど、まさか、ね……。

 斉子の心が小耳にはさんだそんなことをどこかに覚えていて、須賀神社に足を運ばせたのかも知れない。夫にも娘にも打ち明ける気になれず彼女はひとり焦った。……受験を控えた春香に聞かせる話ではなし、夫ともこの頃は気持ちがすれちがうばかりだ……。

 石造りの鳥居で斉子の身体はすっかり冷えてしまった。彼女は自分を励まして公衆電話に歩いた。……悪い方にばかり考えちゃだめ。春香だってまだまだこれからじゃないの。亜希子さんにそれとなく聞いてみよう。どうすればご利益に与れるのか、どんなご祈祷で、謝礼はどれほどなのか……。

 待ち合わせはPTAでよく使う中央公園前の『セゾン』にした。一足先にと入った、見なれたはずの喫茶店の内部が、この日は双眼鏡を逆さにのぞいたように遠くて、小さくて、暗かった。

 ウェイトレスが注文のコーヒーを運んで来ると、斉子はその匂いに吐き気がした。受け皿でカップにフタをして来るはずの人を待った。亜希子さんが教えたのだろう、喫茶店には省吾くんのお母さんもやって来た。

「どうしたのよォ。電話であんな沈んだ声を出されちゃ心配になるじゃないよォ。ご主人が浮気でもしたの?」

 武山亜希子は笑っていた。

「やだ、そんなんじゃないわよ。アタシの声が沈んで聞こえたってゆうの? やだわ」

  ……夫婦の気持ちがすれ違っても、夫は電車やバスのすれ違いほどにも気にかけていない。ボロが表に噴き出さなければ、生活は良好に営まれているという考えらしい。表面はともかく、心の底のほうでは二人の気持ちは逆方向に流れている気さえする。すれ違いをすれ違ったままにして慣れてしまう夫の神経がわからない。特定の女と浮気していなくたって夫婦の心は離れてしまうことがある。浮気をしなければ妻を放ったらかしにしていいのか。アタシは満たされないで何年過ごしてしまったろう……。

「なあにい、これえ? あーっはっはっ」

 コーヒーカップを見た二人の笑い声で斉子は我にかえった。

「注文してから欲しくなくなっちゃって。よろしかったら、どうぞ。粗コーヒーで何ですけどォ、ははは」

 自分の直面している不幸を感づかれまいと斉子は二人の後から笑ってみたが、ふだん神でも仏でもない女がいきなり神社の話を聞きたいといえば、家庭不和か家族の病気が相場だ。

「だれなの? あなた? ご主人? まさか春香ちゃん?」

 斉子は聞かれたくない質問に答えたくなかった。作り笑いの首を振って、神仏のご加護は本当にあるのか〈単純に〉知りたいだけだと言った。経験者の二人のことだから須賀神社の話になると見込んでのことだっだ。

「いいわ、言いにくいことは無理には聞かない。で、知りたいことって喜代沢長明さんのことね?」

「キヨサワ・チョーメイっていうの、あそこの神主さん?」

「久枝さんとアタシで勝手にそう呼んでるだけ。本当はナガアキラっていうんだけど、アタシらの寿命を延ばしてくれたから長命に引っかけてチョーメイさん」

「ふーん」

「チョーメイさんのことは、口で言って誤解されても困るのよ。あそこを考えてるなら騙されたとおもって一度足を運んでみて。ご利益はゼッタイ間違いないわ」

 亜希子が奥歯に物のはさまった言い方をして、久枝がニコニコとこれにうなずいて言葉を継いだ。

「そうよ。一度足を運んで騙されてみてよっ。アタシさ、子宮筋腫だったけど、どう言ったらいいのかしら、治ったのがチョーメイさんのおかげだってことは確信もって言えるんだけど、証拠はないのよね」

 はっきりしない言い方が斉子には面白くない。……証拠なんてなくていいから、もっと具体的に言ってよ。あなたたち経験者でしょうに……。

 肝心なところをぼやかされて、斉子の知りたいことは一つも教えてもらえなかった。仕方なく斉子の方から話題を子供の受験のことに切りかえると、二人は堰をきったように、塾の女の先生は経営者の年若い愛人で、生意気と色気だけでからっきし指導力がないとか何とかゴシップをやり始めて、結局お茶飲み話になってしまった。斉子は距離を感じた。……信じてみようと思ったのに……。目にジワッとたまるものがあって洟をかんだ。……他人のことを親身に考えてくれる人なんてそうはいないものね……。

 それでも二人は心配顔で別れ際に言った。

「とにかくお大事にね。お役に立てなかったようだけど、須賀神社はゼッタイよ。斉子さんが一度お祓いを受けてからなら、そこは仲間どうし、詳しい話も出来ると思うのよね。信じる者が救われるのは何教だって同じよ、ほほほ」

 ……ご祈祷をしてもらうのに初心者も経験者もないだろうに……。


 (四)


 斉子は左乳房をさすりながら二日ほどぼんやり過ごした。いったん入院してしまうと退院がいつになるかわからないという不安から入院の決心がつかなかった。家を空ければ受験の春香にしわ寄せが行ってしまう。せめて高校が決まるまでのあと一ヶ月は家にいてやりたいと思う。先延ばしするうちにも癌は命を奪いに来るからグズグズしてもいられないが、一刻を争う手術というのでなければ、そのくらいは先に延ばせるだろうと考えた。入院になる前にご祈祷をしてもらおうと思ったのだった。


 斉子は念入りに化粧をして須賀神社の境内に足を踏み入れた。

 ……どうかしてるわ、医者が癌だと言ってるものを神社で何とかしようなんて。神主さんはもうお爺さんらしい。何か危なっかしい気もするし……。

 祈祷にどことなく信用のおけない怖さのようなものを感じて、社務所で気散じのおみくじを引いてみると、思わぬ大吉がでた。病=平癒遠カラズ。見なれない筆文字のかすれた印刷でそうあった。……二人のお母さんと同じご祈祷をやってもらわなきゃ……。

 ごてごてと眩しい金属で威圧するでもなく、煤けておどろおどろしい像を並べて脅すでもなく、須賀神社の社殿は冬晴れの抜けるような青空を背景に、人間の手で浅ましく荘厳されるのを拒んだシンプルなたたずまいだった。清々しさに心打たれた斉子は、神々が降臨するのは人間の思惑という手垢のつかないこうした所なのだろうと思うと、神さまに泣きつくのでなく不思議に任せようという気がしてくるのだった。

 ひょろりと背が高く彫りの深い顔立ちの老人が現れた。

 頭を垂れた斉子の上を榊の枝がバサッ、バサッと行き来した。枝についた御幣が斉子の頭を撫でた。巫女が大きな太鼓をドドンと打ち鳴らすと、束帯姿のチョーメイさんは正面の鏡に向って、大きい漢字と小さい漢字の混じった巻紙を朗々と読みあげた。榊の枝を真横に捧げもって老神主が深々と礼をすると、祈祷はあっけなく済んでしまった。

 立ち上がってお辞儀をしようとすると、チョーメイさんから本殿の裏手にまわるように促された。彼女は拝殿のお祓いに次ぐ、秘儀の第二部ともいうべきものを期待していたので老神官の後をついて行った。……省吾くんのお母さんが「本殿の裏手」と言いかけて、亜希子さんがそれを制したのがここだわ……。

 一組の真っ白な分厚い絹布団が木の床に直に延べてあり、喜代沢長明がその枕もとで束帯を脱ぎだした。

「楽にして横になりなさい」

「ここにですか?」

「治りたくて来たんだろう?」

「そ、そうですけれど……」

 斉子は布団、羽二重だけの男、今ここにいる自分の関係を改めて考え直した。正直なところ、ここまでの心の準備はできていなかった。

「おまいさん、乳癌だな」

「どうして分かります?」

 社務所に出した祈祷依頼書には病気全快とだけで病名までは書いていない。

「ワシは医者ではないからな、手術もせんし、薬も出さん。それで病が治るのだからワシの力でないのはわかるな」

 斉子は黙ってうなずいた。

「本殿の鏡は神器で、ラブホテルのミラーとはわけが違う。さすがに拝殿では畏れおおい。それで裏にまわってもらった」

 ……冗談にしてもプロの余裕にしてもラブホテルというのは品がなさすぎはしないか……。

 真剣な祈祷依頼者の斉子は顔をしかめた。

「ここで何をなさろうというのです?」

 斉子は時間かせぎに答の知れた質問をした。

(まぐわ)うに決まっとろうが。医者が見放した者が現に何人もワシの手で、いや、手ではないがな、治っている。なぜ治るかなど知らんが、ワシと媾った女はみな生命を永らえる」

 ……バカなッ。亜希子さんも久枝さんもこの爺さんに抱かれて治ったというのか……。

 神主は羽二重を脱ぎかけていて、顔にはすでに冗談の気配はなかった。

「祈祷を授けたのに決心が萎えたか? ふむ。ま、そういう女もいるな。宣命(せんみよう)を含めたいところだが、ワシとてなぜ相手になった女だけが助かるのかわからん。常識では考えられんことくらい百も承知だ。はっきりせんことで賽銭をもらうわけにも行かんので宣伝はせん。人助けができればワシの使命は全うされる、それだけのことだ」

 喜代沢長明はふっと溜息をつき、解きかけた帯を締めなおすと、斉子に半歩近づいて胡座(あぐら)をかいた。

「ま、座れ」

 喜代沢長命は問わず語りに話を続けた。

「ワシがちょうど七十のときだ。なんの拍子かワシの中に久しく忘れておったものがムラムラと湧き起ってな、体の一部に血がみなぎって若者のように熱くなった。斎戒沐浴をすませて拝殿に昇るのが常だが、このときはどうにも我慢がならなかった。それで、厄払い来た四十女を手込めにした」

 神主のあからさまな言葉に斉子は唖然とした。……なんで自分の不利をわざわざ言うのだろう……。

「神に仕えて五十年のワシが、あれは一体どうしたのだったか。ワシは(おのれ)に起った劣情にガクゼンとしたな。ワシにも立場がある。氏子ばかりか、ここに来る者はだれ一人ワシを疑わん。それを女を手込めにするなどあってはならんことだった」

