07・侯爵令嬢テュエラ
――嘘でしょう……?
驚愕したローズは、シルクの手袋に包まれた手をそっと唇に押しあて、目をそらした。
たまたま視界に入ったリムネー公爵夫人。
なんとなく、そちらへと目をやれば、彼女と一緒に彼がいたのだ。
伯爵家の三男、魔法学院にいるはずのハウエルが。
たしかに学園と違い、学院は王都にある。
けれども、ヒース・ネグリエス卿は弟が学院の研究所や図書館に入り浸り、休みも帰ってこない、と愚痴をこぼしていたはず。
なんで、どうして、とローズは狼狽えた。
嫌なわけではない。嫌なわけではないが……。
自分の髪型やドレス、化粧が気になって、確認したくてそわそわする。
不安から、自然と顔がうつむいてしまう。もう一度、彼の姿を確認したい思いに駆られるが、ぎゅっと手を握りしめて、自分を抑えた。
「どうかしましたか?」
「え?」
口許に手をあて、少しうつむいたままだったローズは、具合が悪そうに見えたのだろう。
取り巻きの一人が心配そうに声をかけてきた。ローズは顔をあげて、目を瞬く。
――私ったら、何をしているの?
今シーズン中には、この中から結婚相手を見つけなければならないのだ。ぼうっとしている暇はない。
本当は、家の損得で決めてしまおうかとも思っていたのだが、今となってはそれもできない。周囲の期待が、おかしな程に上がっているのだ。
最近では、誰もがさり気なく「誰を選ぶのか」と詮索してくるようになった。
ローズは曖昧に笑ってごまかしてはいるものの、言葉を濁せばそれだけ相手は饒舌になる。
――あの方なら、誰もが認める紳士ですもの。彼を選ぶのかしら?
――あちらのご子息は、その手腕をかわれて、すでに伯爵から一部の領地を任されていますの。ああいった、才能ある方はステキよね?
――あの侯爵のご子息だけれど、容姿も人柄も良くて評判なの。貴方はどうお思いになって?
話しかけてくる間、誰もが彼女の表情を窺い、反応を見極めようと躍起になっている。
話の内容から察せられるのは、彼女の選ぶであろう相手は、完璧な紳士に違いない、という期待だ。
まず、そこそこの地位を得るであろう人物であるべき。そして、見た目も素晴らしく、誰もが認める人格者。そして、頭がよく、何か飛び抜けた才能を持っている。
――そんな眉目秀麗な聖人君子、どこにいるのかしら……?
あり得ない人物像に呆れてしまう。
そんな人物がこの国に、一人でもいるだろうか。もし、そんな紳士が目の前に現れたら、ローズはさっさと自分から求婚して、この茶番を終わらせてしまうだろう。
それほど、周囲の期待は重いものになっていた。
「いいえ、何でもないの。すこし、ぼうっとしてしまって」
ローズは取り繕うように、小さく微笑んだ。
落ち着いて考えれば、ハウエルがいるのは不思議でもなんでもない。彼の事を知っていれば、予想できたはずだった。
社交シーズンが始まる前までの、公爵邸の大工事。リムネー公爵夫人が大掛かりな魔術を使った部屋を作るらしい。前から、そんな噂が流れていた。
魔法馬鹿なハウエルだ。彼なら、実物を見ようとするに決まっていた。
――気にしないわ。ちょっと、昔の知り合いにどう見られるか、気になってしまっただけよ
そろそろ次のダンスが始まるが、相手は先程、追い出した青年だ。
どうやら、気まずくて迎えに来られないらしい。ずっと取り巻きのお喋りを聞かなくてはならないことになり、ローズは失敗したと落ち込んだ。
ダンスは大好きなのだ。
お喋りから逃げられるチャンスでもあったのに、と残念に思っているとワルツの曲が流れ始める。
明るく、軽やかな曲を耳にし、ローズは思わずため息をついた。
――こういう時に限って、私の好きな曲なのね……。
すこし恨めしい思いで、取り巻きの隙間から視線を外にやる。
すると、様々な色が行き交う中、赤い髪と緑のドレスが横切っていくのに気づき、目を見開いた。
慌てて視線で追えば、ハウエルがシェリエと踊っているのが見えた。
満面の笑みのシェリエと、無表情のハウエル。
赤の他人は気づかないだろうが、彼は大分柔らかい顔をして機嫌が良さそうだ。
――いいなぁ……。
あまり見つめていると変に思われるので、さりげなく目をそらす。
そらした先では、一人の青年の話に皆が笑っており、咄嗟に合わせるようにクスクスと笑った。
内心は帰りたくてたまらないが、まだ帰るには早すぎる。せっかくのリムネー公爵夫人のパーティーなのだ。楽しまなければ損だし、こんなに早く帰れば失礼だ。
笑顔を貼り付けて相づちを打ちつつも、逃げ場を探し、さりげなく周囲を窺う。
そして近くに友人を見つけ、パッと明るい笑みを浮かべた。
「あら、ごめんなさい。お友だちを見つけたので、ちょっとご挨拶してくるわ」
心底、嬉しそうな声で暇を告げる。
そこでほとんどの者が付いてこようとしたのだが、視線の先にいる人物に気づいて足を止めた。
一転、小声でボソボソと言い訳をしながら、蜘蛛の子を散らすように去っていく。
――あぁ、テュエラ! 大好きよっ!