 ……踏み止まれなかったのはアンタが好色だからじゃないか……。

「決心の鈍ったお前には言い訳にしか聞こえまいが、ワシは背中を押されていたのだった。背後に声を聞いたように思った。『お前にみなぎった力を女に与えるのだ、惜しむなッ』と言われた気がしたな」

「それが啓示だったのですか?」

「今にして思えばな。次にはそれが一段とはっきり聞こえてな、ワシとしてはもはや疑いようがなかった。『女を救わんのか。世間の誤解をおそれて女を見殺しにするか。それでいて素戔鳴尊の名を(かた)るか』とな。しかし、ワシはそれを聞いてもまだ迷っておった。当然だ、女を救うために陵辱せよとは大学でもどこでも教えちゃくれなかった」

「大学?」

「ワシの通った神道学科はひどいところだった。神社の実入りを減らさぬように実力のある仏教やキリスト教の宗団とはうまく折り合えと叩き込まれた。弱腰の神社経営学科だな、ははは。常識に飼い馴らされてあたら人生の大半を過ごしたと気づいたときには五十を過ぎていた。ワシは五十二で初めての子供を授かった」

「ずいぶん遅かったんですのね?」

「大変だったのは家内のほうさ。ワシと同級の五十二で初産だったからな」

「まあ……」

「とにかくワシには守らねばならぬものが出来た。収入を増やさにゃならん。神主の逃げた貧乏神社をかけ持ちしたり、ほら、そこの県立女短で講師をしたりな」

「大学の先生をされたのですか?」

「生活のためだ。古事記を上代文学として教えろと言われたのは面白くなかったが……」

「アタシには文学と宗教の区別がどんなかも分かりませんが……」

「ほう、お前さんは文学をやりなすったのかい?」

 喜代沢の眼が光った。

「区別はむずかしいな。どっちも人を狂わせる。ワシにも正気と狂気の区別がつかん、あっはっは」

 神社に来た目的を思えば中途半端では帰れない、かといって秘儀に与る決心もつかない。斉子は神主の話をただ長びかせたかった。そして喜代沢の話は長引いた。

「宗教というのはな、(きよ)の世界だ。いや、虚といっても嘘っぱちやでたらめというのではないぞ。この世は虚実の入り混じった世界で、虚を知ってこそ実の世界が充実する。実の世界を充実させる見えない力が宗教だということさ」

「…………?」

「人は欲に駆られて実利に走るが、虚の世界を知らんでは(じつ)がむなしくなる。坊さんたちは(くう)と呼んでるが、ワシは仏教もキリスト教も知らん。何教にせよ、人が充実した生をいきるには虚心坦懐ってことだろうよ」

「おっしゃっていることがよくわかりません、虚とか実とか……」

「ふむ。お前さんの癌が実で、ワシの所に求めに来たものが虚だ。世の中はさ、虚と実のギッタンバッコン」

「虚と実がシーソーをするのですか?」

「自分一人じゃ上がりも下がりもすまいが? 反対側に自分でない何者かがいて自分のほうが上下する。宗教は見えない相手を感じるギッタンバッコンだ」

「…………」

「自分ひとりで上がり下がりしているなんて錯覚だよ。宗教も文学もギッタンバッコンの尻の感覚だよ。それで自分が虚に求めるもの、自分を動かすものが何かわかる。ま、宗教も文学も理屈ではないという理屈だな、あっはっは」

 斉子は喜代沢の饒舌につきあっていればよかった。

「しゃにむに働いてそれでよいと思っていたが、せがれが大学に受かって一安心したらワシは七十の老人になっていた。そこで己れの使命を改めて考えてみたが、考えてみるまでもなくワシは神主なのだった。このまま神社の管理人で無事につとめ終えるか、余命を素戔鳴尊の意志を実践する宗教人として生きるか。(よわい)七十のハムレットだった、あっはっは」

「迷われた……」

「ワシも神社を一つ任された宮司だからな、ロクに先のなくなった齢になってたかが女一人でヘマはしたくないという気があった。しかし、祈祷を受けに来た者が信じておるものをワシが信じないでは、それこそ宗教に対する冒涜だ」

「それで七十才にして真の宗教者の道を選ばれた……」

「そうだ。だが、理屈からではない。虚の世界は人には極められん。感じる世界だ。ワシは背中を押す力に改めて従う決心をしただけだ。そして四十女の眼をのぞきこんだ。すると……」

「…………」

「女は自分から帯を解きだしたな」

「眼を見ただけで?」

「そうだ」

「その女性は神主さんの背後の力にその場で帰依したということですか?」

「そうだろうと思う。女が身をまかすのはギリギリの決心だろう。女も厄払いに来たときにはもう覚悟が出来ておったのだな。女はまばたきもせんでワシを見た。最後の望みをワシに賭けてきた眼だ。何が起こるかもわからんのに、いや、わかっていてなお、待ち望んでいる風情だった。そんなわけだから、ワシが女を手込めにしたという言い方は正確ではない」

「占いのように理解を超えた力を信じるか拒むか、二つに一つということですか?」

「はっはっは、占いはよかったな。当たった外れたですんでしまえば楽でいいわなあ。占いなら商売になろうが、信じた者、信じられた者の間に確かな力が通い合わんことには宗教とは呼べん。女はワシの背後の力を感じ取って救われると直感したのだな、素直にワシに身をまかせた。そして媾いがすむと、何事もなかったように身じまいを整えて本殿にまわった。拍手を打つ音が聞こえて、女は帰っていった」

「…………」

「それから一週間ばかりして、女が、その節は、とお礼詣りにやって来た。連れ立って来た亭主も、妻がはつらつとしてふさぎ込むことがなくなった、暗い影がすっかり取れて別人のようになったと大変なよろこびようでな。以前にもまして夫婦円満に暮らしていると言うので、ワシは使命が果たせたと思った」

「…………」

「素戔鳴尊というのも人を助ける力に付いた名だな」

「そのご主人という人が神主さんとその女性とのことを知らなかったからでしょう?」

「さあ、女がどこまで亭主に打明けたものかワシは知らん。女房を自分のものだと思っている亭主なら姦夫のワシを許そうはずがない。女房を寝取られたバカな夫だと世間の笑い者になる。知らぬが仏なら仏がよいのさ」

「知らなくていいことまで知って奥さんの快復をよろこべるものでしょうか?」

「よほど女房が可愛かったんだろうよ。女房はそうした亭主でありがたかったろうよ。夫婦円満だと言うのだから、そういうことだろうさ」

 ……そんな夫婦が実際にいるんだろうか。いるとすれば何と羨ましい夫婦だろう。四十才といえばアタシと変らない。アタシだって夫に愛想が尽きたわけではない。夫婦仲が今のようでは思春期の春香にだっていい影響はない。どうしても健康な身体を取り戻して心身ともに夫から愛されなくてはならない。そのためにも治らなければならない。治るためには……。

 斉子が老神主の眼を見ると、逆にのぞきこまれた。その眼は夫にはついぞ見たことのない若々しい力に耀いていた。老人はすでに素戔鳴尊だったのかもしれない。斉子は自分の体が老人の眼の中に吸い込まれていくような気がして思わず目をつぶった。そして再び目を開けたとき、自分の居場所としての布団以外は何も眼に入らなかった。彼女はスカートのホックを外し、延べられた布団に横になった。

「うむ、これより須賀神社宮司喜代沢長明は素戔鳴尊の意志と力を田所斉子に取次ぐ。受入れいッ!」

 老人とは思えない、斉子の骨を折らんばかりの力だった。ぐいっと引きつけられて彼女は息ができなくなった。体が触れ合った瞬間に炎のようなものが股間から脳天を突き抜けて行き、身体に火がついたようだ。頭はしっかりしているのに何も考えていなかった。やがて炎の勢いが収まってくると、自分の体に内側から熱い液体がみなぎってきて身体中を駆け巡った。あれは、身体を治したい一心がひき起こした幻覚だったのか。あの炎は善でも悪でもない──力だ。あれが生命を維持する力だったのだ。斉子は見えないはずのものが見えたと思った。身体が別人のように軽い。治ったわけではないだろうが、治った気がするのも不思議だった。医者の方に残されていなかった時間が、ここには滔々と流れている。それがアタシの身体に流れ込んだのだ。時間というのは別の世界に湧き出してこの世に送り込まれてくるものかもしれない。斉子はこうした感覚は他人に話しても分かってはもらえないだろう、寿命というのはこれを言うのだろうと思った。

 ……夫は信じないわ。信じてもらうには乳癌が直ったことを病院で確認してもらわないとね。いきなり言ってあの頑固者が認めるわけないもの。だいじょうぶ、アタシの身体の中には時間がある……。


 (五)


 ダイニングで期末試験の採点を終えた摂夫にウィスキーの水割りを作りながら斉子が聞いた。

「スサノオっていると思う?」

「なんだ、いきなり?」

「あなたは信じないわよね」

「だから何だよ、それは?」

「じゃ、アタシが乳癌だったって言えば、信じる?」

「えッ、おいッ、お前、乳癌なのか?」

「もう治ったわ。驚いてくれただけでもアタシ、よろこばなきゃいけないかしら、ははは」

「ばかッ。たちの悪い冗談は止めろッ」

「ホントの話よ。お医者さまはアタシの癌、三年は経っていたろうって」

「まさかァ。お前、入院なんかしなかったじゃないか。癌なら摘出しなきゃならんだろが。ひとを担ぐのもいい加減にしないと終いには怒るぞっ」

「先だって病院に行ったらアタシの乳癌、影も形もなくなってたわ。お医者さまは首をひねってらした。申し訳ないけど何だかすごく愉快な気分。あはは」

「ほら見ろ、元からなかったんじゃないか」

「あったものが無くなったからお医者さまが不思議がったんじゃないの。ね、よろこんでくれるでしょう?」

「信じられんなァ、そんなこと」

「ね、よろこんでくれるの、くれないの?」

「こう見えても科学者のはしくれだからな。この目で見るまでは、よろこべない」

「そ、疑ってるわけね。じゃ、病院へ行ってみなさいよ。レントゲンもカルテも残ってるわ。でも、ガッカリだわね、見るまではよろこばないなんて、アタシを愛してないってことだもの」