ローズは内心、喝采をあげながら、ゆったりとした足取りで少女のもとへ向かった。
「ごきげんよう、レディ・テュエラ。お久しぶりね。王都にはいつご――」
「ローズ! 私の事を番犬がわりにするのは、いい加減お止めになるよう、以前もお願いしたはずよ!」
ローズの穏やかな物言いとは対照的に、少女はピシャリと高圧的に話を遮った。
スラリとした長身に、紺碧のドレスを纏った黒髪の少女。身分的にはローズより下であるのに、遠慮のない物言いだ。
「あら、番犬だなんて……。そんな風に思ったことは一度もないわよ? あと、人の話を遮るのは感心しない……」
穏やかに微笑を浮かべて話を続けるローズを、疑るように睨み付けていたテュエラは、一段、声を低くし、よりトゲトゲしく問い詰めた。
「……あら、そう。犬じゃなくて、猫だったわけ? たしかに、猫に襲われたネズミそのものね?」
逃げ去った紳士たちを思い出したのか、不愉快そうに目を細める。
漆黒の髪に覆われたほっそりとした顔のなかで、金色がかった緑の瞳が眼光鋭く光る。
不機嫌な猫のようなその表情に、ローズはそっと微笑んだ。
本当に猫なら、牙を剥いて、尻尾を膨らませたのかもしれない。
そんな想像をし、思わずくすくすと笑ってしまう。
その顔を見て、テュエラはますます不機嫌になった。
「否定しないのね? あなた、本当に良い性格してるわ」
細身で背が高い彼女が上から睨み付けてくる。
ほっそりとした顎と黒く長い睫毛に縁取られた、切れ長の目。
どちらかと言えば、キレイめな顔立ちの彼女だが、表情は厳しく、物言いも辛辣なため、男性たちの受けはよくない。
とても高慢な侯爵令嬢なのだ。
彼女をローズの友人だからと踏み台にしようとした者や、愛想を振り撒く者。そんな明け透けな者たちを、舌鋒鋭く、容赦なく切り捨ててきた。そのせいで、恥をかきたくない紳士たちに遠巻きにされてしまっている。
「ふふっ。猫みたいで可愛いと思ってしまって。それに、友達ですもの。不必要な嘘なんかつかないわ」
ローズの言葉に、テュエラはひどく嫌そうに顔を歪めた。
「ローズの言う可愛いには、裏しか感じないわね。しかも、後半はどこに突っ込みをいれればいいのかしら?」
友達でなければ、平気で嘘をつくのか。必要であれば友人だろうが嘘をつくのか。どちらにしろ、柔らかな笑みに反して黒い発言だ。
「いやだわ、テュエラが考えすぎなだけよ。ただの言葉の綾だわ」
「あと、ここまで言われて嬉しそうなのも、大概、気持ち悪いわよ」
ちっともダメージを受けないローズにテュエラは渋い顔をする。そこで、やっとローズの表情が物憂げなものへと変化した。
「あぁ、それは……。最近は、未婚の女性たちとその家族の女性陣が、ちょっとね」
ローズは二年もの間、人気の男性たちを独り占めしてしまっている。
人気者なのが、自分や自身の娘でないことに腹を立てた女性たちの、陰険な物言いときたら酷いものだった。
根本にあるのは、デビューした令嬢自身が結婚できないことや、想い人がローズに夢中なことに対しての妬みでしかない。
けれども、口では善悪の問題かのように、ローズの振る舞いについて批評する。
だが、言葉をどう取り繕おうと、妬みから出る言葉には、その一つ一つに薄汚く、どす黒い感情が滴るほどに含まれている。見るものが見れば、真実は明らかだ。
陰口や嫌味に限らず、愛想笑いと共に出される社交辞令にすら、悪意が垣間見えるのだから嫌になる。
対して、テュエラの物言いは気持ちがいい。