「なに言ってんだ。愛してなきゃお前と結婚なんかしてないだろ?」

「またそうやって逃げる。むかし愛してたってことが今も愛している証明にはならないでしょ。一度でも愛されたことのある女がその実感をなくすのはたまらないものよ。夜だって生理的なだけで、変わったわよ、あなた。何年も同じ乳房をまさぐっていてシコリに気づかないんだから、はしくれ科学者の目というのも当てにならないわ」

 摂夫はカチンときた。

 ……俺はお前と春香を養ってきたんだ。それを愛していないなどと言わせてたまるかっ。俺の愛情が一時ほどじゃないにしても、それなりに満足するのが妻ってもんだッ……。

 喉まで出かけた言葉を飲みこんで、摂夫は言い換えた。

「どこの夫婦だって同じだ。男は年相応にやることがふえて来るんだ。いつまでも新婚みたいにベタベタしてるわけにいくかよ。常識だ、そんなこと」

 摂夫には身体つきが急に大人びてきた中三の春香が、このごろは何かと言えば母親に味方するようになったのも面白くない。こんな話を春香に聞かれでもしたら面倒だ。

「よしッ。明日、病院に行って確かめてくるッ。それにしてもお前がそんな非科学的な頭だったとはな。結婚前に気づいていたらなァ……」

「ひどいッ。どっちの頭がたしかなのか病院でとっくり聞いてきたらいいわッ」


 (六)


 白髪頭にべっとり整髪料を塗った院長の下山が摂夫の前で首をひねった。

「ウチの評判にも関わるし、守秘義務というのもあるから、このことは内々にお願いしたいですな……」

「ご心配には及びません。決してご迷惑はおかけしませんから」

「旦那さんね、実は私にもサッパリわからんのです。いや、奥様が治ったのだから結構な話じゃあるんですが、どうも腑に落ちません」

「じゃ、家内がこちらに伺ったとき乳癌だったというは本当なのですか?」

 院長はうなずきながら、蛍光灯の点いたボードに証拠のレントゲン写真を何枚も差し換えた。

「医学的にはあり得ることですか?」

「皆無というわけではないでしょうが、まれもまれで医者としては信じたくないですね。ただ……」

「ただ、なんです?」

「まれなはずが、どうも奥様だけじゃないんです。他にもウチの患者ですが、ここ二、三年で六人ほど」

「六人もいるんですかッ!」

「しッ。大きな声を出さんでください。乳癌が他に二名、子宮筋腫が二名、心筋梗塞が一名……。精神科からもアルツハイマーの患者が一人完治したと報告が来てるんです。いや、原因はともかく、ウチで治ったなら宣伝になって結構ですが、よそで治られては逆宣伝です。医者にとって評判ほど恐いものはありません。ま、この六名は他の病院にかかったようすもないですから、それも考えられんのですね。追跡調査をやろうにも、だれからもOKがもらえません。学会にも報告できんのです……」


 キツネにつままれたような思いで帰宅した摂夫を斉子が得意そうに出迎えた。

「どうでした、病院の方は?」

「探究の余地ありだそうだ」

 摂夫のふて腐れた言いっぷりに斉子は機嫌よさそうに笑った。

「それってどういうことなんでしょうねえ? おーっほっほ」

 妻の勝ち誇った笑い声は夫の癇にさわった。

 摂夫はひとり書斎に閉じこもると本棚のウィスキー瓶からゴボゴボと湯飲みに注いで、一気にあおった。……科学が挑まれている? 何に? 斉子のやつ、スサノオとか言ったな、俺に宗教を信じるかとも。はァ、妙なものに凝ってくれたな。よし、情報を集めて分類整理して、あいつが何に首を突っ込んだのか突き止めてやるッ……。

 一方で斉子も考えていた。……夫は、宗教に()ちるとか(はま)まるといったイヤな言い方をする。宗教など信じる者は理性を行使できない低級人間だとまで言いきる。夫が軽蔑する宗教に妻がオちてハマったとなれば無神論者のプライドが許さないのだろうけれど、いくら非科学的でも自分の妻が命を取りとめたことを素直によろこべないのは致命的よ。ウチの愛も干涸たわね。チョーメイさんが聞かせてくれたご夫婦のようにはとてもなれないわ……。


 摂夫は春香のいないときを見計らって台所の斉子を訊問した。

「だから、スサノオ様のお力を授かったからアタシの乳癌が治ったんですってば。でも、あなたは別にうれしくもないのでしょ?」

「ヤマタノオロチを退治したスサノオか? あんなのは根拠のない神話だぞ」

「そうね。非科学的なおとぎ話を聞いても仕方ないでしょ」

「いいから、聞かれたことにだけ答えろっ」

「まっ、アタシに命令? 刑事ドラマみたい」

「どこでスサノオの力をもらったんだ?」

「中町の須賀神社ですよ。亜希子さんも久枝さんもあそこのスサノオ様に治していただいたのっ。もう、いいでしょ。春香がじきにお腹をすかして帰ってくるんだから、じゃましないでちょうだいっ」

「亜希子さんと久枝さん?」

「武山さんとこよ、マユちゃんのお母さんと省吾くんのお母さんッ」

「武山さんとこが乳癌で木嶋さんが子宮筋腫だな?」

「驚いた。よくご存じですことッ」

「神社だから、みんなお祓いを受けたのだな?」

「そうよ、時期は別々だけど。ね、もういいでしょ。夕食が遅くなるわ。後にしてッ」

 春香が塾から戻っておそい夕飯になった。摂夫はそそくさと食事を済ませると、珍しく食器を重ねて、そのまま自室に引きあげていった。食器を重ねたのは夫婦いっしょに寝る合図で、斉子が応じられないときはその場で食器を伏せる決まりだった。母親は娘の食べている前で、よそってある自分の食器をひっくり返すわけにいかなかった。

 ……なんてこと。冷戦続行中だというのによくそんな気になれるわね。どういうつもりよ……。

 斉子は寝室で夫から根ほり葉ほり聞かれるのはたまらないと思った。水掛け論の平行線になるのはわかりきっている。……理解しようというのじゃない、覆そうというのだわ。夫には宗教も論証できない不完全な対象でしかない。しかし、アタシは切羽つまってた。好きとか嫌いじゃすまなかった。スサノオ様を選ばなくてはならない事情を抱えていた。たしかにアタシには理性を働かせる余裕なんかなかった。神さまに救ってもらおうとこの身を投げ出したのは勇気なのに、夫には子供の向う見ずにしか見えない。夫にはアタシが狂って見える。得体の知れないモノを信じられては科学教徒のコケンにかかわるとでも言いたげだ……。


 (七)


 寝室のドアを開けるとタバコの臭いがした。

「ここでタバコは止めてって何度も言ってるでしょッ。副流煙が猛毒だくらい化学教師が知らないはずないでしょうに、まったく」

「いやぁ、すまん、すまん」

 頑固な摂夫が珍しく素直に謝った。タバコの臭いを口実に自室に引き下がれると思った斉子は謝られてきっかけを失った。

「スサノオの須賀神社さ、神主ってだれだ?」

「チョーメイさんよ。喜代沢ナガアキラ……」

「なにッ、ナガアキラ? じゃ、息子はモトアキラって言わないか?」

「喜代沢さんを知ってるの? 名前まで知らないけど息子さん、東大に行かれたのだそうよ。アタシ、一度しか会ってないけど、ほら、春香が盲腸で、あなたが交通事故のとき。可愛い坊っちゃんだったけど、ハンサムで立派な青年になってるんでしょうねえ。何たって東大が魅力よねえ。春香を、ううん、アタシをもらってくれないかしら、あっはっは」

「バカッ。冗談にもそんなことは言うなッ。どだい東大が何だってんだッ」

「どしたのよ? アタシ、あなたが三流私大だなんて一言も言ってないじゃないのォ」

「お前、ケンカを売ろうってのかッ」

「あら、アタシ、部屋に帰ったほうがいいの?」


 摂夫にいやな思い出がよみがえった。担任こそもたなかったが、喜代沢長明の息子、素明(もとあきら)に化学を教えたことがあった。素明は数学も物理も化学も学年でいちばんの秀才だったが、摂夫がほめても少しもうれしがらなかったし、理系への進学を熱心に勧めたときには「当り前の理屈を有り難がるつもりはありません。ボクは宗教家になって人々の役にたちたいと思っています」と見事に突っぱねられた。摂夫は素明の「当たり前の理屈」という言い方に、自分の化学知識までバカにされたようで、素明のことを憎たらしいガキだと大人気なく腹を立てた。

 ……そうか。アイツの親父だったのか、くそっ……。

「治った人はみんな同じお祓いをしてもらったんだな?」

「そうよ」

「どんなお祓いだったんだ、それ?」

「普通のご祈祷でしょ。別に変わったものじゃなかったと思うけど……」

「普通のお祓いなら普通のご利益しかないだろ? 癌や子宮筋腫まで治るというからには尋常なお祓いではあるまい?」

「そうかなぁ?」

 夫が信じてくれそうもないのがわかっている斉子はとぼけた。

「霊験あらたかな御神水とか言われて、変なものを飲まされたってことはないか?」

「そんなのなかったわよ」

 ……病気の種類がまちまちなのに六人そろって完治ってのもわからない。病巣を物理的に摘出したなら喜代沢は医事法違反だ。薬を使ったなら薬事法違反。化学物質の薬効でないとすれば何で病気が治る? 病は気からとは言っても気力で癌の病巣がなくなるか? 偽薬? いや、斉子は何も飲んでいない。こいつの身体に触れずにコバルト照射にまさる気力がお祓いから生まれてくるとでもいうのか、わからん……。 

「お前、神主のお経で眠くなったとかおかしな気分になったとかは?」

「あはっ、神主のお経はよかったわね。そう言えば……」

「そう言えば、何だッ?」

「うまく言えないけど、亜希子さんのときも久枝さんのときもそうだったって言うから……」

「じらすな、何なんだ、その共通したものは?」

「ご祈祷の後半で夢を見たような気分になったわ」

「どんな夢だ?」

「身体がこう浮きあがってさ、アタシはゆったりした感じなのに外側がもの凄いスピードで動いているらしいの。それが妙にまぶしい所に向って進んでいくの。頭は何も考えてなくて、不安もなくて、そのうちにすっごく気分のいい高波が何度も打ち寄せて来てさ、それにさらわれて行くの。思わず大声をあげたくなるよう大波ね。やったことないけどサーフィンみたいな感じなのかなぁ。気分がぐうーっと高揚したかと思うと次には安心感の中で癒されてて、それがくり返されてどんどんシアワセなうねりが続くの。アタシをつなぎ止めてたものがぜーんぶ外れてさ、そのまま宇宙の果にスウーッと……」

 ……催眠術だったかバカらしい。いや……。

 摂夫はフロイトの『夢判断』くらい読んでおけば良かったと思った。

「その夢に何かモノは出てこなかったか? 鉛筆とか包丁とかホウキとかさ。その夢の中の移動手段はロケットだったのか? サーフボードだったか?」

「ロケットなのかなァ。炎の柱のようなものに跨がっていたような気もするけれど、やっぱりわからない」

「炎の柱に馬乗りに? 火傷するだろ?」

「夢の中で火傷して目が覚めたら薬を塗るのォ? アーハッハッハ、バカみたい」

「お前、お祓いの文句は解ったのか?」

「チンプンカンプン。でも心にビンビン響いてた。あれって五感への刺激じゃなかったと思うわ」

「お前、気はたしかだったんだろうね?」

「夢の中で覚醒している自分に気づけって方が無理じゃないの」

「サッパリわけがわからん」

「それはそうと、アタシを呼んどいて、あれはするの、しないの?」

「もう少し考えてみないことにはな。今夜は別々に」

「何なのよ、それッ! もう、頼まれてもさせてあげないからねッ!」

 斉子はプイッとつむじを曲げて寝室を出た。


 (八)


 摂夫は考えた。

 ……おかしいじゃないか。刺激もされないのに刺激反応が起って、それが記憶されている? そもそも原因がないなんてバカな話があるか。ん? 化学物質が神経を直接に刺激するってことはある。でも斉子は何も飲まされていない。物理的な刺激で内分泌のような生理的反応を促すということはできるのかもしれない。それが今度は別の感覚器官につながる神経を刺激する。するとそれで幻覚を見せるってことも出来るってわけか。ああ、頭が混乱してきた。斉子のやつ、いったい何でそんな夢見心地になったんだ? 夢見心地──恍惚感。物理的刺激によるエクスタシー? 大声を出したくなるような波? 炎の柱……。

 堂々めぐりの摂夫の頭に、突如、経験したことのないどす黒い疑念が噴き出した。彼は何度か深呼吸をして冷静になろうとした。

 ……ま、まさかッ、斉子がヒヒ爺に? 難病が完治したのが女ばかりというのも臭い。なんてことだッ。素明の親父はいったい何才なんだ? あいつが高二のときにはもう七十の手前だったんだからな……。


 摂夫はベッドの上に胡座をかいて頭を抱えこんだ。自分の推理がどこかで誤っていてほしかった。自分の考えたことを忘れたいと思った。

 真夜中過ぎの廊下を書斎へもどる途中、摂夫は春香の部屋のドアをノックして開けた。春香は机に向かったままキョトンとした顔を父親に向けた。

「ずいぶん遅くまでがんばってるんだな、何か持って来てやろか?」

「いらないよ、もう終りだもん。それより、お父さん、顔色よくないよ。どしたの?」

「いや、何でもない。あまり無理することはないぞ。受験の基本は学校の勉強だからな。じゃ、おやすみ」

 ドアを後ろ手に閉めると摂夫の目から涙がこぼれた。彼は書斎の椅子に座って、うッうッと泣いた。……これから巣立つ娘があるというのに家庭が壊れてしまった。あいつがウチを壊したのだ。神主どころか悪霊だッ。いや、俺は霊なんか信じやせんぞ。喜代沢のくそ神主めっ、ただでおくかッ……。

 しかし、摂夫は一しきり喜代沢長明を罵ると、今度は無言で自分を罵っているのだ。

 ……斉子を放ったらかしにした(ばち)でも下ったか。いや、罰なんて訳のわからないもんを信じちゃいないが、癌に気づけなかったうっかり者だったことはたしかだ。乳癌を宣告されて行き場のなくなったあいつが、春香のために、俺のために何とか治ろうと見えない力をたよってあのくそ神主と……。ええい、くそっ。あの喜代沢のくそ神主めが。俺の斉子に何てことをしてくれたッ。斉子、なんでこんなことになったッ! ええい、くそ神主め。今に見てろよッ……。

 摂夫は書棚の下の引出しからサバイバルナイフを取り出した。飲み過ぎた彼の眼はすわっていた。彼はサックをはらって思い切りナイフを机に突き立てた。


 (九)


 翌る朝、摂夫はひどい二日酔いだった。

 学校に欠勤の電話を入れて、ダイニングで昆布茶をすすった。

「ずいぶん飲んだのね」

 こともなげにそういう斉子の尻の辺りを見て、摂夫は無性に腹が立った。機嫌の悪いのを二日酔いのせいにして、やたらと昆布茶を飲んだ。飲み過ぎた喉はそれをほしがった。前夜は喜代沢長明を殺してやろうと本気で思ったが、一夜明けてみると、家庭崩壊を世間にさらすような事件は起こせないと思いなおしている。しかし、あの悪夢のような推理が本当なら、摂夫の生きて来た四十五年でこれほどの屈辱もないのだった。

「おい、斉子。ちょいと散歩がてら須賀神社へ行かんか?」

「え?」

「乳癌のお礼詣りがまだだろ? 俺もちょっと確かめたいことがあるしな」

「それを言うなら、お詣りがてらに散歩でしょ。実はどうしようか迷っていたの。お礼があまり少なくてもナンでしょ? 亜希子さんにでも聞いてみようかと思ってたところなの。額が大きくなればあなたの了解がなきゃ困るし、それにここんとこのアタシたちはそんな雰囲気じゃなかったでしょ」

「お礼ならお前が好きなだけ包んだらいいさ」

 斉子には夫が素直にお礼参りするとは思えなかったが、いつの間にか手回しよく礼服を羽織っているのを見て、恰好だけはつくだろうと自分も出かける支度を始めた。


 大通りを須賀神社に歩いていく二人に後ろから武山亜希子が声を掛けてきた。

「朝からおそろいでお仲がよろしいんですのね、ほほほ」

「あら、そちらこそじゃございません?」

 摂夫は武山源次に、会釈し、ちょうど都合のいい所で会えた、と付け足した。源次は摂夫より二才年上の造園業者で、二人は父親参観日に話して面識があった。

「この私に話? それはまた。で、田所先生は今日はどちらへ?」

「須賀神社にちょいと。それが夕べ深酒をしましてね。出るには出て来たんですが、酒臭いまま神社に踏み込むのもどうかと考え直そうと思ってるところです、ははは。で、源次さんは?」

「ごらんの通り、カミさんのジョギングにつきあっているだけすよ。午後はデパートに行くと言ってたですが、そっちは断ります。内緒ですが、ここんとこ競馬がやけについてましてね、へッへッへ」

 女どうし、男どうしで話が始まった。摂夫は武山を少し離れた所に誘って小声で話しだした。

「実はですね、身内の恥をさらさにゃならんですが、これは源次さんちとも関係なくはないと思うんです」

「…………?」

「奥さん、乳癌だったのじゃないですか? いや、ウチもそうだったんです。今はああして二人ともピンピンしてますがね、どうして治ったんだと思います?」

「そりゃ下山病院で……」

「手術をされましたか?」

「いや、それはなかったですな。早期発見できたおかげで薬だけですみました」

「じゃ、やっぱりご存じないのですね?」

「どういうことです、いったい?」

「昨日の、それも夕方の話です。下山病院の院長が、二、三年前から急に乳癌やら子宮筋腫やらが治ってしまうケースがあって、原因がわからないと当惑していたのです。私も家内のレントゲンを見せてもらいましたが、病巣がハッキリ写っているんですね」

「先生はウチのやつのもそうだったと言うんですか?」

「奥様の下の名前は亜希子さんっていいましたよね?」

「そうですが、なにか?」

「イニシャルはAですね。四十五才ですか?」

「私と同い年の四十七です。先生、いったい何なんです、これは?」

「では、病院にかかったのは一昨年でしたね?」

「よくわかりますね」 

「写真の入った家内の封筒に「S・T、四十五才、女、ブレスト・C」とマジック書きしてあったんです。そして同じ封筒に「A・T、四十五才、女、ブレスト・C」とありましたのでね、ひょっとしたら源次さんとこかなと思ったんです。家内があなたのところも乳癌が治ったと言ってましたから」

「何ですね、そのブレスト・Cてのは?」

「乳癌だと思います。いや、治ったのだから万事めでたしというのなら、こっから先の話は差し控えますが……」

「気になる言い方ですね」

「問題は治り方なんです。癌の病巣がいっぺんに跡形もなく消えてしまうもんでしょうか? いや、あの封筒が奥様のものだとすると、乳癌はかなり進行していたと思われます。家内のと同じケースが前にもあったと言って見せた封筒だったですから」