正しいかどうかはともかく、不快だ、腹立たしい、と真っ正面から言葉をぶつけてくる。
否定の言葉ゆえのキツさや鋭さはあるものの、なれてしまえば意外と気にならないものだ。相手を貶めようとしている訳ではないのが分かるからだろうか。
「……なんとなく、察したわ」
テュエラは残念なものを見るような視線を向けてくる。失礼ね、とローズは不満そうだ。
「前々から、気になってはいたのよ。私のこの物言いで、なんで貴方が親しげなのか」
優しい子がいなくて、残りが刺々しいのと、陰湿なのしかいないなら、トゲトゲがいいに決まっている。なんて酷い二択だろうか。
「待って。もう一つ、忘れているわ」
“触らぬ神に祟りなし派”というのを忘れてはだめよ、とローズは言う。
ほとんどの者は遠巻きにするだけで、陰湿令嬢たちは極一部の過激派らしい。
大真面目に語るローズを、テュエラはなんとも言えない顔で見つめ、大きくため息を吐いた。
「なんだか、そのいかにもな天使の見た目も、面倒くさいばかりで良いことないわね。好きでもない男ばかり寄ってくるわ、女は嫉妬に狂うわで」
「……」
沈黙が続くことを不思議に思い、テュエラがローズに視線をやると、ローズにしては珍しく、隙だらけのポカンとした顔をしていた。
「どうしたの? マヌケな顔をして」
「どうして?」
テュエラは首をかしげる。
「どうして、男性が寄ってくるのが面倒だと思ったの?」
「はぁ?」
表情には出していないはずだと言うローズに、馬鹿なの? と、テュエラは顔だけで雄弁に語ってみせる。
「あの中に、好きな人がいればとっくに結婚してるでしょ。恋愛結婚する気がないなら、なおさらよ」
「えっと、そうじゃなくて……。ほら、噂だと、私は完璧を求めてるって話だわ。人によっては、男を侍らせて楽しんでるとか、焦らして遊んでるとか……」
テュエラは、酷く嫌そうな顔をした。
「それって、陰湿な過激派が言ってたの?」
わかってないわねぇ、と呆れた様子だ。
「それはないわよ。貴方って、意外と生真面目なところがあるし。男を侍らせて、のほほんと楽しめるタイプじゃないでしょ」
ローズは愕然として、言葉を失った。
――のほほんと、楽しむ……。
注目されて、騒がれるのを楽しむ。思いもよらない意見に、ローズは目からウロコが落ちるような思いがした。
「駆け引きをゲームのように楽しむというのも無理だろうし」
――人付き合いが、……ゲーム?
何人かのご婦人を思い出して、確かに彼らはゲーム感覚だ、とは思うものの、自分が同じようにすると思えば困惑してしまう。
そんなローズの様子を見て、テュエラは苦笑する。
「二年も一緒にいたのですもの。そのくらいは分かっているつもりよ」
ローズは目をパチクリさせた。
テュエラの柔らかな眼差しと、意外な言葉に不意打ちされ、思わず視線をそらし、頬を染める。
「そ、そう」
なんだか面映ゆく、緩む口元を手で隠す。
気を抜けば、へらへらとだらしのない笑みを浮かべてしまいそうだった。
――嬉しい時は、そのままうれしーって伝えちゃう。それじゃだめ?
ふと、昔の記憶が頭を過る。赤い髪の、真っ直ぐな眼差しの少女。
――そうね、それで良いのかもしれない。
恥ずかしさをこらえ、赤い顔を上げてテュエラを見る。
そして、そのままへにゃりと笑み崩れた。
「ありがと、テュエラ。……とっても、嬉しいわ」
「!」
テュエラは真っ赤になって絶句する。
その様子にいつかの自分を思い出し、ローズは楽しそうな笑い声をあげた。