「じゃ、田所先生はなんで治ったのだと?」

「お祓いです」

「ええッ? アーハッハッハッ。先生も人が悪いなあ、そんな冗談で人を担ぐなんて」

「ぼくだって冗談であってほしいですよ」

 摂夫が院長とのやりとりを再現してみせると、源次の顔から笑いが消えていった。

「で、そのお祓いってのは?」

「須賀神社の喜代沢長明という神主の祈祷です。これがどうにもうさん臭いというか、いかがわしいというか……」

「そこの須賀神社ですか? ウチのやつは乳癌で一騒動してからあそこに通ってます。いかがわしいと言われては聞き捨てなりませんね」

「宗教がどんなものか、喜代沢なる神主にどんな霊力があるのか知りませんが、その祈祷には肉体交渉が含まれているフシが濃厚です」

 汗のひいた顔を首にかけたタオルでしきりに拭っていた源次の血相が変わった。

「な、なんだってッ?」

 摂夫は昨夜酔った頭で考えたことを彼に告げた。

「わ、私らは女房を寝取られたって言うんですかいッ?」

 多血質の源次は自然と声が大きくなった。

「しッ。二人に聞こえますッ。残念ですが可能性は極めて大です。ぼくは何としても腹の虫が収まらないもんで、お礼詣りのフリをして確かめに行くところなんです」

「あのアマ、トンデモネエことをしでかしゃあがって。ブッ殺し……」

「いや、ぼくは源次さんの奥様のことはわかりません。ぼくの家内がしゃべったことをつなぎ合わせてこんな結論になっただけですから……」

 源次の息づかいがハアハアと荒くなった。

「でもウチのやつは保険がきかないと言って、たしかぶ厚い封筒を……」

「癌の特効薬はまだ出来ちゃいないですよ。それが喜代沢への謝礼にまわったとは考えられませんか?」

「先生ッ、この話、一枚噛ましてください。で、どう仕返しするつもりです?」

「ぼくだって若い独り者だったら何をしていたかわかりません。いや、若くなくたって……」

 摂夫は内ポケットのナイフを礼服の上からたたいた。

「ここに少し物騒なものを持って来てはいます。でも、源次さんもそうですが私たちには家族もあれば立場もあります、新聞ダネになるようなことはできません」

「女房を寝取られて、泣き寝入りは出きねえよ、先生ッ」

「訴訟を起こそうにも証拠がないんです。まさか癌が治ったでは証拠にならんでしょう?」

「なに言ってんですか、強姦は親告罪ですよ。被害届けを出しましょうよ」

「警察まわりの新聞記者の餌食になりますよ。世間に恥をさらすことになります。何よりお宅の亜希子さんもウチの斉子も親告はしませんよ」

「じゃあどうするんです? エロ神主を見逃すんですってんですかッ!」

「相手は海千山千で簡単に尻尾は出さんでしょう。口惜しいけれど、喜代沢長明に事実を認めさせて二度とこうしたことのないように謝罪させるしかないと思うんです」

「そんな生ぬるいことで気がすみますか? 女房を寝取られてんですよ。腕の一本もへし折るとか、慰謝料のたとえ何百でもふんだくってやりましょうよッ」

「気持ちはわかりますが、源次さん、こうしてください。ウチの場合ほぼ間違いないのです。ぼくが冷静に話を進めますんで、神主が事実を認めたときに、きゃつの腰が抜けるほど凄んでやってください。これは小道具として渡しときます」

 摂夫はズシリと重いナイフを武山源次に預けた。

 男ふたりの話がまとまって、摂夫は武山夫人と談笑中の斉子に声をかけた。

「武山さんの奥さんなあ、デパートに行かなきゃならんそうだ。お引きとめするのはそのくらいにしろよ」

 摂夫は武山夫人に言った。

「奥さん、ちょいとお力添え願いたいことがありましてね、一時間ほどご主人をお借りできますかね?」

「あんな者でお役に立つんでしたら、ははは、どうそご遠慮なさらずに」

「亜希子ッ、田所先生のお伴だ。一時間ほどで帰るからよ、出かけるんなら昼メシの支度をして行けよ。いいなッ」

 源次の亜希子を見る目は前よりずっと険しくなっていた。

 斉子がヒジで摂夫の脇腹を小突いて小声で聞いてきた。

「あなた、どうして武山さんを?」

「オブザーバーだよ。俺たちの話を聞いてもらう。ま、いいから」

 ……やっぱりただのお礼詣りとは様子がちがうわ……。


 (一〇)


 拝殿に昇った男二人女一人の前に、(しやく)を持った束帯すがたの喜代沢長明が現れた。

「神主さん、今日は家内とお礼に伺いました」

 喜代沢はにこっと微笑んだ次の瞬間、目を見開いて顔を強ばらせた。ジャージ姿の源次がサックのついたサバイバルナイフをこれ見よがしに握っていたからだ。

「そういうものはしまっておきなされ。ここでは用のないものだ」

 源次はヘッヘッと笑いながらもったいをつけてナイフを脇に置いた。

「あんたらのお知合いか。変わった人だの」

 喜代沢が聞いたが、摂夫はそれに答えなかった。

「本日はお礼詣りの他に確認せねばならぬことがあって伺いました」

「何か?」

「実は、先日、家内を診察した医師のところに参りまして、つかぬことを聞かされましてどう考えたものかと……」

「何を聞かされたと?」

 摂夫の思いもかけぬ言葉に斉子が礼服の袖を引っぱって夫を制した。が、摂夫は止めなかった。

「医師は、家内の乳癌が一瞬といっていいほどの間に、跡形なく消えたと言います。医学の常識では考えられぬと言っておりました」

「ふむ」

「私もあれこれ考えて、あなたの祈祷の他に家内の乳癌を治したものはないと結論するに至りました。しかし、私にはどうしても祈祷で癌が治るとは思えんのです。確認というのはそれです」

「ふむ。たしかに。ワシのお祓いで癌が消えるくらい珍しくもないが……」

「私も自然科学の一学徒として、癌を瞬時に消滅させる祈祷がどんなものなのか見届けて来るとその医師に約束したのです」

「ふむ」

「ふむ、ふむ言ってんじゃねえよッ、偉そうにふんぞり返りやがって。やいッ、このクソたれ神主ッ。俺の女房に何しやがった。サッサと白状しやがれッ」

 突然の源次の罵声に、斉子の顔からサアーッと血の気がひいた。歯の根がかみ合わない口に片手を当てて横坐りのまま後ずさった。後ずさったあとが濡れていた。源次はもう老神主の首をへし折らんばかりの勢いで、摂夫がやっとのこと後ろから抱きついた。それでも老人は泰然としていた。

「騒がしい男だな。この男の女房にもワシが祈祷を授けたというか?」

「あんなことを誰彼みさかいなくできるなんてなぁ、犬畜生だッ。叩っ殺さてえか、盗っ人神主めッ」

 摂夫は源次がタイミングを早まったと思ったが、もう後へは退けなかった。

「俺の目の前で、家内にもう一度同じ祈祷をして見せろッ。おまえには拒む権利はないぞッ。さぁ、やれッ!」

 まさかの夫の大声に斉子はその場に気絶した。

「よかろう。が、その前にひとつ、田所さんと言ったな、お前さんに聞いておく」

「何だッ?」

「女房どのにまだ具合の悪いところがあるか?」

 喜代沢長明の語気が少し強くなった。

 ……悪びれもせずに、こいつは平然と何を言いだすのだ……

「ワシの質問に答えろ。その後、お前さんの女房どのの具合はどうかと聞いておろうがッ」

「…………」

「なぜ黙っておる。都合が悪いと耳が遠くなるのか。医者がサジを投げたお前さんの奥方の容体が今はどうかと訊いておるッ!」

「…………」

「何事もないのだな。息災(そくさい)であれば祈祷の必要はない。須賀神社があるのは人助けのためだ。お前さんらごときに試されるためではない。日照りがつづけば雨乞いをする、雨がつづけば洪水が出んように祈祷する、旅先に不安があれば凶事のふりかからんよう祈願をする。六、七年前だったかお前さんが交通事故を起こしたとき、車にウチのステッカーが貼ってなかったろ? 祈祷はな、人助けさ」

「詭弁だッ。お前の祈祷にやましいことがあるから出来ないんだッ」

 目を覚ました斉子が割り込だ。

「ガンが治ったんですッ。あったはずの骨への転移も見当たらない、まるで時間が逆行したみたいだと不思議がっていました」

「うるさいッ、おまえは黙ってろッ。お前はこのジジイが治してくれたと本気で思っているのかッ。こいつは神主面をしてお前をもてあそんだんだぞッ!」

「やめてッ! やめてよッ! 神主さまはアタシの命の恩人じゃないのッ!」

「このワシがお前らの女房を弄んだと言うか、ふむ。どう言えばお分かりになるか。あれはああせんことにはだな……」

 老神主が言い終わらぬうちに、源次がズンと鈍い音をさせて大きなナイフを床に突刺して立ち上がった。

「そうら白状しやがった、この間男神主めッ。ただじゃおかねえッ。落し前はつけてもらうぞッ」

「武山さんも止めてよォ。神主さまに何てことをッ」

「奥さん、目を覚ましなさいよ。ご主人に申し訳ねえと思わねえんですかいッ!」

「ねえやめてよ、あなたッ。ご祈祷を不貞だと言うならアタシを離婚してちょうだいッ」

 斉子がヒステリックにわめいて泣きだした。

「どっちもどっちだが、お前さんの方が話がわかろう。女房どのはあんたの持ち物か?」

「当たり前だ、れっきとした戸籍上の配偶者だッ」

「配偶者は身分で、所有物ではなかろう」

「ツベコベ言うなッ。斉子は俺の家内だから俺のものだッ」

「ならば……」

 喜代沢が摂夫をにらむ眼に力がこもり、耳がジンと痛くなるような神鳴りが本殿を揺るがした。

「乳癌くらい、お前の手で治してやれいッ!」

「…………」

 しばらくの沈黙の後、神主はまた穏やかな口調にもどって二人の男に言った。

「なァ、女房も亭主もさ、お互いを自分の持ち物だと思うから僅かな過ちにも腹がたつ。しかし、よう考えてみい。己の自由にできない人間の命とはだれのものか。お前さんのもんでも、医者のもんでもあるまい」

「…………」

「その人間どうしが都合をつけあって生命を大事にすることがどうして過ちだよ。医者をはじめ世間はワシらの道理を分かっとらん。田所さん、それはお前さんも同じだ。その意味では気の毒だったかも知れん。いいか、ワシは逃げも隠れもせん。訴えて出るなり何なり好きにするがいい。人間がひねり出した裁判所の裁定などワシにはどうでもいい。慰謝料を払えというなら払ってやる。しかし、女房どのはワシに強姦されたと言ったのかッ?」

「…………」

 喜代沢の口ぶりは憎らしいほど自信にみちていたが、不思議に自慢のようには聞こえなかった。

「ワシにはお前さんらが金を強請ってよろこぶとは思えん。可愛い女房が古狸にたぶらかされ、弄ばれた腹いせに来たんだろう。ワシは女たちを抱かなかったとは言わん。しかし、自分の女にしようと思って抱いたのではないことぐらいは理解しろッ。おいッ、植木屋ッ。おまえの女房のときも同じことだ。お前らの女房は二度も三度もワシに抱かれたと言ったか? え、そこは確かめなかったのか?」

「…………」

「女を養うのはよ、金でも地位でもない、ましてや男の面子などであるものか」

 摂夫は身体から力が抜けていくのがわかった。

「なら、そいつは何でえ?」

 源次にはまだ声を出す力が残っていた。

「労りだよ。情愛というものだよ。お前らにそれがあれば、女房たちとてワシを頼ってなど来やせん。亭主にすがったまま息絶えられるなら女としては冥加の利益だ。その方が幸せだったかもしれん」

「…………」

「科学の探究もよい、その知識を生活の手段にするのも悪くない。しかし人間に明かされていることの何とわずかなことかよ。それっぱかりのサル知恵でこの頃の人間は生きて行かねばならんのだから、たまには神も仏もないと思うこともあるさ。よく聞け、今のお前たちはワシでなく、女房を寝取られた己の非力さに腹を立てているだけだ」

「何をッ、わけのわからねえ事を抜かしやがって」

「先ほどからお前はどうも人の話を聞いておらんな」

 喜代沢は正座をしたまま膝を三十度ばかりずらして源次と向きあった。

「試したことはないがよ、ふふふ。ワシの祈祷でお前を殺すくらいわけないんだぞ」

「お、脅そうってのかッ。薄っ気味悪い笑い方はよせッ」

「ワシが祈る。素戔鳴尊が聞き届ける。お前の身体はすぐさま変調を来す。脂汗を流しながら三日も寝込んで、そのままあの世行きだッ」

「あーっはっは。爺ィ、モウロクしたか。俺を殺せば警察に捕まって監獄行きだッ。その年で臭えメシを食いてえかッ」

「たわけッ。死んでいくお前がワシの心配などするなッ。おまえを殺してもワシは捕まりゃせんのだ。どうだ、口惜しかろう、あっはっは」

「なんだと?」

「証拠がないんだよッ。お前の死因は検察医にも分からん。呪い殺すことは科学的にあり得ないと日本の法律がそう決めておる。だからワシがお前を殺しても罪状もつかんし起訴もされん」

「人殺しが図々しいぞッ」

「法律だから仕方ないな、あっはっは」

「何てこった」

「素戔鳴尊の力は生命を救う力だ。それが生命を奪うくらいのことが出来なかろうはずがない。法律が認めようが認めまいが、神通力というものは、ある。ワシら神主は人助けはしても人殺しはせん。殺人の例がないから裁判の判例がない。祈祷による殺人は法律では扱えんのさ」

「もっと分かりやすく言えッ」

「宗教てのはお前さんらの常識や学問とは別物ってことだ。人間はどうにもならんものは他人にたよる。知識だ技術だという力をもった他人にたよる。人間はそうやって都合をつけ合うのさな。しかし、医者がサジを投げ、弁護士がソッポを向いたらどうする、おまえは死ぬか? 人間がおいそれと死ねるかよ」

「そこがおめえらの出番だろがッ」

「ふむ。どうにもならないときは己を超えた力にすがるしかない。宗教はそんな非力な人間の心に芽生えるものだから教え事ではない。見えんものは無いというのが常識のご時世だから、ワシらはうさん臭いインチキ手品師くらいにしか見られてない。医者や弁護士は役割どおりの結果を出すからアテにされる。ワシも医者だったらと思わんこともない。しかしな、女たちが常日頃アテにしておるのは医者や弁護士ではないぞ、大黒柱のおまえら亭主だ。その亭主の支えがアテにならんから女たちは不安になってすがりつくものを求める。女たちが医者を通り越して半気違いのワシに祈祷をたのみに来る。責められるのは誰だ。お前らがしっかりすればいいことだッ」

 摂夫はうなだれた。源次はウーッと喉を鳴らして目を白黒させた。

「田所さんな、やり直すなら女房どのを見直せよ。それだってお前さんの命のあるうち、斉子さんの命のあるうちさ。寿命なんて誰にも分かりゃせんのだから」

 源次はいつの間にやら姿を消していた。


 (十一)


 家への帰り道、夫婦は無言だった。

 斉子は喜代沢長明がこんな形で真相を明すとは思ってもいなかった。自分が告白しなければ夫には知られないと思っていた。明らかになってしまったことの大きさにうろたえるだけで、先のことを考えようにも考えがまとまらない。頭の中を離婚の二文字だけが駆け巡った。遠くない将来に別れることになるだろうが、春香のことを思うと心が痛む。娘には気の毒でも、いっそ運命だったと癌で死んだ方ほうがよかったのかもしれないとまで考えた。

 摂夫の心も重かった。悪夢が現実だったという衝撃というよりは、自分の手で突き止めた原因がこれから斉子にどう対処すべきかの答を迫ってきたからだった。事態は妻と喜代沢を責めて解決する段階を通り越して、自分の在り方の問題に変貌していた。

 斉子が夫の前にまわりこんで顔をのぞいた。

「あなた、この先どうするの?」

「考えている。考えなきゃならん……」

 摂夫はそう言ったきり口を噤んだ。

 それからの摂夫は、書斎に引きこもり、斉子と顔を合せる食事を避けるようになった。朝には仕事に出ていくが、連日のように酔っ払って帰ってきた。いちいちの動作が荒っぽく投げやりで、絶えずいら立っている。斉子が気づかった言葉をかけても迷惑そうな顔をプイと横に向けてしまう。会話の絶えた夫婦に気まずい時間ばかりが過ぎていった。

 夫が閉じこもる書斎は出入り禁止になって、斉子は洗濯、食事、家中の掃除をしかやることがなくなった。摂夫は何日たっても別れ話を切り出さなかった。かつて斉子を愛し、彼女の方からも愛した男は離婚届を突きつけて他人になろうとさえしなかった。乳癌で失う命を取り留めたというのに、その甲斐もない形だけの生活が続いた。


 ……喜代沢は原因が俺の来し方にあると言った。あいつの言うことがまんざら外れていないせいで俺は腹がたつのか。たしかに俺はいつからか斉子を居て当り前の女だと思って来た。俺を裏切る女だと思ったことなど一度だってありはしなかった。俺は斉子に安心しきっていた。その安心は無意識の信頼で、人間はだれだって安心したいのだ。改めて意識しなければ信頼は消極的にしか見えない。でも、俺に愛情がなかったとは言えないぞ。それをあの男は、人間の本質には必要に迫られないと知り得ない部分があって、そこを俺が見過ごして放ったらかしたのだと言いやがった。斉子の上っ面しか見えていないと言いやがった。大きなお世話だ。そんなことが俺の信頼を裏切っていい理由にはならない。何よりあの古狸は当事者だ。女房を寝取ったうえに説教まで垂れやがって。俺としたことがまんまと言いくるめられたってわけか……。

 そんな堂々巡りがつづいて一ヶ月ほどした頃、摂夫は中間試験の答案を採点していてがく然とした。生徒たちの出来が悪すぎる。彼は舌打ちしてつぶやいた。……化学式と計算ばかりだからな、出来ない生徒が出るのも当り前さ……。

 生徒の出来の悪さを教科のせいにしたその一方で、斉子のことに頭を占領されてまともな授業が出来ていなかったのではないかと気弱く反省もした。彼は授業の目先を変えて、科学者の伝記からエピソードのひとつも紹介してやろうと考えた。書棚から引き抜いたマイケル・ファラデーの『ろうそくの科学』に次のようにあった。


 当時すでにイギリス王立研究所教授として名をなしていたファラデーのもとに、世界各地から若い研究者が集まっていた。ある日、ファラデー先生はわずかな量の液体試料を試験管に取り、研究者たちに分析するように命じた。しかし、化学に自信のある研究者たちが何度も実験をくり返しても目ぼしいものが何ひとつ出てこない。こんなはずはない……。若い研究者たちはとうとうファラデー先生にお伺いを立てた。「先生、この試料はただの水です。検出されるのはわずかな塩分だけです。私たちの実験は失敗だったのでしょうか?」「いや」と先生は答えた。「それは最愛の娘を幼くして失った若い母親の涙です」


 ……いい話だな。科学は未知のものに謙虚でなければいけない。でも化学を勉強したからって無感動人間に思われちゃたまったもんじゃないからな。生徒も俺の感じたと同じものを感じてくれれば……。

 摂夫がメモをとって構想をまとめているところへ高校に受かってうれしさを隠せない春香が入って来た。

「お父さん、ごはんッ!」

 ダイニングに行くとテーブルには春香の合格祝いの膳が並んでいた。

「春香、おまえが高校で勉強できるのはお父さんのおかげなんだからね、ちゃんとお礼を言いなさい」

 斉子は言ったが、心には途切れぬ雲がかかっているようなくぐもった声だ。

 摂夫は食事をすませた。

「斉子、おまえ風邪でもひいたか?」

 それだけ言うと彼は食器を重ねて席をたって行った。

 斉子は重ねられた食器を見つめて大粒の涙をボロボロとこぼした。……ありがとう……。

 彼女は夫の一ヶ月の苦悶の跡をそこに見た。……癌を治したい一心とはいえ迷ったのはアタシだ。アタシのしたことは「婚姻を継続し難い重大な事由」だった。夫がそうすると言えば離婚は止むを得ない状況だった。それを夫は踏み止まったのだ。苦しかったでしょう……。

「お母さん、どうしたの?」

「うれしいのよ」

「そう、私、うんと勉強するねッ」

「そうね、頑張るのよ、春香」

 斉子には夫が言っていたように、自分にはもともと乳癌などなかったようにも思えてくるのだった。


 (十二)


 夫婦に平穏な日々がもどり、二人のお互いに対する愛情は以前にもまして細やかになり睦みあうようになった。二人とも乳癌のことは忘れてしまったかのように口にしなかった。家族に三年の歳月が何事もなく過ぎて、春香は八王子の薬科大に進学することになった。

 制服を脱いですっかり女性らしくなった春香を見送りに両親は上越線沼田駅のホームに立っていた。

 春香が一人前の口をきいた。

「お母さん、お父さんのためにも少し痩せたほうがいいわ。お父さん、お母さんの言うことをちゃんと聞くのよ、わかってるわね?」

「春香、何事も自信を持たないとな、思った成果はでないもんだ。しかし、過信するとミスに気づかず失敗する。勉強も人生も簡単じゃないな。ま、とにかく頑張ることさ」

 摂夫も父親らしくはなむけの言葉を言った。

「うん。田所春香、志を立てて郷関を出づ。学もし成らずんば、なぁんてネガティブには考えないッ。あっはっは」

「元気なのはいいけど、おまえの一人暮らしってのは危なっかしいねぇ」

「ドンマイッ! すぐに根性のありそうな友だち見つけるから」

 娘の列車が見えなくなるまで見送って、二人は二人っきりになった。

「あの娘がひねくれずに育ってくれたのは有難いわ。でも、さびしくなるわね」

「俺たちは俺たちで楽しみを見つけるさ。まだまだ老けこんじゃいられんよ」

 摂夫は五十一才、斉子は四十八才になっていた。月日は平穏のうちに過ぎていくように思われた。


「なんだってッ!」

 摂夫は耳を疑った。斉子から妊娠したようだと告げられたのは晴天のヘキレキだったとはいえ、彼には身におぼえのあることで、彼女が身ごもったのは彼の子に違いなかった。

「まだ何とも言えないけど」

「更年期の生理不順ってことはないのか? なんで茶碗を伏せなかったんだよ、まったく」

 斉子は摂夫が食器を重ねるたびに受入れて拒まなかった。春香につづけて子供が欲しかった斉子には茶碗はどうでもよかったし、摂夫が妻の排卵期を覚えているはずもなかった。つまり、いつ妊娠しても不思議でない期間が十八年あっただけのことだった。

 斉子は未確認の妊娠を離婚の危機を乗り越えた夫婦を神さまが祝福してくれたのだと手放しでよろこんだ。

「はっきりしたらさっそく春香に知らせてあげなきゃね」

「何をのんきなことを言ってるんだ。おいッ、冗談じゃないぞッ」

 性格というのはつくづく変わらないものだと摂夫はため息をついた。斉子と結婚したのも、細かいことばかりが気になる自分と正反対の、彼女の大らかさに惹かれてのことだったが大らかさとダラしないさはイコールではない。

「都合の悪いことなんて一つもないでしょ? 春香がいなくなって寂しくなったところだもの、ちょうどいいわ」

「どこがちょうどいいんだ。こういうのはお目出度とは言わないんだ。まったく信じられん」

「よろこんでくれないの?」

「春香はもう大学生だぞ。おまえ、いくつだよ。高齢出産が危険なのは常識じゃないか。何でまた……」

「アタシなら実年齢よりもずっと若いし、いたって丈夫よ」

 母体の健康もなくはなかったが摂夫は世間体を考えると気が重くなった。……早い夫婦なら孫がいてもおかしくない年齢だ……。

「どうにかならないかよ。世間じゃみんなそうしてるんだから、な?」

「アタシ、産めますよ」

「産めるだろうけれどさ、恥かきッ子だって笑われるぞ」

「何てこと言うのッ! 神さまが祝福してくだすったものを」

「そうには違いなかろうが、その……」

「夫婦に子供が出来てどこが恥よッ。そんなふうに考えるあなたのほうが恥ずかしいわッ」

「しかし世間じゃあな……」

「何よッ、世間だの常識だのって。常識なんていざとなったらアテにならないくらい常識よ。世間のほうが間違っていることなんかいくらだってあるんだからッ。亜希子さんも久枝さんもきっと口惜しがって羨ましがるわ。女なら誰だっていくつになったって産みたいものよ」

「羨ましがるのは表面だけさ。腹じゃ俺たちを年甲斐のないバカ夫婦だってせせら笑うんだぞ」

「笑いたい人には笑わせておけばいいわよ。アタシのお腹に愛する人の赤ちゃんがいる……このうれしさは女にしか分らないわよ」

 斉子から愛する人と言われてドキッとした。深く長いため息をついた。……俺が斉子を愛している? 斉子に子供が出来るようなことをしたのは俺があいつを愛しているからなのか……。


 二人して深田伊産婦人科に診てもらいに行くと、斉子の胎児は十四週目で順調に育っていた。春香を取りあげた初代の院長は現役を退いていて、息子の代になっていた。二代目院長は眉根にシワを寄せた。

「出産はお勧めしません。高血圧が心配です」

 高齢出産は母子ともにリスクが高いと常識的なことをくどくどと言われた。

「もう一度よく話し合われた上でまた来院してください」

 医者の言葉はていねいでも、堕胎手術なら引き受けますというのだ。斉子は別の医者を当たってみると言ったが、摂夫は黙っていた。

「医者が何百人、何千人の妊婦を診てきたか知らないけど、アタシにはこの一回なんだから」

 二人は帰宅して話し合った。

「堕ろせというの?」

「今までずっと三人だったんだ。子供が出来なくても今までと変らないじゃないか。おまえに間違いでもあったら俺が困る。なにぶん医者の言うことだしデータがそうなんだから、おまえを危険な目に遭わすわけには行かない」

「だいじょうぶ、素戔鳴尊さまがついているから」

 摂夫はドキッとした。

「おまえ、まだあの神社に通ってるのかッ!」

「命を助けてもらっておいて、喉もと過ぎたら感謝もしないなんて罰当りは出来ないでしょ」

 斉子は産むと言って譲らなかった。意見が分かれた。

 ……またスサノオさまか。済んだことだと決着をつけたつもりでいたが……。苦しんで、踏ん切りをつけて、やっとここまでこぎ着けて克服したつもりでいたが……。あのときの俺は、ライターや万年筆のように馴染んだものへの愛着から斉子と離婚するのが惜しかったのか、それとも過ちを犯すこともある生身の女として再び斉子を愛し始めたのか。よく分らない。たぶん両方だ。俺はひとまわり大きく斉子を包もうと努力はして来たつもりだが、やはり世間を恐れて離婚を恐れいてだけか……。

 摂夫はまたスサノオに打ちのめされるのかと思うと自分の非力が情けなかった。

「斉子、今は神話の時代じゃない。優生保護法は現代の常識だ。ごく普通の夫婦が母体保護のために人工中絶するんだ。余分な危険を回避する人間の知恵だ」

「そんな法律、必要のない人間に押しつけられても迷惑だわよ」

 摂夫が恐れる世間体の悪さなど斉子は一向に気にかけていないのだ。

「だから、世間は何もしてくれないし常識は当てにならないと言ってるのッ。恥かきッ子っていうのは世間におもねて自分がへり下って使うのよ。他人からそう呼ばれる筋合いはないわ。幸せに妊娠して出産した経験のある女なら誰だって恥かきッ子なんて呼びやしないわ。遅れてやって来た祝福を恥ずかしいだなんて」

 摂夫は妻を思いとどまらせることができなかった。

 人は自分の力が及ばないとき、常識に頼るのか、自分の内なる声に従うのか──。

 常識の側につけば、彼の世間体がいよいよまずくなり妻の分まで恥かしい思いをするのは目に見えている。世間のやつらは恥かきッ子に興味がなくなるまではバカにするだろう。摂夫自身が見下したくなるような連中からバカにされることは彼のプライドが許さない。彼は世間の嘲笑をかわして自分の面子が立つ方法を考え出さなければならなかった。


 (十三)


 摂夫は心に浮かんだ思いつきに呆気にとられて思わず苦笑した。次の瞬間にはその愉快さに声をあげて笑い出しそうになった。家庭で何事か方針を決めるのに妻の意見を採ったことなど一度もなかった彼が、妻の考えにそっくり従おうというのは百八十度の方向転換だった。……世間にバカにされる前に自分からバカになってしまえばいい。これが世間で言うバカになるってことだ……。

 斉子はかつてニンニクの臭いが気になるなら自分がニンニクを食べるのが一番の解決法だと乱暴なことを言ったことがある。そのときは鼻先で笑って聞き流していたが……。

 こと生命に関してはどう考えても殺すより生かすのが基本だ。斉子のが正論だ。びくびくもおどおどもすることではない。笑うやつには笑わせろ、それでいいではないか、それがいいではないか。女房の好きな赤烏帽子と言われようと何と言われようと、一心同体の夫婦とはそういうことだ……。

 摂夫には斉子の自信が何ともたのもしく思えて来た。重苦しい黒い霧がすっきり晴れて視界が開けたようだ。周囲に気づかい神経をすり減らしてやってきたが、特別な恩恵にあずかったことはない。自分がバカになれれば、どだい世間の思惑なんてものは……。


 彼は妻の顔を正面から見据えて言った。

「わかった。産んだらいい。生まれてくる子を祝福しよう。ただ、春香に知らせるのだけは少し待て。あいつもまだ学校に慣れなきゃならん時期だ。なに、夏休みに帰省したらでかい腹を見せて驚かせてやりゃいいさ、あっはっは」

「春香はあなたの子よ、十八が二十五はなれていたってきっとよろこぶわ。弟かしら、妹かしらね。ふふっ」

 摂夫は妻の顔がラファエロの描く聖母のように見え、自分の心がはっきり一まわり寛く大きく強くなったと実感した。人から問われたら、第二子ですとキッパリと言ってやろう。気持ちの持ち方ひとつで手に負えない世間の思惑も実体のないものになる。準備を整えて戦うまでもない。窮すれば通じて案ずるより産むが易しの無手勝流だ。

 妻の信念が自分のなかにも自信になってみなぎってくるのは悪い気分ではない。彼は一種すがすがしい気持ちのうちに喜代沢長明・素明父子のことを思い出していた。

 ……俺は常識で勝てると踏んで喜代沢長明に対決を挑んだのだった。そして、自分の狭量さに腹を立てているだけだと言われると反論ひとつできず引き下がった。あの日、神社から戻って俺は地団駄ふんで口惜しがったのだった。今また斉子に反対してちっぽけな我を通してどうなる? 素明は長明が五十二のときの子だからたいしたオヤジだったわけだ。神主は半気違いだと自嘲していたが、生命は誰のものでもないと言った。何事も生命のあるうちだと言い切った。喜代沢の信念は常識にうち克っていたのだ。東大へ行った素明もそうした父親が誇りだったからこそ、父親と同じ宗教家になると言ったのだろう。


 夏休みが始まるころ春香から家に電話が入った。斉子は夕方の買い物に出ていて摂夫が電話に出た。

「意欲さえあれば一年生でも参加できるっていうの。そう、集中講座よ。自信のない私としてはさ、ここでしっかりやっておきたいわけ。卒業単位を心配しながら国家試験を受けるなんて芸当できないもの、はっはっは」

 春香は電話の向うで快活に笑った。夏休みの終りの頃に数日だけ帰省するという連絡だった。

「俺に似ておまえ、がんばり屋だな。すっかり大学生だ。わかった。身体に気をつけてな。お母さんには伝えておく。八月の末には帰れるんだな?」


 (十四)


 体格のいい斉子の妊娠は目立たなかった。目立ってうわさになる前に彼女はあっけなくこの世を去った。クモ膜下出血だった。娘からも太り過ぎを注意されていたが、女性の体型はこういうふうになるものなの、フェミニン・フィギュアってもんじゃないのと笑って取り合わなかった。

 医者に斉子の臨終を告げられて、摂夫は改めて気づいたように妻の腹の中の子のことを尋ねた。

「妊娠してたッ、え? 十八週?」

「たしかそうだったと……」

「十八週だと取り出しても自発呼吸できません。お母さんがあとひと月半もっていれば、赤ちゃんだけは何とか……」

 医者は聴診器を耳から外して首を振った。

「超音波で診るまでもないです。お力落としのことでしょうが……」

「十二週を過ぎてますから胎児のほうも死亡届を出さなきゃいけませんが、どうします?」

「どういう意味ですか?」

「子宮口を開けて赤ちゃんを取り出しますか? これくらいのもんでしょうが」

 医者の親指と人差し指の間は一〇センチほどしか離れていなかった。

「普通は取り出すもんなんですか?」

「さあ。通常分娩なら戸籍との関係も出てきますが、胎児の死亡届は市から火葬許可をもらうだけです。いっしょがいいですね。別々だと火葬が面倒というよりかわいそうです」

「はあ……」


 春香が母親の葬儀に帰省したのはお盆の最中だった。列車はのろのろと走って春香は苛々し通しだった。八王子→西国分寺(武蔵野線)→武蔵浦和(埼京線)→大宮(新幹線)→高崎(上越線)→沼田で新幹線はたったの三駅しか通らない。同じ関東平野かと思われるほど不便この上ない。車なら関越自動車道を一本なのに三時間、六千円かかる。同級生のように高校時代に免許を取らなかったことが悔やまれた。

 上越線が雷にやられて途中で止まったと言って、春香は通夜の客があらかた帰った夜中の斎場に現れた。上越線の電車に閉じ込められた何時間かで春香は亡霊のようにやつれていた。亡霊は泣きながら摂夫の胸を拳で叩いた。

「なんで、ちゃんと見てあげなかったのよッ」

「すまない。まったく急だったんだ」

「そうよね、お父さんにもどうにもできなかったのよね。そうよね……」

 棺におおいかぶさるようにして春香は、返事をしない母親に何度も何度も呼びかけた。


 翌朝、美容師が斎場に出向いて来て春香や親戚の女たちの喪服を着付けた。春香はこの時はじめて大人の着物を着た。スキなく着付けられた喪服が成人前の春香をいっそう痛々しく見せた。

「気を落さないでね。これからは何でもおばさんが相談にのるから、いい?」

 武山亜希子の言葉に春香はハラハラと涙をこぼしてやっと答えた。

「おばさん、ありがとう。よろしくお願いします」

 春香は棺の脇に喪主の摂夫と並んですわり弔問客に頭下げつづけた。出棺の時刻になると、父と娘はそれぞれに白木の位牌と遺影を胸前に抱いて、棺を乗せた市のマイクロバスで火葬場に向かった。

 母と胎児はいっしょに()()に付された。いちばん先に骨揚げをすませた喪主の摂夫と春香は、親戚の群れを離れて、乾燥した空気が異様に熱い拾骨室の隅に引き下がった。愁嘆の場で腑抜けたように虚ろな表情な摂夫の姿が哀れだった。二重の喪失感に耐えなければならない摂夫は感情というものを喪くしていた。親戚縁者も彼の様子に斉子への愛情がそれだけ深かったのだろうと新たな涙をさそわれた。

 彼は母親を亡くした春香に、弟か妹がいっしょに焼かれたとは言えなかった。十八週の胎児は斉子の腹の中にいた証拠を一片も残さず消えていた。

「初七日まではいたほうがいいんでしょう?」

 春香が父親に尋ねた。

「親戚にひと通りの挨拶ができたならそれでいいさ」

「でも、それじゃあ……」

「いいから東京に帰れ。集中講義も後半が残ってるじゃないか。お前がどれほど悲しんでもお母さんはもどりゃしないんだから、な」

「そりゃそうだけど……」

 摂夫は翌日の朝、追い立てるようにして春香を東京へ発たせた。


 (十五)


「ひとり暮らしでやることもないから、これからはせいぜい東京へも出かけるようにするよ」

 春香から電話が来るたびに摂夫はそう言ったが、ついに彼女の卒業式まで一度も東京には行かなかった。斉子の命日と限らず墓所に出かけては、掃除や草むしりをした。彼は花を手向けて墓の中の妻に語りかけた。

「……おまえがいなくなってから言うのも何だが、俺たち夫婦の相性はそれほどでもなかったな。でも、おかしなもんでおまえが死んでから、ますますおまえのことが好きになってるんだ。……そんな迷惑そうな顔をするな。…………いや、過去にとらわれてセンチメンタルになったわけでもない。おまえといっしょに生きて解らなかったことの一つ一つを今さらながら知りたいと思ってな。……おう、春香のやつが薬剤師の試験に通ったぞ。さすがに俺の娘だ。……そうだな、おまえの娘だ。……学生寮を出るので、後輩たちに形見分けのようなことをしてるってさ。……卒業式に迎えに行っていっしょに沼田に帰ってくるよ。……市立総合病院に勤めることになったのさ、沼田のだよ」

 彼は自身の心境の変化についても妻に報告していた。

「……生身のおまえがいるうちは考えたくもなかったが、頼るたよらないは別にしてさ、人間、どれだけ力もうが口惜しがろうが敵わないものには敵わない。チョーメイさんな、おまえの一週間後に死んだよ。……乳癌のときは俺も気が狂ったように腹をたてたが、あの人には教えられた。思い上がった自分をようやく譲れるようなったかと思ったときには、おまえがいなくなっていた。命あるうちってのは本当だな。……霊なんて信じなかった俺が、おまえの霊魂だけはいれくれなきゃ困ると思うようになった、ははは。……春香か? 俺から呼び寄せたりするもんか。あいつから田舎に帰るって言ったんだ。老人をいつまでも一人にしておけないとさ、おまえそっくりの口をきく、ははは」

 摂夫は斉子の生前以上にことば数多く彼女と自由に会話した。一人暮しの寂しさから身についた習慣にしても、斉子のセリフは摂夫の自作ではない。彼は墓参りに来て故人に話しかける人を見ると何故かほっとした。さすがに妻が夜空のお星さまになったとは思わないが故人との会話はこの世を去った人への思慕が紡ぎだす幻想やでっち上げの一人芝居ではないと実感するようになったからだ。人間はかけがえのないものを失ってでないと分らないものがやはりあるらしい。

 ……田舎に帰って来るんだからな、ムコさんを探してやらにゃ。……決まってる? ウチに婿入りしてくれる? そんな都合よくいくもんかよ、はッはッは。……俺がびっくりする相手ねえ、そりゃ早く会わにゃなあ」


 (十六)


 玄関のチャイムが鳴って、つづいて春香の声がした。

「お父さァん、ただいまァ」

 ……春香が男を連れて来た。いよいよだ……。

 春香の意中の男がついに我が家に足を踏み入れたと思ったとき、摂夫は忘れ物を急に思い出したような焦りにとらわれた。焦りはすぐさま不安になった。やはり興信所にたのんでつぶさに検討すべきではなかったか。……春香も二十八だ、もう大人だというときの俺は春香のことをどこまで知っていたのか。娘の意志を尊重してプライバシーに干渉しないなどというのは物分かりのいい父親を演じただけで、親としての責任を果たしていなかったかもしれない。人から悪く思われたくないと気にしすぎる性格が、嫌われる(しゆうと)になってはたまらんと姑息な計算していたのだろう。軽率だったな……。当人のことだからと一生の問題を娘まかせにしておいたのは、医者というだけで人物を確かめる前から納得していたことは否めない。さらに、斉子のように考える、鵜呑みにするほうが摂夫には何としても楽で心地よかったのだろう。

 それが父親としての摂夫のこの期に及んでの反省だった。

 ……今日は首実検だ。春香との結婚を許す・許さないは即答しなくていい。相手が何者だろうと気圧されることはないぞ、婿に入ってくれるからといっておもねることもない。父親としての威厳を示さねば……。

「田所先生、ごめんくださいッ」

 堂々と低い男の声に摂夫は脈拍が速まった。

 摂夫は二人に聞こえるように大きな咳払いをして玄関に迎えにでた。

 青年は頭をさげていて顔が見えなかった。

「お父さん、私の素明(もとあきら)さん。心療内科と漢方を掛け持ちでやってる喜代沢先生よ」

 春香の声を合図にしたように青年が顔をあげた。高校時代の面影を残しながら、素明はすでに患者の信頼があつそうな医師然とした顔になっていた。

「お久しぶりですッ」

 彼は胸を張って摂夫の前に握手を求めてサッと右手を突き出してきた。摂夫はその強引さが少し不快だった。

 ……受入れるか拒むか、いきなり答を出せというのか。生意気なところは昔と変わらんな。こうやって自分から場の流れを作る人間はどうも苦手だ。流れを変えられない俺は気がつくと流されている。力のある者には敵わないってことか、春香は斉子の血をひいているんだしな……。

「君は宗教家になると言って東大へ行ったのじゃなかったかい?」

 ためらいながら差し出した摂夫の手は素明の右手にしっかりと握られた。(了)



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